埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百五十四回)

   第二十六話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その3>明治の文化財保存・保護と、その先駆者

〜町田久成・蜷川式胤

(7-1/7)


【目次】


はじめに

1.明治の古美術・古社寺の保護、保存の歴史をたどって

2.古器旧物保存方の布告と、壬申検査(宝物調査)

・古器旧物保存方の布告
・壬申検査
・正倉院の開封調査

3.博覧会・展覧会の開催と博物館の創設

・博覧会の季節〜博物館は勧業か、文化財か?
・奈良博覧会と正倉院宝物、法隆寺宝物

4.町田久成と蜷川式胤という人

・町田久成
・蜷川式胤

5.日本美術「発見」の時代〜フェノロサ、岡倉天心の活躍

・古美術展覧会(観古美術会)の開催と、日本美術への回帰の盛上り
・フェノロサと岡倉天心

6.古社寺の宝物調査への取り組み

・日本美術の発見
・臨時全国宝物取調局による調査と、宝物の等級化

7.古社寺の維持・保存、再興への取り組み

・古社寺保存金の交付開始
・古社寺再興、保存運動

8.古社寺保存法の制定と、文化財の保存・修復

・文化財保護制度の礎、古社寺保存法
・奈良の古建築、古仏像の修理修復〜関野貞と新納忠之介〜

9.その後の文化財保護行政

・古社寺宝物の継続調査
・その後の、文化財保護に関する法律の制定




8.古社寺保存法の制定と、文化財の保存・修復

【文化財保護制度の礎、古社寺保存法】

いよいよ、明治の文化財保護への取り組みの集大成と云える「古社寺保存法」の制定について語る時が来た。

「古社寺保存法」とは、現在の「指定文化財制度」の始まりと云って良いもので、国家により、古社寺所有の宝物の「特別保護建造物、国宝」指定が行われた。
「古社寺保存法」の制定は、文化財保護が国是とされたという意味で、画期的なものであった。
これを以って、我が国の文化財保護制度の原型を成し、基礎が定まったとされる。

「古社寺保存法」は、明治30年(1897)6月に公布されたが、制定に至る道程を少々振り返ってみよう。

明治21年から9年間のわたり臨時全国宝物取調局により実施された、21万5千点余に及ぶ古社寺宝物調査の総決算が、古社寺保存法による「特別保護建造物、国宝」の指定と云えよう。
臨時全国宝物取調局の調査では、古器物に等級がつけられ、その所在も明確に判明したが、これは等級が付されたというだけで、宝物の売買移動に対して何らかの具体的規制は設けられなかった。
第一級の古社寺宝物の売却や海外流出について、実効性のある対策は未だ無かったし、社寺の財源不足に対しての根本的解決策がないままであった。

こうしたなか、古社寺保存法の制定をにらんで、明治29年(1896)4月に、「古社寺保存会」が内務省に設置される。
会長は九鬼隆一、岡倉天心も東京美術学校長として名を連ねる。

「古社寺保存会は、内務大臣の監督に属し、古社寺保存に関する事項に就き内務大臣の諮詢に応じ意見を開申す。」

と定められ、古社寺保存法制定後の文化財指定や制度運営の役割を果たす組織として始動する。
古社寺保存会は、その後長らく、特別保護建造物、国宝指定の中核組織となる。

翌年、「古社寺保存法」が成立する。

「社寺の建造物及び宝物類にしてとくに歴史の証徴又は美術の模範となるべきものは、古社寺保存会に諮詢し、内務大臣に於て特別保護建造物および国宝の指定が行われる資格あるものと定むことを得」

とされ、特別保護建造物および国宝の指定が行われることとなった。

そして法令により、指定された特別保護建造物および国宝は、
*内務大臣の監督のもとに、神職または住職が監守にあたること。
*所有者は、博物館への出陳義務を有すること。
*自由に処分できないこと
*保存費として、国が毎年総額15万円ないし20万円支出すること
が定められたのであった。

社寺衰退で長年懸案になっていた、宝物流出、宝物売却の停止が法的に制度化され、保存への国家の財政的支援も措置されることになったのであった。

第1回の指定では、特別保護建造物44件、国宝155件が指定される。
顔ぶれをみると、特別保護建造物には、平等院鳳凰堂、法隆寺金堂・五重塔・夢殿、中尊寺金色堂などが、
国宝には、東大寺戒壇院四天王像、薬師寺吉祥天像、法隆寺玉虫厨子、厳島神社平家納経、中尊寺一字金輪像などが、指定されている。


