埃
まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百七十二回)
第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説
(6/12)
【目次】
1.仏像・文化財の戦争疎開
(1)東京帝室博物館の文化財疎開
(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開
(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本
(4)奈良の仏像疎開
・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開
(5)奈良の仏像疎開について書かれた本
2. ウォーナー伝説をめぐって
(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり
(2)ラングトン・ウォーナーという人
(3)「ウォーナー伝説」真実の解明
【法隆寺の仏像疎開】
太平洋戦争が始まった頃、法隆寺は「昭和の大修理」と呼ばれる第1期修理のさなかであった。
この大修理は、本格的な解体修理である。
伝法堂や講堂の解体修理が終わり、最後に五重塔と金堂の解体修理に取り掛かる予定となっていた。
五重塔の解体着手は、昭和17年(1942)である。
昭和19年(1944)末には、五重塔は初重を残すのみとなっていたが、アメリカ爆撃機の目標とならぬよう、これに擬装網をかけた。
また国宝壁画がある金堂も、本土空襲が激しさを増すなか、早急に壁画保存方法を決定し、解体を決意せざるを得ない状態に追い込まれつつあった。
法隆寺・五重塔 法隆寺・金堂
昭和20年(1945)4月、解体修理に従事する浅野清や天沼俊一と法隆寺側と協議した結果、金堂は防空上徹底解体し、
「壁画に付着せる柱は壁画と共に残存せしめ、土嚢を以って壁画を保護せしむる方法」
をとることで合意した。
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解体された法隆寺・五重塔(後列左端・浅野清)
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こうして金堂解体がはじめられたが、上層部の解体を終え、部材を裏山に疎開し、最後の掩体築造中に終戦を迎えることとなった。
仏像の疎開準備も併せて進められた。
法隆寺(修理)工事事務所の建築技師であった浅野清は、
「栄養失調で重くなった足を引きずりながら、寺の吉田執事と、疎開先を探すために奈良県下の山の中を歩き回った。」
と語っている。
法隆寺では、お堂の御本尊の疎開には、信仰上から同意しなかった。
金堂・釈迦三尊、薬師如来、夢殿・救世観音、聖霊院の聖徳太子像は、疎開しなかったのだ。
金堂・釈迦三尊像
金堂・薬師如来像 夢殿・救世観音像
貫主・佐伯定胤は、
「その時は、池に沈め、私も一緒に池に飛び込もうと思っています。」
と、語っていたと云われるが、
5月26日の佐伯の日記には、技師・大岡実、浅野清と、これ等の仏像についての対応について、このように協議したと記されている。
金堂本尊薬師如来は塔底空洞内
釈迦仏は金堂土檀下に埋納する事
夢殿本尊は夢殿壇下に埋納する事
いずれにせよ、佐伯貫主は、伽藍と本尊と運命を共にする決意であった。
その他の仏像疎開は、昭和20年(1945)6月に数回に分けて行われた。
6月23日には、添上郡東山村・大橋家に、
24日には添上郡柳生村・佃家に百済観音など国宝10点が、
26日には京都府笠置町・岡原家に大講堂四天王像などが、疎開移送された。
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佃家に残された法隆寺発行の御預証
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佃家には、法隆寺の印が押された「御預証」が今も保存されている。
それには、百済観音、聖観音像、釈迦如来台座、阿弥陀如来台座、聖如意輪観音像、地蔵菩薩像、橘夫人厨子、五重塔雲肘木、五重塔雲斗などが列記されており、
「右、暫時疎開御預け候也」
「昭和24年6月24日」
と記されている。
佃家の24畳敷きの土蔵の二階に、これ等の宝物が納められ、村人にも一切秘密にされていたという。
百済観音像 地蔵菩薩像
終戦を迎えた後の8月29日、この佃家で出火する惨事があり、笠置町の岡原家に再疎開させるという出来事もあったが、
昭和20年(1945)12月、法隆寺の疎開国宝は無事に帰山を果たした。
仏像の戦争疎開。
この問題は、
「文化財保護と信仰」
のはざまで、県当局と寺僧たちが、それぞれに頭を悩まし、当局との間も、寺内においても、様々な葛藤や軋轢を生みだした。
また、移送にあたっても、言い知れぬ苦労があった。
結局のところ、奈良の地は「防空上第一位に属する安全地帯」と考えられた通り、大きな空襲に遭うことはなかった。
