埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百七十回)

   第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説

(4/12)


【目次】


1.仏像・文化財の戦争疎開

(1)東京帝室博物館の文化財疎開

(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開

(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本

(4)奈良の仏像疎開

・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開

(5)奈良の仏像疎開について書かれた本

2. ウォーナー伝説をめぐって

(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり

(2)ラングトン・ウォーナーという人

(3)「ウォーナー伝説」真実の解明




(4)奈良の仏像疎開

さて、いよいよ奈良の仏像疎開の話に入って行きたい。

「防空上第一の安全地帯」
と云われていた奈良でも、太平洋戦争の末期には、本土空襲がはじまる戦局急迫のなか、有名古寺の仏像の疎開が始められる。

ただ、諸寺の仏像疎開というのは、そう簡単には進められることではなかった。

今更云うまでもないが、仏像は信仰の対象である。
お寺のお堂に祀られ、礼拝の対象として在ることに、その意味があるものだ。
とりわけ、御本尊や開山像などを疎開させるなどということは、お寺にとってみれば考えられることではなかった。
仏像疎開は、単なる美術品や文化財を疎開させるのとは、全く意味の違うものだったからである。


当時の法隆寺貫主・佐伯定胤は、このように語っていたという。
法隆寺貫主・佐伯定胤

「仏像や宝物は、やっとのことで、ほとんど疎開しました。
しかしこの寺の御本尊である金堂の釈迦三尊像と夢殿の救世観音、それに聖霊院の太子像は、そのまま安置しています。
太子様のご遺徳で、めったなことはないと思います。

けれども、私たちの不徳で、どんなことがおこるかもしれません。
その時は、この三体を池に沈め、私も一緒に池に飛び込もうと思っています。」


唐招提寺では、

「開山さん(鑑真和上像)と、運命を共にする」

といって、疎開には応じなかったという。


また、法華寺でも、維摩居士像は疎開させたけれども、

「本尊十一面観音像は身をもってお守りする」

ということで、本尊を運ぶ担架をこしらえて、防空壕に避難する準備をととのえていた。

  

唐招提寺・鑑真和上像          法華寺・十一面観音像



奈良の古仏は、「貴重な文化財を守る」という側面と、「信仰の対象、遺産」としての側面との葛藤や軋轢を生み、それぞれの立場で、それぞれに悩み苦しんだようだ。


亀井勝一郎などは仏像の戦争疎開には反対で、仏像は信仰の遺産であるとし、名著「大和古寺風物誌」において、このように語っている。

この文章は戦後に再版された
「大和古寺風物誌」に増補追加されました
(昭和18年初版には載せられていません)

「空襲が激化し、朝に夕に我が都市が崩壊して行った頃、奈良も所詮はこの運命を免れまいと僕は観念していた。
夢殿や法隆寺や多くの古寺が、爆撃のもとに忽ち灰燼と帰す日は間近いと思われた。
・・・・・・・・
国宝級の仏像の疎開は久しい以前から識者の問に要望されていた。
東大寺や薬師寺の本尊のごとき大仏は動かしえぬにしても、救世観音や百済観音等は疎開可能であろう。

しかし僕は仏像の疎開には反対を表明した。
災難がふりかかってくるからと云って疎開するような仏さまが古来あったらうか。
災厄に殉ずるのが仏ではないか。
歴史はそれを証明しでいる。
仏像を単なる美術品と思いこむから疎開などといふ迷ひ言が出るのであろう。
そう思ったので、僕は反対したのである。

天下の東大寺は平重衡の兵火にかかって、けなげにも焼けて行った。
大仏も観音も弥勒も劫火に身を投じた。
これが仏の運命といふものではなかろうか。何を惜しむ必要があろう。
惜しむのは人の情であるが、仏は失うべき何ものをも有せざるが故に仏なのだ。」

まさに、こうした思いが、古寺を守る僧たちの、
「御本尊とは、運命を共にする」
という信念になっていたのであろう。

後で紹介するが、東大寺などでは、法華堂疎開・解体をめぐって執事長の辞職問題まで引き起こすことになる。


奈良の仏像疎開が進められていく、当時の動きを振り返ってみたい。

太平洋戦争が厳しさの度を加えてきた昭和18年(1943)12月、政府は「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」を閣議決定する。

