埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四十回)

  第二十五話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その2>二人の県令、
四条隆平・税所篤〜廃仏知事と好古マニア




【目次】


はじめに

1.奈良県の始まりを辿って

2.奈良の廃仏毀釈と県令・四条隆平

(1)神仏分離と廃仏毀釈
(2)興福寺の荒廃と、四条県令の廃仏政策
(3)廃仏毀釈で消えた奈良の寺々

3.奈良県の誕生、県令・四条隆平、廃仏毀釈についての本

・奈良県誕生の歴史についての本
・県令・四条隆平、興福寺の廃仏毀釈についての本
・明治の神仏分離・廃仏毀釈、奈良の寺々の有様についての本

4.税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖

(1)税所の好古蒐集と蒐集姿勢への批判
(2)大山古墳〜仁徳天皇陵〜の石室発掘疑惑
(3)小説・ミステリーに登場する税所篤

5.税所コレクションと仁徳陵発掘疑惑についての本

おわりに




はじめに

 四条隆平(しじょう・たかとし)、税所篤(さいしょ・あつし)という名前を聞いて、
「その人物のことは、よく知っている」
という人は、それほどはいないだろう。
しかしながら、この二人、明治初年の奈良の古寺や古物の破壊や保存という物語を辿ると、忘れ難い人物といってよいのではないだろうか。

四条、税所は、共に明治の初期に「奈良」の県令であった人物だ。
県令というのは、今で云う県知事に当たるのであろうが、当時の県令の権力、権勢は、今では考えられないほどに大きなものがあったに違いない。
この二人の県令は、治政上の手腕や功績については別にして、古寺・古物の保存・保護という文化的な面からは、決して良い評判を残していない。
現代の「文化財保護」という価値観で考えると、県令という地位を利して、 「とんでもない、何でそこまでひどいことを」とか「それはいくらなんでもちょっと許されないのでは」
と、いうような所業を数々行なっている。
今日の文化財保護の尺度で、当時を測ることは間違いなのかもしれないが、「悪名高い県令」として、その名を今に残している。

興福寺 五重塔

四条隆平は、明治4年に成立した【統一奈良県】の初代県令。
この四条隆平、廃仏毀釈を強引に推し進め、「廃仏知事」とまで呼ばれた。
興福寺の五重塔も、県令の命により、引き倒すことが試みられ、これが難しいとなると、売却して焼き払おうとしたといった話など、徹底した仏教排除策を強行した。
四条が奈良県令の地位にあったのは、わずか1年半ほど。
その後転任となるが、短期間といえども、この間の廃仏毀釈はあまりに度過ぎたといえるもので、奈良の古寺にとっては「受難の四条県令時代」であった。

もし、初代県令が四条隆平でなかったのなら、我々は今、もっと沢山の優れた仏教美術の遺産を目の当たりにすることが出来たのかもしれない。


税所篤

税所篤は、明治9年に奈良県が廃されて、堺県に組み入れられたときの堺県令。その後、明治20年、現在の奈良県に独立を果たした後の、【新生奈良県】の県知事になった人物。
この税所篤、好古趣味の大変な古物コレクターで、その蒐集古物は「税所コレクション」とも呼ばれていた。
それだけであれば、明治の初めにも並外れた古物蒐集家がいたという話で終わるのだが、実はそれだけでは済まなかった。
その収集癖は、何が何でもという強引さで、常識外の度過ぎたものになっていたようだ。
たとえば、いくつもの古墳を勝手に発掘して、副葬品となっている古物を自らのものにしてしまったという、盗掘まがいのことをした話が伝えられている。


大山古墳(仁徳天皇陵)

なかでも、その極めつけは、明治5年、こともあろうに大山古墳(仁徳天皇陵)の陵内の鳥糞を清掃するという理由で石室を発掘し、石室内の数々の副葬品を持ち出したという疑惑の主が、税所篤であるといわれていることだ。
そして、現在ボストン美術館に収蔵されている、「仁徳天皇陵出土と伝える銅鏡や環頭大刀」などは、このときの発掘により持ち出された可能性が大きいと考えられているのだ。
税所は、県令という絶大なる権勢を笠に着て、蒐集の為には手段を選ばぬ強引手法を用いた人物として、その名を残している。



(1)奈良県の始まりを辿って

先ほど、【統一奈良県】とか【新生奈良県】という表現が出てきたが、明治維新の頃から現在の奈良県として定まるまでの間、いろいろないきさつがあった。
四条や税所が、現在の奈良県に至るどのような時の県令として権勢を振るったのであろうか。
ここで、少しばかり奈良県の始まりについて振り返ってみたい。

