埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百六十五回)

   第二十七話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その4>奈良の仏像写真家たちと、その先駆者

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【目次】


はじめに

1.仏像写真の先駆者たち

・横山松三郎と古社寺・仏像写真
・仏像美術写真の始まり〜松崎晋二
・明治の写真家の最重鎮〜小川一眞
・仏像写真の先駆者たちに関する本

2.奈良の仏像写真家たち

(1)精華苑 工藤利三郎

・私の工藤精華についての思い出
・工藤精華・人物伝
・工藤精華についてふれた本

(2)飛鳥園 小川晴暘

・小川晴暘・人物伝
・その後の「飛鳥園」
・小川晴暘と飛鳥園についての本

(3)松岡 光夢

(4)入江泰吉

・入江泰吉・人物伝
・入江泰吉の写真集、著作

(5)佐保山 堯海

(6)鹿鳴荘 永野太造

(7)井上 博道




(5)佐保山 堯海

佐保山堯海は、入江泰吉とほぼ同じ時代を生きた人。

入江が生まれた2年後の明治40年(1907)に生まれ、入江逝去の2年前、平成2年(1990)に83歳で亡くなっている。
ここでは、佐保山堯海は、奈良の仏像写真家として採り上げるのだが、それよりは第209代の東大寺管長を務めた人としての方が知られているののかも知れない。

佐保山堯海(向かって右端)
佐保山は、東大寺の僧侶としては異色の人で、30歳頃から写真をはじめ、関西のアマチュア写真倶楽部である「丹平写真倶楽部」に属した。
昭和17年(1942)には、全関西写真コンテストで一席を受賞、その後、昭和28年(1953)には「丹平写真倶楽部」の仲間と共に「シュピーゲル写真協会」を創立したという写真作家としての経歴を持つ。

佐保山は、写真の道に打ち込むようになったきっかけについて、

30歳ぐらいの時(昭和12年頃)、来客から土産にとライカの写真機をもらったことから、写真が面白くなり、その後「丹平写真倶楽部」の安井仲治に出会ってから、写真から抜けられなくなってしまった

と、語っている。

東大寺の塔頭・寶珠院の住職であった佐保山は、身近な東大寺をはじめとして、社寺を題材とした数多くの写真作品を制作発表した。

その写真は、クローズアップや極端なアングル、強い光と影のコントラストを強調したものが多く、近代的な写真芸術の表現をめざすものであった。
同時代を生きた、入江泰吉の写真とは、考え方の大きく異なった写真である。

    
佐保山堯海 撮影写真


佐保山堯海は、2冊の東大寺の本、写真集を残している。


「東の大寺」カメラ・佐保山堯海、文・上司海雲、絵・杉本健吉 (S35) 淡交新社刊 【333P】 480円

170ページにわたる佐保山堯海の東大寺の諸堂、仏像などの写真と、130ページの上司海雲の解説、32ページの杉本健吉のお水取りの絵が、合体された本。
写真家・佐保山堯海の東大寺写真が堪能できる。

 


「東大寺」 佐保山堯海著 (S48) 座右宝刊行会刊 【149P】 4500円


全編カラー写真版の、佐保山堯海の東大寺写真集。

佐保山は、「光と影のコントラスト」を得意とした写真家であったので、カラー写真にするとその魅力や特色がうまく発揮できていないように感じるのだが、如何であろうか。

本書には、当時東大寺管長の上司海雲が、「序に変えて」という文を寄せている。
そのなかで、佐保山の写真への傾倒について、
「東大寺の僧侶としての役割を強い自覚を望む」
といった辛口の文章を、次のように記しているのは面白い。

「寺なり僧侶なりに対する考え方は、彼(佐保山)と私(上司)は、大春小春の時代から根本的に違うのである。
(開眼1200年の大法要に)私は法衣の袖にカメラをしのばせる彼に腹を立てる。
修二会あのお水取りの行法中に、行僧の一員でありながら内陣にカメラを持ち込む彼を私は許せない。・・・・・
そこにはあくまで本職と余戯の区別が、本業と趣味、専門家と門外漢との相違が判然としていなければならない、と私は思う。・・・・
その才能を寺なり仏法なりに廻向してほしい、写真も寺務法務の余力でやってほしいといった一縷の願いと祈りがないこともないが。」

佐保山の写真熱への、管長・上司からの苦言が呈されている。
その後のことはよくわからないのだが、本書刊行の8年後、佐保山堯海は、東大寺管長に就任した。



(6)鹿鳴荘 永野太造

奈良国立博物館本館(現なら仏像館)の東玄関を出ると、直ぐ左手に「鹿鳴荘」という仏像写真、古美術写真を売る店があったのを覚えていられるだろうか?

