埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百七十六回)

   第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説

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【目次】


1.仏像・文化財の戦争疎開

(1)東京帝室博物館の文化財疎開

(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開

(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本

(4)奈良の仏像疎開

・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開

(5)奈良の仏像疎開について書かれた本

2. ウォーナー伝説をめぐって

(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり

(2)ラングトン・ウォーナーという人

(3)「ウォーナー伝説」真実の解明




(2)ラングトン・ウォーナーという人


ここで、「伝説の人」となった、ウォーナー博士の経歴や人となりなどを振り返ってみたい。


ご存じのとおり、ウォーナーは著名な東洋美術史学者であるが、日本美術や奈良の地を大変に愛した。

その日本美術研究への取り組みぶりや、奈良の地の滞在した時のさまざまな交遊の有様などを思い起こすと、
当時の文化人たちが

「奈良・京都の地が爆撃されないのは、日本美術を愛するあのウォーナーの尽力に違いないのではないか?」

と、想像したのも、むべなるかなという気がする。


ラングドン・ウォーナーは、1881年(明治14年)北米ニーイングランド、マサチュセッツ州に生れた。

ウォーナー(明治41年撮影)
エセックスの名門の出身だそうだ。
ウォーナー本人の祖先は有名な法律家で、ハーバード大学の総長でもあり、また、ロレーヌ夫人はセオドア・ルーズウェルト(1901〜09年の米大統領)の姪にあたるという。

1903年ハーバード大学を卒業し、翌年カーネギー探険隊の隊員となり、中国・トルキスタンに最初の学的探究旅行をおこなった。
日本に来たのは同年で、かねて私淑する岡倉天心に師事しつつ、東京郊外に住んで、大観、観山、春草等の日本美術院の画家に交り、日本美術を学んだ。

2度目の来日は1906年(明治39年)夏。

茨城県五浦の岡倉天心宅に滞在、その後、約1年半奈良に滞在した。

奈良では、ウォーナーは、岡倉天心の指示により新納忠之介宅に寄寓した。
新納忠之介は、文化財の模造、修理・修復を行う美術院第2部、通称奈良美術院の責任者であり、東大寺勧学院の建物を借り受け住まいしていた。
ここで、新納の指導を受けながら仏像彫刻について深く学ぶこととなる。

    
新納忠之介                    ウォーナー(明治41年撮影)


ウォーナーは、奈良滞在のときのことを、このように語っている。

新納忠之介宅滞在中のウォーナー
「しばらくの問は、私は奈良から法隆寺へ週に一度か二度ゆくだけで満足していた。 がそれがいつのまにか一度に二日つぶすようになり、土地の宿屋に眠り、寺僧や彫刻家の友人たちといっしょに食事をするまでになった。」

「幸運にも私は、まる一年の間、そしてさらに数年間のうちの幾月か、日本の七世紀、八世紀の中に身を置くことができました。
昼となく夜となく、古い奈良の都の町通りに沿うて寺から寺へと歩みを運び、寺宝調査の仕草をやめては、老管長の気に入りの庭師と世間話にうち興じたり、その主人である老管長と茶を吸ったりしたことがそれです。」

この奈良滞在時、ウォーナーは、寄寓していた新納忠之介はもとより、南都古寺の寺僧をはじめ、多くの文化人とも交友を深めたようだ。

戦争末期に、
「ウォーナーが奈良京都の爆撃を避けるよう尽力しているのではないか?」
と便りに書いた志賀直哉とは、
奈良の上高畑に住んでいた頃、民芸家の柳宗悦をとおして、ウォーナーとの交遊を持っていた。
ウォーナー3度目の来日、1931年(昭和6年)頃のことと思われる。

また、古美術写真の飛鳥園にもしょっちゅう訪れ、小川光暘をはじめ飛鳥園に出入りする人々との付き合いもあったようだ。

ウォーナーは、外国人でありながら、

・奈良の住人の如くに深く奈良になじみながら、日本美術の研究を通じ、文化人との交遊を深めていた。
・奈良や京都の古都を深く愛していた。
・著名な東洋美術研究者であると共に、由緒ある家柄、係累を持っていた。

という人物であった。

このことが、「ウォーナー伝説」を生む一因になったのではないだろうか?

「奈良・京都に空襲がなく、古都が温存されたのは、あのウォーナー博士が文化財を守る努力をしてくれたからに違いない。」

という推測が、醸成されて行くことになった一因であろう。


2度目の来日後、ウォーナーは1909年(明治42年)帰国し、ボストン美術館の「シナ・日本美術部」助手となる。
翌々11年かねて渡米中の岡倉天心がボストン美術館・蒐集部長をひきうけるにおよんで、ウォーナーはそのアシスタント。キュレーターとなった。
その後ウォーナーはクリーグランド美術館に関係し、のちフィラデルフィア美術館長に就任したが、

「生来無慾情淡で社会的栄誉を望まず、繁雑な事務処理やお義理の社交を嫌う翁の性格には、大美術館の館長は苦手であったらしく」
(石沢正男氏「ウォーナー翁を悼む」国立博物館ニース98号)