慶応3年(1867)に、王政復古の号令が出されて、幕府の所領は全てを新政府に返すことが命ぜられ、慶応4年(明治元年)には諸藩をそのままにして、新政府直轄領に新しく府県を置くという府藩県三治制が打ち出される。
大和国は、幕府直轄領と諸藩とで形成されていたが、これを受けて幕府直轄天領であった奈良市を中心とした地域に、奈良県が設置される。
その後、直轄領(奈良県)と諸藩とが統合されて、統一奈良県となっていく。 その経緯を、時系列で一表にすると次のようになる。



これを見ると、明治維新後、旧幕府領(天領)は、短い間にめまぐるしく名称が変わっているのが面白い。
一時期は奈良府と称されたときもあるようだ。
明治3年に奈良県の管轄下にあった宇智・吉野の両郡に堺県の錦部・石川両郡を併せた五條県が設置され、奈良県の規模はかなり縮小する。
明治4年には「廃藩置県」により、全国で261県が廃止され、3府302県となる。
大和でも、8藩の呼称が県に変更される。
政府は、府県の統廃合により一挙にその数を4分の1以下に減らす政策を断行、3府72県と北海道開拓使にまとめる。
大和国については、奈良県・五條県・旧諸藩8県と飛び地のあった5県を統合することになり、新たに統一奈良県が設置される。
この統一奈良県が、現在の奈良県にあたる地域となり、この時、今の奈良県が誕生したのである。
明治4年12月のことであった。

この統一奈良県の初代県令になったのが、四条隆平(しじょうたかとし)だ。
四条が奈良県令就任した時、何と30歳の若さであった。
現代の感覚でいうと、そんな歳で「県令」というような大役が務まるものか。
そんな若造を県令にするから強引な行き過ぎがおこってしまうのだ、とおもってしまう。 しかし、維新直後の時代では、不思議なことではなかったのかもしれない。
四条隆平という人物を辿ってみると、天保12年(1841)、権大納言四条隆生の三男に生まれ、後に隆生の兄隆詞(たかうた〜七卿落ちのうちの一人)の養子となっている。
まさにお公家さんの出ではあるが、明治維新に際しては、北陸道鎮撫副総督などに任ぜられるなどにより戦功賞典録をうけており、箱入りのお公家さんというのではなかったようだ。
28歳の若さで若松県知事となり、五條県知事を経て統一奈良県の初代県令に任ぜられている。
明治31年に男爵に叙され、明治44年(1911)71歳で没している。
四条隆平の、奈良県令としての所業や出来事については、改めてふれることとしたい。

さて、統一奈良県として船出した奈良県であったが、その4年半後、堺県に吸収されてしまう。
これは、明治9年、政府が各府県の財政難を解消するため、府県規模を拡大し、3府35県に整理統合したことによるもので、堺県は河内、和泉、大和の3国を管轄することになった。
このときの堺県令が、税所篤(さいしょあつし)である。
堺県は、明治14年、さらに大阪府に統合される。
なんと奈良(県)は、大阪府の一地域になってしまうのだ。
この統合は、大阪府の財政を救うことが主な目的でなされたのだが、このときから「大和国(奈良県)の独立が大和の人々の悲願」となった。


新生奈良県(奈良県再設置)発足直後の新庁舎
長きに亘る県再設置請願運動が繰り返された結果、ようやく明治20年に至って、奈良県の大阪府からの独立、新生奈良県の設置が認められる。
そして、この新生奈良県の初代知事に、奈良県統合時の堺県知事、税所篤が就任する。
税所は、かつて堺県令であった関係上、陰に陽に奈良県再設置運動の支援者となっていたのであった。


税所篤は、文政10年(1827)生まれの薩摩藩士。
青年時代から西郷隆盛や大久保利通と親交があり、第一次長州征伐では西郷と共に長州藩との交渉に当たった。戊辰戦争では、大坂にいて新政府軍の軍事費などの財政処理を務めたそうだ。
税所は大久保利通に次のように語ったと伝えられる。
「卿ら専心天下のために尽くすべし。金穀のことに至っては我輩にこれに任すべし」


新生奈良県初代知事・税所篤

関西財界から巨額の軍費を調達したといわれ、その功労により出世街道をトントン拍子に駆け昇ったといわれている。
維新後は、大阪府判事、河内県知事、兵庫県権知事、堺県知事を歴任し、明治4年廃藩置県後の堺県令をつとめている。
その後は、正倉院御物の整理掛、奈良帝室博物館評議委員、霧島神宮宮司、枢密顧問官を歴任。
明治20年(1887)維新の功により、子爵を授けられている。
明治42年(1910)死去。享年84歳。


現在の奈良県に至るいきさつが数奇で興味深く、奈良県誕生物語と県令、四条・税所の経歴の話がついつい長くなってしまった。
メインテーマに関係のない話はこれくらいにして、そろそろ「廃仏毀釈と四条県令、古物蒐集と税所県令」の話に入っていきたい。



 


       

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