埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百五十六回)

   第二十七話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その4>奈良の仏像写真家たちと、その先駆者

(1-10)


【目次】


はじめに

1.仏像写真の先駆者たち

・横山松三郎と古社寺・仏像写真
・仏像美術写真の始まり〜松崎晋二
・明治の写真家の最重鎮〜小川一眞
・仏像写真の先駆者たちに関する本

2.奈良の仏像写真家たち

(1)精華苑 工藤利三郎

・私の工藤精華についての思い出
・工藤精華・人物伝
・工藤精華についてふれた本

(2)飛鳥園 小川晴暘

・小川晴暘・人物伝
・その後の「飛鳥園」
・小川晴暘と飛鳥園についての本

(3)松岡 光夢

(4)入江泰吉

・入江泰吉・人物伝
・入江泰吉の写真集、著作

(5)佐保山 堯海

(6)鹿鳴荘 永野太造

(7)井上 博道




はじめに


「好きな仏像は?」と問われれば、即座に「神護寺薬師如来立像」と答えるのが常である。

神護寺・薬師如来像
これは、写真家・土門拳が、ある随筆に綴った文章の一節だ。

実は、私も一番好きな仏像は、昔から「神護寺薬師如来」。
神護寺薬師像の前に立つと、ヒリヒリとした緊張感が漂ってくる。
威圧的でデモーニッシュな迫力、強烈なインパクトに、思わず後ずさりしてしまいそうになる。

いわゆる平安初期と呼ばれる仏像に強く惹かれ、平安初期仏像といわれると、何を置いても拝みに出かけるのだが、なかでも神護寺薬師像は平安初期彫刻の魅力といわれる「森厳、異貌、デフォルメ、迫力」などの言葉を、そのまま体現したような仏像彫刻だ。

神護寺・薬師如来像顔部
あきれるほどの鑿の切れ味で深く彫り込まれた衣文は、シャープに鎬立ち、手が切れそうだし、目鼻や口は研ぎ澄ました刀で切りつけたように鋭い。顔面には細かな鑿跡まで残している。


この仏像が大好きになったのは、神護寺のお堂で拝した時ではなかったような気がする。
本堂は結構暗くて、薬師像の鑿跡などのディテイルの表現まで見て取ることは到底無理だ。


私がこの仏像の魅力に惹きつけられたのは、土門拳が撮影した神護寺薬師如来像のアップ写真を、展覧会で見た時からだったろう。
昭和47年(1972)、小田急百貨店で開催された、土門拳写真展「古寺巡礼」の時であった。

土門拳写真展「古寺巡礼」図録
今、その時の図録をとりだして、もう一度土門拳の神護寺薬師の顔面のアップ写真を見てみると、今更ながらにその写真から放たれるオーラ、迫力を感じざるを得ない。

鋭く森厳な眼、頬に残る鋭い鑿後、ぎゅっと結んだ唇など、その強烈な魅力に引き込まれていってしまう。


振り返ると、私は、土門拳の「写真の中の神護寺薬師」の持つ魅力に心打たれ、その写真のイメージを、神護寺を訪れるたびに、薬師如来像を拝するたびに、追い求め、自分の眼で再確認してきたような気がしてくる。

  


人は、「魅力あふれる仏像写真」に惹かれ、その写真でお気に入りの仏像に会いに古寺を訪れ、その美しさや魅力を再確認したり、写真のイメージと照らし合わせたりすることが、常であろう。

我々は皆、多かれ少なかれ、仏像写真のお世話になって、仏像ファンになったり、仏像愛好の道に入って行ったのは間違いない。
土門拳のみならず、小川晴暘、小川光三、入江泰吉、坂本万七、藤本四八、石本泰博、藤森武・・・・・・・・。
こうした著名な仏像写真家たちの撮影した仏像写真は、それぞれに魅力にあふれ、それぞれに個性を主張している。
皆さん、その写真作家がお気に入りなのであろうか?
彼等の個性ある写真が、我々仏像愛好家に与えた影響には、計り知れないものがあるだろう。

今回は仏像写真家の歴史と人物をたどってみたい。
ただ著名な仏像写真家は数多く、それらを皆採り上げるのと大変なことになってしまう。

ここでは、明治期の仏像写真の先駆者たちと、奈良に在住し、奈良と共に過ごした仏像写真家たちを中心に、振り返ってみることとしたい。



1.仏像写真の先駆者たち


奈良の地での仏像写真の草分けは、写真師・工藤利三郎が猿沢池東畔に写真館を開いたことに始まるといわれている。
明治26年(1894)のことであった。

それまでには、日本で仏像写真を撮影した人物はいなかったのだろうか?

