30歳ぐらいの時(昭和12年頃)、来客から土産にとライカの写真機をもらったことから、写真が面白くなり、その後「丹平写真倶楽部」の安井仲治に出会ってから、写真から抜けられなくなってしまった
父・永野太造は、大正11年(1922)生まれ。 平成2年(1990)68歳で没した。
「鹿鳴荘」は、太造の先々代から続いている店で、奈良博物館が出来て、開館したしたときに、茶店として開業した。
奈良の博物館の開館が明治28年(1995)であるから、「鹿鳴荘」も明治半ば以来の歴史があることになる。
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「仏像通解」鹿鳴荘刊
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「鹿鳴荘」という屋号は、奈良博開館の明治の時からつかわれており、その後、茶店のほか、古美術関係の本の出版も手掛けていた。
「仏像通解」(S2刊)、「南都七大寺古瓦紋様集」(S3刊)といった仏教美術関係書などを中心に出版していたが、太造の先代は自ら写真を撮影することはなかった。
永野は、召集により南方に出征し、終戦後に復員。
写真を始めたのは、終戦後のこと。
ある古美術写真の写真集を見て、大変に感動、啓発されて仏像写真をめざすようになった。
写真の技術は独学で習得し、仏像写真家の途をすすむことになったもので、写真工房に勤めたことや、習ったことはない。
仏像写真の世界で、それなりに永野太造の名を成すことができたのは、多くの有名寺院が、永野が仏像写真を撮影することに、便宜を図ってくれたことも大きい。
それが叶ったのは、鹿鳴荘が奈良博物館との接点もあり、仏教美術出版も手掛けていたので専門家・学者との縁もあり、その力に追うところが大きかったようだ。
長男も次男も兄弟で、太造の写真助手として、撮影を手伝った。
永野は、亡くなる1年ほど前、自宅で転んで頸椎を損傷するけがを負い、結局それが原因で、平成2年、享年68歳で没。
長男は自ら写真撮影もしていたが、15年前の平成8年(1996)、心筋梗塞で急逝した。
今では、仏像写真を継ぐ人もなく、茶店・土産物屋に専念。
長男の子息が、店をやっている。
永野太造が比較的若く、急逝したこともあり、
永野のことを書いたものや、思い出を綴ったようなものは、何も残されていない。
追悼集のようなものを出したいとも思ったが、結局は出来ずじまいで残念。
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永野太造仏像写真集「奈良の仏像七十」
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永野の写真は、多くの出版社の仏像写真に使われているが、本人は個人写真集のようなものに強い関心がなかったため、個人写真集として出版されたものは、1冊だけであった。
岡村印刷工業70周年記念出版の「奈良の仏像七十」という本。
今では、太造の撮影した写真を、せめてデジタル映像化して残しておきたいと思っており、やらねばならないと思っているけれども、なかなか手がついていない。