決定された整備要綱では、
「激化する空襲に対処して、建造物は偽装し、貯水池や防火防弾壁をつくり、宝物は分散疎開せよ」
とされた。

奈良の地では、これを受け、県の聖地顕揚課がこの問題を担当、文部省と協議の上、東大寺・法隆寺・興福寺の迷彩擬装と、仏像疎開の方針を決定した。
昭和19年(1944)1月、東大寺本坊に於いて「国宝防空施設協議会」が開催されている。

この方針決定を受けて、国宝疎開、仏像疎開へ向けての動きがスタートする。
3月には東大寺本坊の調査済みの国宝物件を興福寺に搬入、同日に興福寺の国宝66点と共に、添上郡帯解町の円照寺に搬出された。

これが、奈良の地における、国宝疎開、仏像疎開の最初である。

円照寺は「奈良県第一国宝収蔵庫」に指定されていた。
「第二国宝収蔵庫」には、後に登場する宇陀郡大宇陀町の大蔵寺が、指定となっている。

  

帯解町・円照寺                       宇陀郡・大蔵寺


本格的な仏像疎開は、奈良市中が空襲に遭うようになった昭和20年6月以降になるが、終戦に至るまで、移動が可能な仏像は、安全な地を求めて疎開移送されていくことになる。


奈良の仏像疎開の具体的な概要については、つぎの一表で、ご覧いただきたい。
この表は、「太平洋戦争と奈良の国宝疎開」(竹末勤) 歴史地理教育451号にまとめられているものを転載したもの。
東大寺、法隆寺、興福寺を中心とする各社寺の仏像疎開の内容が、一目でわかる様にまとめられている。







ここで、東大寺、法隆寺、興福寺の仏像疎開のいきさつ、有様などを振り返ってみたい。


【興福寺の仏像疎開】

興福寺
東大寺、法隆寺、興福寺の三寺のうち、最も早く仏像疎開が進められたのは、興福寺のようだ。

先にも記したように、昭和19年(1949)3月26日には、当局の疎開方針を受け、興福寺の弥勒菩薩像など国宝66点が、東大寺本坊の調査済み国宝と共に、帯解の円照寺に疎開移送された。
引き続き8月には、仏像17体を円照寺に送った。

10月には、世親菩薩像など2体を、第2国宝収蔵庫に指定されている大宇陀町大蔵寺に疎開させている。

    

世親菩薩像                          阿修羅像


その後、戦争最末期の昭和20年(1945)7月3日には、奈良帝室博物館から返還された仏像19体を、吉野郡吉野山の舟知家に疎開移送している。

阿修羅像など脱活乾漆八部衆像も、この時に吉野に疎開され、約3時間かけて列車で運ばれたという。
疎開移送にあたっては、刑務所の協力で囚人を動員したり、地元の警防団も協力して当たったそうだ。



興福寺の仏像が疎開した、吉野郡・船知家の土蔵



ただ、疎開移送の費用負担は悩みの種であったらしい。

興福寺の日誌によれば、寺側では費用負担を極力軽減するように要請していたが、

「奈良の博物館員が来て、館としては残る国宝をどこへ疎開するにしても運搬費用が困難で悩んでいる。
文部省も県もその費用を出さないので困っている。
そこで国宝を疎開するのであれば、その費用は寺で負担してほしい。」

と頼まれて、博物館から返還の仏像疎開費用も、皆寺側が負担したようだ。


吉野の旧家、舟知家では、阿修羅像などが疎開安置されていた土蔵が今でも残されている。
当時、小学生だった舟知市太郎氏(76歳)は、その思い出を、このように語っている。

阿修羅像などが疎開安置された、船知家・土蔵内部
「階段の手前に阿修羅像が立ち、周囲を他の仏像が囲んでいた。くちばしのある迦楼羅(かるら)が特に怖かった」

「大阪に空襲があると、山の向こうが真っ赤になった。そのたびに(近くの旅館に)疎開している子どもたちが大阪の方を見て泣くのです。一人泣き出すとみんな泣く。旅館の前がうちの家でした」
(2012.8.15奈良新聞記事より)



 


       

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