幸いにして、戦災によって国宝仏像が焼失するというような事態が起きることなく、終戦を迎えることができたのだが、
「仏像の戦争疎開」は、近代奈良の歴史を振り返るうえでは、忘れることのできない大きな出来事であったと云えよう。
(5)奈良の仏像疎開について書かれた本
ここからは、奈良の仏像の戦争疎開について採り上げた本を紹介していきたい。
「太平洋戦争と奈良の国宝疎開」 竹末勤 (H1) 歴史地理451号所収
これは単行本ではなく、研究雑誌掲載の論文だが、奈良の地における仏像疎開の有様が最も詳細かつ克明に書かれたものだろうと思う。
13ページの小論だが、奈良の仏像疎開が進められるいきさつや諸寺の対応を詳しく知ることができる。
先に転載紹介した「奈良古社寺の宝物疎開地一覧表」が掲載されているほか、奈良の宝物疎開に関する出来事を時系列に整理し、詳細に記した「太平洋戦争と奈良の国宝疎開・略年表」も掲載されている。
この論文を読めば、奈良の仏像疎開について、ほとんど理解できるといっても過言ではない。
これだけのことを調べ整理するのは、大変な努力であったのではと察する。
本稿を書くにあたって、一番参考にさせてもらい、典拠とさせてもらった。
「奈良市史 通史編第4巻」奈良市史編集審議会編 (H7) 奈良市刊 【622P】
明治維新から太平洋戦争終戦までの奈良の歴史が記されている。
「戦争と奈良」と題する章に「御物の疎開」「南都諸寺の仏像疎開」という項立てが設けられ、4ページの短文ではあるが、仏像疎開の概要が、コンパクトに要領よくまとめられており判りやすい。
「焔髪」 吉村昭著 (S63) 新潮文庫刊「脱出」所収 【257P】 360円
「焔髪」は、歴史小説で著名な、吉村昭の短編。
東大寺三月堂の仏像疎開、お堂解体問題を描いている。
ある東大寺僧侶の心情を舞台回しにした25ページの短編小説。
仏像疎開問題が起きてから、「文化財保護の観点からの疎開すべき」という意見と「信仰の観点から仏像疎開やお堂解体などもってのほか」という意見の対立がおこり、葛藤、軋轢の果てに仏像疎開が行われ、終戦後お堂に仏像が戻ってくるまでの物語が、ノンフィクション風の小説にして淡々と綴られている。
東大寺の仏像疎開の有様を知ることができるというよりも、ジーンと胸を打つ小編。
「東大寺史へのいざない」 堀池春峰著 (H16) 昭和堂刊 【367P】 2000円
著者・堀池春峰は、東大寺・小綱職として寺の実務にかかわった人だが、それ以上に東大寺史を中心に歴史学、宗教史学の研究者として知られる仁。
本書は、「東大寺の生き字引」呼ばれた知識を生かして、東大寺の歴史、年中行事、秘話などをまとめた本。
戦時体制という小項で、仏像疎開、正倉院宝物疎開についてふれており、「三月堂の乾漆仏像の円成寺への疎開に自ら同行した思い出話」などが語られている。
「誰も知らない東大寺」 筒井寛秀著 (H18) 小学館刊 【255P】 1800円
著者は第212世東大寺別当、東大寺長老をつとめた人。
東大寺で生まれ、東大寺で育った著者が、東大寺にかかわるエピソード、こぼれ話、思い出話をまとめた本。
「こんな話もあったのか」という面白いエピソードが盛りだくさんで、愉しく面白く読める。
「解体されようとした法華堂」という項で、当時の三月堂の仏像疎開と解体についてのいきさつなどが語られている。
先に紹介した
「終戦の情報を秘かに教えられて、三月堂解体を一週間延ばしてもらうよう知事に頼みにいった話」
という秘話は、本書に紹介されている。
「法隆寺日記を開く」 高田良信著 (S61) 日本放送協会刊 【215P】 750円
「廃仏毀釈から100年」という副題が付けられ、克明に記された明治初年以来の法隆寺日記をひもときながら、近代法隆寺の歴史をたどった本。
「大戦前後の法隆寺」という章が設けられ、「五重塔と金堂の解体」「金属供出と仏像疎開」「敗戦の日」という項立てで、太平洋戦争下のお堂の解体疎開、仏像の疎開移送について、詳しく記されている。
「まほろばの僧〜法隆寺佐伯定胤〜」 太田信隆著 (S51) 春秋社刊 【223P】 1300円
近代法隆寺の最大の功労者と云われる法隆寺貫主・佐伯定胤の生涯を描いた、伝記的ノンフィクション小説。
「大戦前後」という章の中で、金堂解体や仏像疎開の有様が書かれており、金堂壁画や釈迦三尊や夢殿救世観音などのお堂の本尊を身を以って守ろうとする佐伯定胤の悲壮な決意と苦悩などが、綴られている。
「古寺解体」 浅野清著 (S44) 学生社刊 【214P】 580円
著者は昭和9年から終戦後の昭和24年まで、法隆寺昭和大修理のために開設された、「国宝保存工事事務所」に籍を置いた建築史学者。
法隆寺建築の研究をはじめ古建築史学の世界では、大変著名な研究者。
その浅野が、「法隆寺昭和大修理」の概要や思い出話を、判りやすい読み物風に綴ったのが本書。
「法隆寺五重塔と金堂の解体」という章が設けられ、五重塔・金堂の解体古材の疎開、金堂壁画の防空保存、仏像の疎開などについてのいきさつなどが語られている。
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