  
奈良国立博物館・東玄関                   現在の鹿鳴荘

私は、若い頃、奈良博へ行くと、ついつい鹿鳴荘に立ち寄った。

店には、額入りの仏像写真が沢山掲げられており、その美しい写真を眺めたものであった。
主人の永野太造氏は店にいることも多く、私が小型の仏像写真を一二度買った折には、自分で袋に入れて渡してくれた思い出がある。
当時、永野氏は50歳前後だったのだろうが、学生の私には随分の年配者のように見えて、気軽に言葉を交わすといったことはなかった。



私が鹿鳴荘で買った仏像写真


「鹿鳴荘」は、何時頃、仏像写真の販売をやめてしまったのだろうか。

15〜6年前ごろには、もう写真販売はやめていたが、永野太造氏の子息が古美術関係の本や拓本などを店内に並べ、茶店もかねて営業していた。

ソフトクリーム・ドリンクなどを販売する鹿鳴荘
私も、ご子息から古瓦の拓本などを、此処で買ったことがあった。


今は、昔写真が飾られていた店の中は閉め切ってしまい、店頭で、ソフトクリームやドリンク、土産物などを売る店になっており、修学旅行生たちが、たむろしているのをよく見かける。



永野太造は、奈良の古美術・仏像写真家としては、よく知られた人であった。

色々な、仏像関係の美術書にも、永野太造の写真は、よく使われている。
「奈良六大寺大観」の第14巻・西大寺の写真は、全て永野太造一人が撮影したものだ。
「大和古寺大観」の不退寺、浄瑠璃寺の仏像写真も、永野太造が撮影を担当している。

    
永野太造 法隆寺金堂・多聞天            永野太造 法隆寺・夢違観音

永野太造とは、どんな人だったのだろうか?

知りたくなって、永野の仏像写真や、永野その人について、ふれた本や記録などはないのだろうかと、いろいろ調べてみたのだが、これが全く見当たらなかった。
仕方がないので、奈良博前の「鹿鳴荘」によって、店主に声をかけて、

「永野太造氏のことを知りたいのですが、教えていただけませんでしょうか?」

とお願いしてみた。

店主は、まだ20歳代とみえる若い人で、永野太造の長男の子息であった。
ちょうど、太造の次男の方が店の中にいて、話を聞くことができた。
次男の方から聞けた、写真家・永野太造についての話は、次のようなものであった。

父・永野太造は、大正11年(1922)生まれ。 平成2年(1990)68歳で没した。

「鹿鳴荘」は、太造の先々代から続いている店で、奈良博物館が出来て、開館したしたときに、茶店として開業した。
奈良の博物館の開館が明治28年(1995)であるから、「鹿鳴荘」も明治半ば以来の歴史があることになる。

「仏像通解」鹿鳴荘刊
「鹿鳴荘」という屋号は、奈良博開館の明治の時からつかわれており、その後、茶店のほか、古美術関係の本の出版も手掛けていた。
「仏像通解」(S2刊)、「南都七大寺古瓦紋様集」(S3刊)といった仏教美術関係書などを中心に出版していたが、太造の先代は自ら写真を撮影することはなかった。

永野は、召集により南方に出征し、終戦後に復員。
写真を始めたのは、終戦後のこと。
ある古美術写真の写真集を見て、大変に感動、啓発されて仏像写真をめざすようになった。
写真の技術は独学で習得し、仏像写真家の途をすすむことになったもので、写真工房に勤めたことや、習ったことはない。
仏像写真の世界で、それなりに永野太造の名を成すことができたのは、多くの有名寺院が、永野が仏像写真を撮影することに、便宜を図ってくれたことも大きい。
それが叶ったのは、鹿鳴荘が奈良博物館との接点もあり、仏教美術出版も手掛けていたので専門家・学者との縁もあり、その力に追うところが大きかったようだ。

