埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百九回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その8>明治の仏像模造と修理 【模造編】

(8/9)



【目次】


1.はじめに

2.明治の仏像模造〜模造された名品仏像

3.模造制作のいきさつを振り返る

(1)仏像模造に至るまで
(2)岡倉天心による仏像模造事業の企画
(3)仏像模造制作の推進と途絶
(4)その後の模造制作

4.仏像模造に携わった人々

(1)竹内 久一
(2)森川 杜園
(3)山田 鬼斎

5.昭和・戦後の仏像模造

6.仏像模造についてふれた本

(1)模造作品展覧会図録・模造事業の解説論考
(2)仏像模造に携わった人々についての本・論考



(3)山田 鬼斎


山田鬼斎は、薬師寺東院堂・聖観音立像、興福寺・無着像の模造制作を行いました。

明治26年(1893)、鬼斎29歳の時の制作です。

山田鬼斎は、竹内久一や森川杜園よりもさらに無名で、ほとんど世に知られていないのではないかと思います。
38歳で早世したということもあるのかも知れません。
山田鬼斎のことを採り上げた文章も、一二を除いて、見当たりませんでした。


足跡をたどってみたいと思います。

山田鬼斎
山田鬼斎は、元治元年(1864)、「福井県越前国阪井郡」生まれで、本名は鬼頭常吉といいます。
20歳ごろ遠縁の山田家を継いで山田姓となり、鬼斎の号は、明治26年(1893)から用いたといわれます。
生家の鬼頭家は、代々仏師の家で、鬼斎も父から彫技を学びました。
鬼斎の彫技を見出したのは、岡倉天心です。
天心は、たまたま蠣殻町の自宅で鬼斎の作品を見て、才能を認めたという話です。

こうした縁で、鬼斎は天心をたよって、福井から上京します。
明治19年(1886)、24歳の時でした。

丁度その年に、天心がフェノロサと共に欧米に旅立ってしまい、鬼斎は指導進路を失い、生活の糧に窮して、ハマモノと呼ばれる西洋人相手の彫刻細工をしていたようです。

そんな上京のスタートでしたが、その後は、明治21年(1888)には、政府実施の「近畿地方古社寺宝物調査」の調査団の一員に選ばれ、優れた古美術に接する機会を得たり、明治23年に第三回内国勧業博覧会に作品を出品するほか、諸展で受賞を重ねるなど、木彫家として世にその名を知られるようになりました。

このように短期間で、鬼斎が木彫家として認められるようになったのは、岡倉天心との関わりが大きく作用していたのだと思われます。
どのような縁のいきさつかは判りませんが、鬼斎は、明治22年(1889)に天心の妹、蝶(てふ子)と結婚し、天心の義弟になっています。
そしてその翌年には、東京美術学校の教員となっているのです。


東京美術学校では、「楠公像」の制作に参画します。

「楠公像」は、今も皇居前広場に在る、楠正成の巨大な騎馬銅像です。
住友家から、別子銅山開鉱200年記念事業として、宮内省に献納すべく、東京美術学校に制作依頼があったものです。
高村光雲が制作主任となり、明治24年(1891)4月に制作に着手し、26年(1893)に、木造原型が完成しています。



楠正成銅像


山田鬼斎は、木彫原型の大鎧と胴部の彫刻を担いました。
この銅像が竣工し、宮城前に設置されたのは、明治33年(1900)のことになりますが、鬼斎は竣工前の明治31年(1898)に、献納者の住友家から10分の1の銅像制作のための木彫原型製作の依頼を受けています。
住友家から、鬼斎に依頼が来たのは、その技量を見込んでのことであろうといわれています。



山田鬼斎作、楠正成像の10分の1木彫像



明治26年、「楠公像」の木彫原型が完成した後、仏像の模造制作に取り掛かることになります。

これまで竹内久一が担っていた、仏像模造制作事業でしたが、そのあとを受け、薬師寺東院堂・聖観音立像、興福寺・世親像の2体の模造の制作にあたったのでした。
制作代金は、聖観音立像が764円、世親像が550円でした。

  

興福寺・世親像(左・山田鬼斎作模造、右・原像)


  

薬師寺東院堂・聖観音像(左・山田鬼斎作模造、右・原像)



