埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百九十六回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

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【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




(2)明治時代の奈良の名旅館


「菊水楼」の創業は、明治24年(1889)のことですが、この頃の奈良の一流旅館というのは、どんなところだったのでしょうか。


明治初年から中頃にかけては、奈良一番の高級旅館は、「対山楼」という処であったようです。
江戸末期の創業で、当代随一と言われていたようです。

明治の後半期、明治32年(1899)に出版された、「奈良繁昌記」というものがあります。
当時の奈良の観光ガイドとでもいうべきものです。

ここに旅館の「三大家」に名が挙げられています。

この頃には、菊水楼も開業しており、

「対山楼」「菊水楼」「三景楼」

の三つの旅館の名が挙げられています。

それぞれに、〈一言解説〉がついていますのでご紹介します。

「対山楼」は、
「最も、幽邃(ゆうすい)閑雅を極む、京阪の士東都の華客、この地に来たりて宿せざる者なく、宿して而(しこう)して賞せざる者なし」

「菊水楼」は、
「春日大鳥居の前に在り、通称は菊屋、南に瑜珈(ゆうが)飛鳥の諸山を控へ、下に荒池を瞰下したる風景極めて佳し、・・・・・・・
楼閣宏壮建築優雅、高位高官の貴人皆ここに宿す」

「三景楼」は、
「待遇よく器具完備し、京洛の紳士豪客みなここに宿る、近時評判愈々高く、来客も亦多し」

このように、評されています。




明治40年(1907)の奈良名勝旅客便覧の絵地図〜対山楼・菊水楼の名がみえる〜



当時の奈良の料亭旅館のベストスリーが、この三楼であったようです。

この中で、平成の現在も残って営業しているのは、「菊水楼」だけです。

「奈良繁昌記」は、ガイドブックのようなものなので、三つとも賞揚して、いいことが書いてありますが、この頃の「奈良の地、当代ナンバーワンの名旅館」は、「対山楼」であったようです。


菊水楼の話に入る前に、対山楼の話を少ししておきたいと思います。

明治初年頃は、奈良の高等旅館といえば、「対山楼」だけしかなかったようです。
江戸末期の創業で、もともとは、主人の角谷定七の名前からとって、屋号を「かどや」としていたのですが、かの山岡鉄舟が、「対山楼」と名付けたのでした。
奈良随一の名旅館として、当代の名士が泊っています。

明治初年の宿帳には、
伊藤博文、山縣有朋、西郷従道、大山巌などの明治の元勲達の名が残されています。



対山楼の宿止人名控帳〜明治の元勲の名が並んでいる〜



岡倉天心、フェノロサも、奈良ではここに泊っていますし、「日吉館」を贔屓にした会津八一も、最初は対山楼に泊っていました。

正岡子規も、明治28年10月に、この対山楼に逗留しています。

「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

この有名な句は、みなさんよくご存じのことと思います。
子規がこの句を発想し詠んだのは、この「対山楼」に泊っている時だったと云われています。
対山楼で柿を食べているときに、東大寺の鐘楼の鐘が鳴ったというので出来た句だそうです。
後に東大寺から「法隆寺」に寺を差し替えたとも云われているそうです。


それはさておき、当代随一と称された対山楼は、大正8年(1919)に一度廃業します。
戦後、再び営業を始めますが、昭和38年(1963)に完全に廃業しました。

対山楼は、東大寺・転害門の近く今小路町界隈に在りました。
北の京都方面から奈良へ入る入口にあった転害郷は、旅宿業の町と呼ばれるほどであったのです。
しかし、明治23年(1900)に鉄道が開通し、奈良駅が出来ると、駅から離れた場所にあったため、だんだん客足が遠退いたようです。


奈良駅から三条通、猿沢の池にかけてが、旅館のメインストリートになっていくにつれて、菊水楼は、対山楼に変わって奈良の顔の料亭旅館の地位を確立していったのでしょう。

奈良公園のあたりには、菊水楼のほかにも、「江戸三」「四季亭」など、明治時代の創業で業歴百年以上を誇る名旅館が、今も在ります。

奈良公園・一の鳥居横にある「四季亭」は、明治32年(1899)の創業。
奈良公園の中にあり離れ屋の宿で知られる「江戸三」は、明治40年(1907)の創業。
いずれも、今も老舗高級旅館として、知られています。




四季亭


  

奈良公園の中に在る「江戸三」・左は明治時代の江戸三の古写真



対山楼の話に戻りたいと思います。

今は無き対山楼の、往時の姿の写真が残っていないかと探したのですが、不思議なことにどこにも見当たりません。
どんな姿の旅館だったのでしょうか?

現在、「対山楼」が元在った場所には、天平倶楽部という立派な日本料理店が建っています。



元「対山楼」の場所に在る日本料理店「天平倶楽部」



天平倶楽部の中には、対山楼に逗留した子規を偲んで、「子規の庭」と名付けられた庭園があり、
子規が対山楼で詠んだ句

「 秋暮るる 奈良の旅籠や 柿の味」

を刻んだ句碑が建てられています。

今では、子規の庭や句碑で、往時の対山楼を偲ぶしかありません。



「天平倶楽部」の中に在る「子規の庭」と句碑



 


       

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