埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百九十三回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

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【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




【日吉館の廃業と、その後】


日吉館と共にその人生を歩んできたきよのさんも、昭和55年(1980)に、70歳の古稀を迎えました。

この古稀を祝って、
「日吉館のおばさんに感謝する会」
が、太田博太郎氏を代表に結成され、378名という大人数の賛同者を得て、
単行本「奈良の宿・日吉館」
が刊行されたことは、冒頭でご紹介したとおりです。


19歳で日吉館に嫁入りし、まもなく女将として

「学者や文化人の集う奈良の名物旅館・日吉館」

の経営に誠心誠意、身を粉にして尽くしてきたきよのさんには、言い尽くせない感慨深いものがあったことと思います。


この頃から、きよのさんは、寄る年波に「老い」を感じて来ていたのかもしれません。
古稀を迎える半年ほど前には、正体不明の病気に倒れて、一ヶ月ほど寝込んでしまいましたし、その後は、元気そのものだった身体の無理が利かなくなってしまうようになってきました。

日吉館の建物も、60年余の歳月に、柱が傾き床も曲がって、水平の場所を探すのに苦労しなければならないガタビシの状況になっていましたが、きよのさんの体自身も長年の目一杯の無理続きに、結構、金属疲労が来ていたのかもしれません。


古稀の日から二年余、きよのさんは高齢を理由に廃業を決意します。

思い切った決断でした。

そして、昭和57年(1982)の大晦日に、屋根に掲げられた、会津八一揮毫の「日吉館の名物看板」を、下ろしたのでした。



看板の下ろされる日の日吉館(昭和57年・1982年12月31日)



日吉館が名物看板を下ろす日には、マスコミ関係者も多く集まり、「奈良の宿・日吉館」の閉幕を惜しみました。
集まった人びとは、「学者、文化人が集った奈良の文化サロン」のなくなること、「日吉館」が果たしてきた現代奈良文化史への意義の重たさに思いを致し、感慨こみあげるものがあったと云います。

この時の有様を、青山茂氏はこのように語っています。

「看板吊り下ろしの作業を打ち合わせた時、玄関先で下された看板を見届けることになっていた73歳の“日吉館のおばさん”は、とうとう一歩も玄関に降り立つことはなかった。

店の畳に座り込んだまま、まるで念仏を唱えるように
『すみません。すみませんです。』
と手を合わせ、戸外のテレビ撮影や新聞写真のフラッシュの雑踏とは別世界にあって、肩を震わせていて、何者も近寄り難い悲しみと、大きな愁いの塊とが小柄なきよのさんの周辺を包んでいた。

絶対に取り乱すまいと、この時のための心の準備を数日も、十数日も前から自らにいい聞かせていたきよのさんだが、さて現実となってみると、
『ふがいなく泣かされてしまった』
と自らを恥じる彼女。

鎮めても鎮めてもこみあげる激情をやっと押さえて十数分後に報道陣の前に坐ったおばさんは、
『いろいろお騒がせしてすみませんでした』
と、ひとこと詫びの言葉を述べたあとは、ただ深々と頭を垂れたままで、一言も発しなかった。」
(青山茂著「大和寸感」所収)



名物看板の横に座る田村きよのさん



その年の4月、田村きよのさんは、第17回「吉川英治文化賞」を受賞します。

吉川英治文化賞は、財団法人・吉川英治国民文化振興会が主催し、日本の文化活動に著しく貢献した人物・並びにグループに対して贈呈される賞です。

受賞理由は

「奈良・日吉館の主人として五十有余年の永きにわたり、古文化研究の陰の理解者として献身した。」

というものでした。

奈良の小さな旅館の女将さんが、なんと吉川英治文化賞を受賞したというのだからびっくりです。

「奈良学は、日吉館で形成されていったのだ。」

という話が、名実ともに認知されたのでした。


看板を下ろした日吉館ですが、きよのさんが決断したとおりに、そのまま廃業ということにはなりませんでした。

日吉館党のこれまでの宿泊者の人々が、ボランティアで支援する形で営業を再開することになったのです。
ただし、旅館業というわけにはいかないということで、再開後は会員制の宿泊所という形態で運営されました。

その後、平成7年(1995)、きよのさんの体調が悪化したため、日吉館は完全に廃業しました。

昭和の奈良学発展の道程の中で、時代と場所と人を得た日吉館は、一つの役割を見事に果たし終えたといえるのでしょう。






看板を下ろし、廃業した日吉館



きよのさんは、平成10年(1998)、88歳で亡くなりました。

奈良の繁華街、三条通りにある田村家の菩提寺に眠っているそうです。



完全廃業後の日吉館は、その後、ずっと雨戸を閉じたままで、外観を見ても朽ちかけた建物という有様そのままに、残されていました。



平成11年(1999)頃の日吉館



「この後、日吉館はどうなるのだろうか?
何らかの形で保存が講じられるのだろうか?」

と、思いながら、折々、登大路の元日吉館の前を歩いていました。



取り壊される前の頃の日吉館



きよのさんが亡くなってから10年余、平成21年(2009)6月、日吉館の建物は、ついに取り壊されます。



日吉館の取り壊しを報じる読売新聞記事








解体作業が始まった日吉館(平成21年・2009年6月)



地元有志の間から「セミナーハウスとして活用したい」という声が数年前から上がっていたということでしたが、結局「所有者の同意が得られなかった」のだそうです。

日吉館は、創業来ずっと借地のままであったので、権利関係がなかなか複雑であったという話もあるようです。
所有者のほうから、文化庁に建物の取り壊しが申請され、奈良県教委文化財保存課が調査したところ、柱や床が傾き、屋根の一部も壊れて危険で、申請が許可されたということです。

現在は、昔の日吉館を少し偲ばせるような店舗兼住宅が新築され、貸店舗として入居者が募集されているようです。
まだ、入居者はないようですが、どんな処が、この日吉館の跡にお店を構えるのでしょうか?



日吉館跡に新築された貸店舗兼住宅



奈良の近代文化史を彩った

「奈良の宿・日吉館」と「名物おばちゃん・田村きよのさん」の物語

は、ここらで終えたいと思います。


次回は、「奈良の宿・日吉館」にまつわる、いろいろな本のご紹介です。


 


       

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