長男も次男も兄弟で、太造の写真助手として、撮影を手伝った。

永野は、亡くなる1年ほど前、自宅で転んで頸椎を損傷するけがを負い、結局それが原因で、平成2年、享年68歳で没。

長男は自ら写真撮影もしていたが、15年前の平成8年(1996)、心筋梗塞で急逝した。
今では、仏像写真を継ぐ人もなく、茶店・土産物屋に専念。
長男の子息が、店をやっている。

永野太造が比較的若く、急逝したこともあり、
永野のことを書いたものや、思い出を綴ったようなものは、何も残されていない。
追悼集のようなものを出したいとも思ったが、結局は出来ずじまいで残念。

永野太造仏像写真集「奈良の仏像七十」
永野の写真は、多くの出版社の仏像写真に使われているが、本人は個人写真集のようなものに強い関心がなかったため、個人写真集として出版されたものは、1冊だけであった。
岡村印刷工業70周年記念出版の「奈良の仏像七十」という本。

今では、太造の撮影した写真を、せめてデジタル映像化して残しておきたいと思っており、やらねばならないと思っているけれども、なかなか手がついていない。


この話を聞いて、残念なことだが、時代はどんどん変わり、移ろい行くものだなという思いで、招き入れていただいた店を出た。

元の鹿鳴荘の店の中を覗いてみると、少々荒れた様子がうかがえたが、仏像写真の額が壁中にかけられ、古美術写真販売をしていた頃の店の様子をそのままに残したままであった。

外側には、「古美術写真鹿鳴荘」の看板と、「鹿鳴荘」と刻された古い扁額が掲げられていた。
この扁額は、明治の漢詩人で、新潟日日新聞編集長、朝鮮李王家顧問などを務めた佐藤六石の手になるものではないだろうか?
永野太造氏の姿が思い出させるこの扁額も、いずれなくなってしまうのだろうかと感慨深い思いに至ったのであった。

  
「鹿鳴荘」の中の様子                  佐藤六石筆と思われる「鹿鳴荘」の扁額


もうひとつ、永野太造について、忘れてはならないことがある。
工藤精華の遺した、ガラス乾板・焼付写真の保存に尽力したことだ。

「奈良いまは昔」北村信昭著には、そのいきさつについて、このように語られている。

「昭和39年(1964)2月2日、お琴さん(故・工藤精華の養女)は今小路の桜井病院で80歳の生涯を閉じられた。
鹿鳴荘主・永野太造ら近隣役員10名程が世話、特に同月5日、山の寺での告別式は永野さんが力になられたと仄聞している。
尚、すんでの処で屑屋さんに売られようとしていた膨大な量のコロタイプ写真をを保存し、写真原版と共に市に寄託、工藤利三郎の名を残すことを主張し、その実現を見たのも鹿鳴荘主の提唱によるものであった。

近年、工藤精華堂が俄かにクローズアップされ、新聞記事にもなり、NHKのテレビでも紹介されたが、それまでのプロセスには以上のような裏話があったわけである。」


工藤精華の貴重な文化財、仏像写真は、今では、国登録有形文化財に登録され奈良市写真美術館に保管されている。
我々は、永野太造のこの尽力に、本当に感謝しなければならない。


最後に、永野太造の写真が掲載された鹿鳴荘出版の本と個人写真集を紹介しておきたい。

「知識と鑑賞・仏像彫刻」 岡直己解説 (S27) 鹿鳴荘刊 【41P】 120円

当時、奈良博物館の技官であった岡直己解説による、仏像彫刻史の小冊子。
永野撮影の代表的仏像の写真が掲載されている。


「日本彫刻美術」 小林剛・松本楢重編集解説 永野鹿鳴荘刊 【86P】 500円

これも仏像彫刻の小冊子であるが、永野撮影の写真集に少しばかりの解説という体裁になっている。刊行年が記載されていない。

  


「奈良の仏像七十」 写真・永野太造、解説・青山二郎 (H2) 岡村印刷工業刊 【156P】 非売品

永野太造が残した唯一の個人写真集。


奈良の代表的仏像70体が、永野の美しいカラー写真で収録されている。
解説は、毎日新聞奈良支局美術記者の経歴を持ち、奈良通で知られる青山茂。
本書は、岡村印刷工業創業70年に際し、これに因んで奈良の70の仏像を選んで写真集にしたもの。
岡村印刷は、昭和30年より永野太造の仏像写真で自社カレンダーを制作してきており、これらの写真の中から選んで編集された、記念出版本。
本書は永野太造の没した平成2年に出版されており、奇しくも遺作写真集となった。



 


       

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