この後、明治31年(1898)に、天心・東京美術学校失脚事件が起こります。
鬼斎は、連袂辞職せんとしますが、結果としては美術学校に留まります。

天心が去ったのち、美術学校の彫刻は、洋風彫塑を取り入れるようになり、木彫科のほかに、塑造科が併置されるようになります。
こうしたなかで、鬼斎は、石彫への志向をみせるようになり大理石彫刻の制作を試みるようになったようです。

鬼斎は、木彫と石彫との併用を進めんとするときに、世を去りました。

明治34年(1901)2月20日に逝去します。
38歳という若さでした。



5.昭和・戦後の仏像模造


東京帝国博物館と東京美術学校による、「仏像模造制作事業」を中心とした明治〜昭和初期の仏像模造の話は、ここまでにしたいと思います。

ついでに、戦後の仏像模造制作について、ごく簡単にふれておきたいと思います。

戦後、即ち昭和20年以降、現在に至るまで、社会の文化財保護・保存の大切さについての意識は随分高まってきました。
各地の美術館や、博物館を訪れても、仏像の模造が展示されているのに、ずいぶんと出会います。
模造の制作方法も様々なようで、木彫仏なら木彫でといったように、本物の仏像と同じ材質で製作したものから、合成樹脂のようなもので製作したものまで、各種あるようです。

どんな仏像の模造が、どれ程制作されているかといった話は、到底分かりません。


ここでは、「国(文化庁)による仏像模造事業」と、国宝・重要文化財の仏像修理を担っている「美術院国宝修理所による仏像模造」について、ご紹介しておくことにしたいと思います。

戦後、昭和24年以降の文化庁、美術院による仏像模造制作を、判るかぎりでリストアップすると、次のようなものがあります。





    

法隆寺・夢違観音像模造、薬師寺東院堂・聖観音像模造(伊藤鋳造制作)




東大寺・誕生仏像模造(伊藤鋳造制作)


  

観心寺・如意輪観音像模造(左)、興福寺・阿修羅像模造(右)(美術院制作)


  

法隆寺・吉祥天像(左)、唐招提寺・鑑真和上像(右)(美術院制作)



平成8年(1996)、文化庁が制作した、国宝の模写・模造作品の展覧会がありました。
東京国立博物館で開催された「美の再現〜国宝の模写・模造」という展覧会です。

この展覧会の図録の解説によると、
文化庁では、昭和28年(1953)から「国宝を中心とした模写・摸造事業」を実施してきたそうです。

昭和24年(1949)の、法隆寺金堂壁画の焼損が、文化庁による模写・模造事業実施の契機となったとのことです。
これまでに、48件の作品の模写・模造が制作されました。
そのうち仏像の模造は、リストのとおり10件となっています。


また、模写・模造事業の目的と意義について、次の4点が挙げられています。

明治の岡倉天心主導による仏像模造事業の主たる目的は、

「日本美術の名作の模造を、博物館に展示することにより、優れた日本美術の啓蒙をはかる。」

ことにありました。


文化庁による、現代におけるその目的・意義は、このように述べられています。

@退色・劣化しやすい文化財を、現状の姿そのままに保存する。

A事前の調査研究により、技法や構造、材質等に新たな知見が得られ、学術研究に資する。

B伝統的技術の後世への伝承や修理技術者の養成に寄与する。

C移動・公開が制限される文化財に、模写・摸造作品を活用し公開に供することが出来る。

これを読むと、明治の模造事業の時代から、その目的・意義も、随分と多様化し、進化しているものだと感じます。


戦後、美術院で行われている仏像模造は、皆、「復元模造」というものです。
「復元模造」というのは、当初制作された時と、同じ材料を使い、同じ古代の技法どおりの手順で復元して模造を制作していく模造制作方法です。

明治の模造事業では、金銅仏も塑像も、すべて木彫技法で模造制作していたのとは、大きく違っています。

この復元模造のやり方は、古代の制作技法の研究から始まり、その技法を忠実に再現していくという手法をとりますので、その過程で、当時の技法の解明や、新たな発見という数多くの研究成果が上がっています。
ここで、解明・発見内容の話に入っていくと、大変になってしまいますので省きますが、阿修羅像や鑑真和上像の、模造制作のプロセスで解明された新発見、知見などは、結構、新聞紙上を賑わしたりしました。

模造制作過程で得られた技法上の知見などは、国宝・重文などの仏像修理に、大いに役立っているということです。


ちょっと付けたりでしたが、昭和・戦後の仏像模造について、ごく簡単に振り返ってみました。


 


       

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