埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十七回)

  第二十四話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
  
  〈その1〉  法隆寺の大御所 北畠治房



【目次】


はじめに

1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

3.北畠冶房の生い立ち、略伝

4.近代法隆寺と北畠冶房

(1)法隆寺宝物の皇室献納
(2)百万塔の売却
(3)若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還
(4)法隆寺二寺説のルーツ

5.北畠冶房について採り上げた本




   (3)    若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還

 昭和14年、明治のいずれの時期にか寺外に出てしまっていた若草伽藍の巨大な塔心礎が、法隆寺に返還されることとなった。
 神戸・住吉村の野村邸に在った塔心礎は、12月、大掛かりな移動運搬作業により、若草伽藍址の元の位置に、無事戻された。


若草伽藍跡と塔心礎
 若草伽藍址とは、法隆寺西院伽藍の東南に隣接している広い空地で、古代の伽藍址地のことである。
 日本書紀には「法隆寺が天智9年(670)火災罹災した」旨の記載があるが、今日では、この若草伽藍が天智9年に焼失したと考えられている。
 法隆寺再建非再建論争は、世紀の大論争とも言われるほど、明治の頃から長らく続いた論争であったが、礎石返還の昭和14年は、足立康が「新非再建説」を 華々しく発表した頃であった。
 再建論の雄・喜田貞吉と足立との公開立会論戦が開催されるなど、論争はヒートアップしていた。

 喜田を代表格とする再建論者は、法隆寺は日本書紀記載の通り一度焼失した後、天智年間以降に現在の西院伽藍が再建されたと主張。
 足立康を代表格とする非再建論者は、法隆寺の地には、飛鳥時代、現在の若草伽藍と西院伽藍が並存して存在していたのであり、若草伽藍は日本書紀記載の通 り天智9年に焼失したが、西院伽藍は創建から現在に至るまで、無事に遺されたと主張していた。
 論争の白熱ともに、若草伽藍に元々在ったはずの巨大塔心礎の行方が注目探索されるようになり、神戸・住吉村の野村徳七邸に在ることが判明、大きな話題を 呼ぶことになる。
 塔心礎は、野村家から法隆寺に寄付返還されることとなり、昭和14年12月、住吉村から法隆寺に移送された。
 無償で返還とはいっても、重さ12トンといわれる巨大心礎を移送することは、容易なものではなく、貨車で深夜に移送、運び出しから据付まで10日ほどを 要し、移送費用も当時3500円という多額であったようだ。

 
野村邸の塔心礎(座っているのは釈瓢斎)           塔心礎移送の情景    

 さて、この若草伽藍の巨大塔心礎、いつ頃、どのようにして、寺外に運び出されたのであろうか?
 ここに、北畠冶房が登場するのである。
 若草伽藍から、塔心礎を運び出した張本人は、北畠冶房であった。
北畠は、この礎石を自宅に運び込んでいた。後に北畠邸から阪神沿線住吉の久原房之介家に移される。この久原邸が、昭和13年、野村徳七の所有になったので あった。
 北畠が塔心礎を自邸に運び入れたのが明治40年頃のこと、久原邸に移されたのが大正4年のことであった。

 法隆寺日記には、

「北畠男爵邸内 旧ト妙音院裏所 在若艸伽藍塔礎石
今度攝州住吉久原房之介方ヘ譲渡サレ搬出セリ
此因縁深キ遺物ヲ遠ク他府県ニ出シ去ルコト可惜之極ナレトモ是非ナキコト也」

 と、記されている。
 法隆寺の寺僧にとっては、この塔心礎が運び出されてしまうことを、心より口惜しく残念に思っていることが、この日記から偲ばれる。

 実は、礎石が久原邸に移される大正4年に、法隆寺管主・佐伯定胤が記したとされる、「塔心礎の由緒書き」なるものが存在する。
 由緒書には、このように書かれている。

 「この礎石は、斑鳩寺塔婆の中心残礎であったが、明治維新の頃、地方人の手に渡り、地方人がこれを割って石畳、その他の石材に使用しようとしたのを、そ の当時東京にいた北畠氏が聞きつけて、早速その発破待ったの急使をたて、ようやく破壊を食い止めたもので、その後、久原氏の求めに応じて同氏に売った。」

 なんと、この由緒書きは「北畠作成の偽書である」といわれている。
その書風から見ても、佐伯定胤の手になるものではなく、北畠が作成したものであることは間違いないと考えられている。
 北畠が、この礎石の由緒を証明し、その価値を高めるために作成したことは、明らかであるようだ。
 由緒書にあるようなエピソードが本当にあったのかどうかは判りようもないが、ここでもまた、北畠一流の強引さと胡散臭さを、垣間見てしまったように思え る。

 この久原邸への礎石運び出しのいきさつについて、釈瓢斎が自著「法隆寺の横顔」(S17)で次のように書いている。
 釈から見てもこの顛末、何やらスッキリせぬものを感じたのであろうか。

 「北畠男が法隆寺の財政窮乏に際して、救済の意味で塔礎を 買ったと書いたのは、いささか事実に遠いようだ。
 右の塔礎は、男の居宅の近くにあった処から、いつの間にか男爵邸内に運び込まれ、男はその上に鉄製の五重塔を安置していた。
 後にこれを一括して久原氏に売却した値が一萬五千円とある。今日の貨幣価値なら十万円というところだ。
 これが法隆寺の収入になったか、どうかは問わぬことにして・・・・・・・・」

 余談ながら、再建非再建論争のその後であるが、
 この塔心礎の返還を機に、石田茂作、末永雅雄らにより、若草伽藍の発掘調査が行なわれる。

若草伽藍跡塔心礎
 結果、伽藍址には焼け跡が認められたばかりではなく、いわゆる四天王寺式の伽藍配置であったことが判明した。
 そして何よりの大発見は、伽藍の方位が現在の西院伽藍と17度もずれており、大化改新以前の条理の方位と合致していることと、若草伽藍と西院伽藍との寺 地が互いに重なっており、同時期に二つの伽藍が並存することが考えられないことが、明らかにされたことであった。
 再建論派の勝利を決定付ける発掘調査となったのであった。
 明治から昭和へと、三代に亘って大論争が繰り返された再建非再建論争は、幕を閉じることとなり、現西院伽藍は若草伽藍焼失後に再建されたこと、即ち白鳳 期の再建ということで一致を見るに至った。


法隆寺西院伽藍金堂
 時を経た現在では、西院伽藍の用材が飛鳥時代に遡るものもあるという新事実が近年判明したことなどから、新たなる非再建説とも言える、有力新説が登場し ている。
 鈴木嘉吉が主張する説では、皇極2年(643)斑鳩宮消失後、現西院伽藍に斑鳩宮にあった仏像等を祀る仏堂が建てられ、若草伽藍焼失後この仏堂を中心に 伽藍化したのが、現在の西院伽藍であるというものだ。


 法隆寺論争は、平成の今も猶、続いていると言えよう。
 真実の発見、論争の決着というのは、なかなか奥深く難しい。

 この話の終わりに、若草伽藍塔心礎の寺外流出と返還について、高田良信が詳しい一文を草しているので紹介しておこう。

「伊 珂留我 法隆寺昭和資材帳調査概報11〜特別報告 若草の礎石について:高田良信〜」 法隆寺昭和資材帳編纂所編 (H1) 小学館刊 【34P】  1240円 

 礎石の由来、寺外への流出経緯、返還に至る出来事等が、大変詳しく当時の新聞報道等を含めて書かれており、誠に興味深い一文。

 


       

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