実は、日本の仏像写真の歴史は、工藤利三郎よりももう少し昔に遡ることができる。
奈良の仏像写真家の歴史を語る前に、まずは日本の仏像写真の始まりについて振り返っておかなければならないだろう。
我が国に写真という技術が伝わってから、仏像写真を撮影した草分けとしては、二人の名を挙げることができる。

横山松三郎と小川一眞。

まさに「仏像写真の草分け、先駆者」と云える人物。


横山松三郎は、我が国で初めて仏像写真を撮影した写真師。
明治5年(1873)の古社寺宝物調査「壬申検査」に、町田久成、蜷川式胤らに従い、写真師として同行、古社寺・宝物の他、仏像も撮影している。
この時撮影された写真は、今では重要文化財に指定されている。

小川一眞(おがわ・かずまさ)は、明治15年に渡米留学し帰国後、写真家として名を成した人物。
「国華」創刊号(1889)の巻頭掲載、興福寺北円堂「無着像」の美しい写真で知られる。
明治21年(1888)の近畿地方古社寺宝物調査に同行し、古社寺や古仏像の写真撮影を担ったのが小川一眞。
仏像彫刻を、美術品の視点で美しく捉えた写真を撮影し「小川調」とも呼ばれる美意識の写真を数多く残した。

    
横山松三郎                   小川一眞


(1)横山松三郎と古社寺・仏像写真

「日本初の仏像写真」というのは、どのようなものであったのだどうか。

横山松三郎の残した仏像写真は、すべて明治5年の「壬申検査」宝物調査の時のものだ。

ステレオスコープ
この時、横山は膨大な量の古社寺写真や宝物写真を撮影した。
そのなかで仏像を写したものには、このようなものが残されている。
東大寺大仏、法隆寺釈迦三尊、法隆寺百済観音、法隆寺五重塔塔本塑像のステレオ写真などだ。
ステレオ写真とは、2点のレンズで撮影、左右2枚で一組の像をあらわし、専用のビュアーで見れば、写真が立体的に見えるというもので、当時の最新流行の写真技法であった。

それぞれの写真を見てみると、ただ淡々と撮影された記録写真そのもの。
眺めてみていても、心惹かれるとか、惹きつけられるという感じのする写真という感じではない。

 
横山松三郎 東大寺・大仏                   法隆寺・釈迦三尊像


 
法隆寺・百済観音像                   法隆寺・五重塔塔本塑像

仏像の美しさや魅力などが意識された様子は、全く見えない。
そのほかの古社寺写真も同様で、当時の写真が、美しく撮るというよりも宝物調査の記録撮影として残されたものだというように思われる。
横山松三郎の壬申検査の撮影写真は440枚以上撮られたらしく、その多くは東京国立博物館に収蔵されている。
この写真が、日本の仏像写真の嚆矢であり、文化財写真の基礎をなすものと云って良いのだろう。

ただ、前話「明治の文化財保存・保護と、その先駆者」でもふれたように、壬申検査では、仏像のことは、ほとんど調査記録に書かれておらず、信仰・礼拝対象と見られていたようで、横山の撮影した写真も、古社寺の建物や工芸品などの宝物の写真がほとんど。
仏像の写真はほんの少しだけ残されているに過ぎない。

ところで、なぜこのような文化財写真が撮影されたのだろうか?
前話で紹介した蜷川式胤が残した壬申検査の調査日記「奈良の筋道」には、横山松三郎のことがこのように記されている。

「写真師 横山松三郎 を同行して巡回の先にて 古器物及古き建物を写真取らせて博物館の沿革に備へ度 町田蛤川見込に決定し私費にて仕る可くの処 此写真墺國へも廻し候はゞ宜敷に付 嶼國博覧会事務局右巡回の先々にて・・・・・・・」

古社寺宝物写真は、博物館設置の予備調査として考えられていたが、実施については、ウィーン万国博覧会のための準備を兼ねた調査としての記録写真の位置づけで撮影されたようだ。


横山松三郎 東大寺・鐘楼
横山の写真を見ると、古社寺などの写真の中に人物が写っているものが多くみられる。
たまたまそこに人がいたわけではなく、あえて人物を配して撮影している。
これは、建物などのスケールの大きさを比較、記録しようとしたと考えられるが、それだけが理由ではなさそうだ。
一口の人物と云っても、僧侶や公家衣装の人物、舞を舞う人、行商人や子供達など様々な人物が写し込まれている。
横山は、古社寺と古器古物だけでなく、当時の風俗文化もまた写し込もうとしていたようだ。


古文化財写真の草分け、横山松三郎の事績と生涯を簡単に辿ってみよう。

横山松三郎 明治7年(36歳)
横山松三郎は、天保9年(1838)に東蝦夷地択捉島で生まれている。
少年青年期は函館で過ごし、その時にロシア領事ゴシケヴィッチから写真術の手ほどきを受けたという話もある。
その後、横浜に出て、営業写真館の創始といわれる下岡蓮杖の弟子となる。
慶応4年(1868)には独立、明治2年には上野池之端で写真館「通天楼」を開いた。