その後はあっさり職を去って、母校ハーバード大学にもどり、1951年退職するまで同大学付属フォッグ美術館の一館員(東洋部長)としておわった。


戦後来日し、法隆寺金堂壁画を見るウォーナー
ウォーナーは、戦後は2度、1946年(昭和21年)と1952年(昭和27年)に来日した。

この時の来日の際の

「日本美術の恩人ウォーナー」
「奈良・京都を爆撃から救った人ウォーナー」

を迎える日本での熱烈なる歓迎ぶりは、先に記したとおりだ。


1955年(昭和30年)6月、ウォーナーは、ケンブリッジの自宅で73歳の生涯を閉じた。


余談ではあるが、ウォーナーは、「日本美術の恩人」「ウォーナー伝説の人」として知られるほかに、
もう一つ、敦煌石窟から仏像、壁画を、米国へ持ち去った人物としても知られている。

この話については、このシリーズの
「第十六話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本〈その1〉敦煌石窟編」
に、いきさつ等を書いたことがあるので、そのままここに転載しておきたい。

ハーバード大学付属フォッグ美術館の東方部主任であったウォーナーが敦煌にやってきたのは1924年1月のことであった。

もはや「敦煌文書」を持ち去ることは不可能であったが、なんと、ウォーナーは、莫高窟の美しい壁画を剥ぎ取って持ち帰るとともに、唐代の優れた塑像数体をも持ち去ったのだ。

    
.    ウォーナーが菩薩像を持去った敦煌328窟     持去られた菩薩像(フォッグ美術館蔵)

ウォーナーが剥ぎ取った壁画は26面、3200平方センチにも及び、今も剥ぎ取られた跡があちこちに痛ましく残っている。

ウォーナーにより、剥ぎ取られた敦煌壁画
ウォーナー自身は、壁画を剥ぎ取ったことについて、ロシア革命から逃れたコサック兵が敦煌莫高窟に強制収用されたとき、塑像の金箔をはがしたり、焚き火で壁面を煤けさせたりした様子を見て、悩んだ末に今後の破壊行為から護るために、壁画を剥がして持ち帰ることを決意したのだと、語っている。・・・・・


ウォーナーは、1925年には壁画剥離の専門家を同行して、第2回の敦煌調査を試みたが、途中で現地の中国人達に阻止され、一歩も敦煌に踏み込めなかったということである。・・・・・・・・

ラングトン・ウォーナーの名は、わが国においては

「第二次大戦中、京都や奈良の歴史的文化財を保護するため、連合軍の爆撃対象から除外するよう働きかけた人物」

とされている。
いわゆる「ウォーナー伝説」として語られ、「日本美術の恩人」とも呼ばれている。

しかしながら、中国においては、ウォーナーの名は、

「悪辣なる文化の破壊、略奪者」

として、大いなる批判の対象になっている。

一人の学者の文化史的評価が、かくも両極に分かれることになるとは、なんとも皮肉な話である。



ここで、ウォーナーの邦訳著書などについて、紹介しておきたい。


「不滅の日本芸術」  ラングトン・ウォーナー著・寿岳文章訳 (S29) 朝日新聞社刊 【280P】 550円


1952年(昭和27年)刊、「THE ENDURING ART OF JAPAN」の邦訳。

ウォーナーの日本美術通観の書。

「ウォーナー伝説」が盛り上がる中、ウォーナー執筆の本書の出版に至ったのではないかと思われる。
本書には、附録として、矢代幸雄執筆の「ウォーナーのことども」という文章が、44ページにわたって掲載されている。(昭和21年(1946)7月に文芸春秋に発表されたもの)



「日本彫刻史」 ウォーナー著・宇佐見英治訳 (S31) みすず書房刊 【240P】 480円

1936年刊「THE CRAFT OF THEJAPANESE SCULPTOR」の邦訳。

本書は、原題が示す通り「日本の彫塑家の技術」を解いた入門書だが、また6世紀から19世紀に至る日本彫刻のまとまった概説書にもなっているもの。


「推古彫刻」 ウォーナー著・寿岳文章訳 (S33) みすず書房刊 【302P】 900円

1923年刊「JAPANESE SCULPTURE OF THE SUIKO PERIOD」の邦訳。

    


「奈良登大路町」 島村利正著 (S47) 新潮社刊 【218P】 700円


島村の短編小説集。

書名となっている「奈良登大路町」と題する短編が収録されている。

この短編は、「飛鳥園」を訪れたラングトン・ウォーナーと、飛鳥園に勤めていた林啓介との交流を描いた小品。
「ウォーナー博士との静かな出会いを感動的に描出した」作品とリード文にある。

ウォーナーが3度目に来日した1931年(昭和6年)頃、奈良に滞在したときの様子や、その人となりなどが描かれている。


「師弟愛で護った古代文化〜新納忠之介とラングトン・ウォーナー」 宇宿捷編著 (S46)宇宿歴史研究所刊 【134P】 自費出版

ウォーナーは、1906年(明治39年)奈良にしばらく滞在し、新納忠之介宅に寄寓した。
この時芽生えた師弟愛が、ウォーナーに奈良・京都の爆撃を回避し古都の文化財を守らせるに至った。

著者は、このような思いから、本書を執筆したようだ。

巻頭はしがきに、

「奈良の新納忠之介のもとで家族の一員として起居寝食共にすること二年余、その間わが国の古美術に対する懇切丁寧なる指導を受けた。
この師弟愛が、やがて戦禍から日本古美術を救済する結果となって開化しようとは思っていなかった」

と記し、この二人の大恩を忘れてはならないと述べている。

仏像修理の祖、新納忠之介の生涯と、ウォーナー博士の人物伝と「ウォーナー伝説」の概要を語った本。



 


       

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