【奈良の古建築、古仏像の修理修復〜関野貞と新納忠之介〜】

古社寺保存法制定により、指定文化財保存のための財政的支援制度がまがいなりにも確立したことにより、指定古建築や仏像の修理修復への本格的取り組みが始まる。

岡倉天心は、まず平泉中尊寺・金色堂内部と宝物の修理修復に取組む。
明治29年に、古社寺保存法の成立と保存費の国家支給を見越して、修繕に着手する。
修理の顔ぶれをみると、設計監督は六角紫水、大村西崖、伊東忠太(建築担当)、現場監督に亀田徳太郎、秋月復郎、仏像彫刻物に新納忠之介、菅原大三郎等々が名を連ねている。
2万円余の予算を以って行われ、明治31年5月に、修繕落成式が盛大に行われたと伝えている。

 
平泉中尊寺・金色堂

さて、奈良における古建築、古仏像の修理修復はどうであったろうか。
奈良の地においても、古社寺保存法が制定された明治30年(1897)以降、堰を切ったかのごとく着々と進められる。


〈関野貞〉

関野貞
奈良の古建築の修理については、関野貞(せきのただす)の名を忘れることができない。
古建築史に関心のある人で、この人の名を知らぬ人はないだろう。
日本建築史学の泰斗だ。

関野貞は、明治25年(1892)に東京大学を卒業後、日本銀行本店の設計に従事し、東京美術学校で教鞭をとっていた。
明治29年(1894)、古社寺保存会の建築部門の唯一人の委員であった伊東忠太から、奈良における古建築の指定、修理事業の責任者に強く推され、勇躍任地奈良に赴く。
関野貞、弱冠27歳の時であった。

それから明治34年までの5年間、関野は奈良の古建築の調査、修復、研究に没頭する。
着任後半年で、奈良の古建築をくまなく見て廻り、その調査結果として、

「四百年前以上の創立の古社寺は、神社二百余、仏寺百五十ばかりだが、真に四百年前以上の建築物で、美術工芸の模範となり、建築沿革上参考となるものは、八十を出でず」

と、報告している。

建築史の体系もまだ未成熟で、どの建物が古いのか、価値があるのか、判然としていなかった頃のことである。
関野は、この約80の古建築を建築史的・芸術的価値から5等級に分け、また破損度も調査して同じく5等級に分類している。
この調査評価が、保存法による特別保護建造物の選定の大きな拠り所になったことは、言うまでもない。

現代の建築史学の重鎮、太田博太郎は、この関野の調査を振り返って、このように記している。

「今日のように、交通が便利で、文献その他も公刊されたものが多く、下調べのできる時でも、社寺350を調査することは数年を要するであろう。
しかも建築史の体系の確立していないとき、その年代を判定していくとなったら、私たちでは10年でもちょっとおぼつかない。
ところが、これがわずか半年でできており、しかもその時代判定が誤っていないということは、全く驚嘆のほかはない。」

関野は、古社寺の実地調査、文献の収集、修理事業の事務に、寝る間もない忙しさで獅子奮迅の働きをする。
新薬師寺本堂、法起寺三重塔、唐招提寺金堂、薬師寺三重塔、東大寺三月堂、秋篠寺本堂など、超一流の古建築の解体修理に携わる。
先に示した「古社寺保存に関する主な出来事年表」の奈良の処を見ていただければ、関野在任中の明治30年代前半、着々と古建築の修理が進められていたことが、手に取るように判るだろう。

 
新薬師寺本堂・修理前写真          新薬師寺本堂・修理後写真

 
薬師寺・三重塔               唐招提寺金堂


この頃の、関野の超多忙を物語るエピソードに、こんな話が残されている。
あるとき地方の役人が関野のもとを訪れ、県下の古建築の調査を依頼した都合を聞いたところ、
「それでは、12月31日から1月2日まで参りましょう」
と答えられ、大みそかと元旦だけは避けてほしいと頼んだところ、
「ほかに空いた日はありません」
と関野は答え、依頼した役人は唖然としてあいた口がふさがらなかったという話が伝えられている。

また、古建築の調査、修復のほかに、平城宮跡を発見したことも、奈良在任中5年間の大きな業績であった。

奈良の多くの古建築が、荒廃、損壊から守られ、また創建当初の姿への復元、維持されて、現在にまで伝えられてきた礎は、この関野貞の尋常ならざる献身による功績のお蔭であることを、今も忘れてはならないであろう。


〈新納忠之介〉

新納忠之介
奈良の古仏像の修理修復。
こちらは、新納忠之介(にいろちゅうのすけ)の名を、忘れてはいけない。
新納は、岡倉天心門下で、東京美術学校助教授であった。
天心が東京美術学校を去り日本美術院を創立した際、行動を共にし、仏像、古美術品の修理修復を担う「第2部」の責任者として、古仏像の修理修復に携わった。
それが現在の「財団法人美術院」に至ることは、先にも触れたとおり。