横山は、蜷川式胤と知己交流があったようで、蜷川は横山を高く評価していた。
蜷川式胤は、町田久成と共に古器古物の保存や博物館建設に尽力した人物で、壬申検査の調査日記「奈良の筋道」や「観古図説」の著者として知られる。

この蜷川の働きかけもあり、明治3年には日光・足尾の撮影、明治4年には江戸城を詳細に撮影している。
東京国立博物館所蔵の「旧江戸城写真帖」は、高橋由一が彩色、蜷川式胤が説明を付している。
また、蜷川の「観古図説・城郭之部」にも、横山の江戸城写真が収録されている。
明治5年(1873)には、文化財調査の嚆矢といわれる古社寺宝物調査「壬申検査」に写真師として同行、我が国初の仏像写真を撮影したことは、先に記したとおり。
この時、横山は35歳であった。
横山松三郎 油絵

その後は、写真館通天楼に洋画塾を併設したり、「写真油絵」を考案したり、写真、石版、油絵など、西洋伝来の最先端の知識技術を取り入れた芸術表現に取組んだ。
自作の油絵もいくつか残されている。
明治17年(1884)、46歳で没した。


こうして振り返ると、横山松三郎の時代は、写真術という技術が我が国に導入された時代といえ、実物を実物どおりに記録写真として撮影することが、最重要課題であったと云えるようだ。
ただ、この時代に古社寺宝物調査「壬申検査」の時の古社寺、宝物写真が膨大に残されたことは、当時を知るうえで、大変貴重な財産を残してくれたと云えるだろう。



(2)仏像美術写真の始まり〜松崎晋二

明治の美術写真の大御所、小川一眞の話に入る前に、美術写真としての仏像写真を撮影した始まりと思われる、写真師・松崎晋治を紹介しておきたい。

松崎晋二は、「美術写真としての仏像写真」をはじめて撮影した人物とみられている。

松崎は、明治13年(1880)から開催された「観古美術会」への出陳作品の写真を撮影している。
「観古美術会」は、政府主催のはじめての古美術展覧会であった。
それまで、「殖産興業のための博覧会」一辺倒であったが、「古美術の展覧会」が開かれたという一つのエポックといえるもの。
この時、仏像が礼拝対象としてではなく、美術の彫刻作品として出品されたのであった。
このあたりの話は、前話「明治の文化財保存・保護と、その先駆者」の中で、詳しく触れたとおり。

この観古美術会に出品された「仏像」を、松崎が撮影している。
浅井和春氏は、この松崎晋二が撮影した「仏像写真(東博蔵・阿弥陀如来像)」の古写真を採り上げて、このように述べている。

松崎晋二 東博蔵・阿弥陀如来像

「その観古美術会(何回目か不明)に出陳された作品を、個別に撮った写真についてである。・・・・・・・・・松崎晋二の手になるもので、鶏卵紙に焼き付けられたかなり鮮明な画像である。
大袈裟にいえば、そこに美術写真としての仏像写真という、新たな分野の開拓が見出される。
これ以降、仏像鑑賞の歴史に写真が果たした役割の大きさを考えるとき、その意義は決して少なくないものがあるといえよう。」      (「仏像と近代」大和の古寺の仏たち展・図録所収)


「第一回観古美術会」には興福寺、東金堂十二神将、板彫り十二神将、十大弟子の一体、龍頭鬼などが出品されたが、これらの写真も松崎が撮影しており、東京国立博物館所蔵の古写真データベースで、いつでも見ることができる。

        
松崎晋二 興福寺・板彫十二神将            興福寺・天燈鬼     .

これらの写真を見ると、横山松三郎の仏像写真とは全く違い、作品としての仏像をアップでくっきりと撮影しており、現代の仏像写真の原点を見る思いがする。
古写真というよりも、今見ても、それなりには見ごたえのある写真になっている。
松崎晋二は、「観古美術会」「内国勧業博覧会」のお雇い写真師として出陳作品の撮影を引き受け、撮影写真の販売も新聞広告を出すなどして、大々的に行っていたようだ。
上野公園の売店に、写真販売所を設けたりしている。


松崎晋二という写真師の人生を追ってみると、数奇な人生であったらしい。
横山松三郎の弟子であったといわれ、明治政府の台湾出兵の従軍写真師となったり、小笠原も調査に出向いたり、内国勧業博覧会、美術展などの撮影を引き受けたりと、明治17年ごろまでは大活躍する。
その頃、より新しい写真技術が西欧から輸入され、新技術を吸収した写真師たちが台頭し、しのぎを削るようになると、その消息がぷっつりと途絶えてしまう。
生年は嘉永3年(1850年)であることはわかっているが、没年は不明である。

忘れられた古写真家と云っても良い人物かもしれない。



 


       

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