新納と美術院の仏像修理については、別稿で詳しく記す機会を設けたいと思っているので、ここでは簡単にさわりのみでとどめたい。

新納が、はじめて仏像修理にあたったのは、明治29年(1896)、平泉中尊寺・金色堂修繕の時。
この時、新納は29歳。
新納が奈良へ来ることになったのは、明治34年(1901)、東大寺三月堂諸仏の修理の時であった。

天心に三月堂仏像の修理を命ぜられた時、新納は、
「無経験の者にとっては、どのようにしたらよいか途方もない話で、死を賭してやるつもりで奈良に赴いた」
という主旨の思い出話を語っている。

こうした雲をつかむようななかで、天心の発案した「現状維持修理法」を実践し、現在の仏像修理の基本理念を確立したのであった。
新納は、三月堂諸仏修理に赴いて以降、東京に戻ることなく奈良の地に定住し、仏像修理にその生涯を捧げた。

新納の「美術院」が手掛けた仏像修理の件数は、明治30年(1897)から10年間だけでも、385件。
それらのなかには、三月堂諸仏の他、興福寺十大弟子・八部衆像、新薬師寺薬師如来像、秋篠寺伎芸天像、東大寺戒壇院四天王像、法華寺十一面観音像などがあり、奈良の有名処の仏像で、新納の修復の手が入っていないものはまず無いと云って良いだろう。

    
東大寺三月堂・日光菩薩像          東大寺戒壇堂・広目天像


関野貞、新納忠之介の建造物、仏像の修理修復についての本は、次のとおり。

「建築史の先達たち」 太田博太郎著 (S58) 彰国社刊 【255P】 2200円


その題名のとおり、明治以降の名だたる建築史学者について、太田博太郎がその業績と人物について、物語風に綴った本。
関野貞の他、伊東忠太、天沼俊一、長谷川輝雄、足立康などが登場する。
「古美術保存の始まり」「建築史学の起こり」という項で、関野の奈良における建造物調査、修理への取り組みと、エピソードが語られている。
読み物としてもなかなか面白い。



「建築の歴史学者 関野貞」 関野克著 (S53) 上越市立総合博物館刊 【49P】



関野の生地である上越市に於いて開催された特別展に際して発刊された、関野の評伝。
著者は、関野貞の長男で同じく建築学者の関野克。
関野の人間と生涯を知るには、格好の本。

冒頭の「ごあいさつ」文に、次のように記されており、関野の業績が凝縮されている。
「先生は、旧高田榊原藩関野峻節の次男として慶応3年12月15日に生まれ、高田中学を経て東京帝国大学卒業後奈良県技師を振出に内務技師、文部技師として社寺古跡の調査研究を行い明治41年工学博士となり、官命により東洋各国の遺跡調査をはじめ英国、仏国、伊国に留学して建築史の調査研究を行った。
帰朝後、帝国大学名誉教授となり又国の国宝保存委員として法隆寺を始め平城京遺跡発掘のいとぐちをつけるなど全国の著名な文化財の調査保存に努める傍ら、建築古跡の研究と後進の指導にあたり数多くの著書をあらわし学界における貢献も極めて大きく明治・大正・昭和の三代にわたり吾が國建築学の基礎を築いたほか、文化財保護の権威者として重きをなした功労者である。」


「関野貞 アジア踏査」 藤井恵介他編 (H17) 東京大学出版会刊 【416P】 6500円


東京大学総合研究博物館で開催された「関野貞アジア踏査展」を機に、関野の研究業績の全貌を浮き彫りにする書として、本書が刊行された。
23名の研究者が、多面的側面から関野の業績を回顧、解説しており、偉大な建築史研究者、関野貞の全貌を深く知ることが出来る。
研究解説論文集という固い本だが、充実した貴重な本。

「解体修理の誕生〜関野貞による古社寺修理手法の開拓」(清水重敦)
という論考が所載され、奈良の諸寺の解体修理について、その内容、修理構造図などが詳細に解説されている。


「新納忠之介五十回忌記念 仏像修理五十年」 (H15) 美術院刊 【175P】 非売品

「新納忠之介展〜仏像修理にかけた生涯」 (H16) 鹿児島市立美術館刊 【154P】

新納忠之介については、この2冊を紹介しておきたい。
「新納忠之介五十回忌記念 仏像修理五十年」は、美術院・初代院長、新納の没後50年に際し、美術院100年の歴史の前半50年を支え、生涯を捧げた新納の業績を偲ぶよすがとして、編集出版された。
新納が、自分史や仏像修理について語った談話記録が全て収録されており、当時の仏像修理のありさまや苦労を活き活きと知ることができる。

「新納忠之介展〜仏像修理にかけた生涯」は、没後50年を記念し開催された展覧会の図録。
新納の故郷、鹿児島市の美術館で開催された。
新納の手がけた模造作品や、九州の仏像修理作品が多く出品され、解説、所載の論考も充実している。

     




 


       

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