埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十三回)

  第二十四話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
  
  〈その1〉  法隆寺の大御所 北畠治房



【目次】


はじめに

1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

3.北畠冶房の生い立ち、略伝

4.近代法隆寺と北畠冶房

(1)法隆寺宝物の皇室献納
(2)百万塔の売却
(3)若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還
(4)法隆寺二寺説のルーツ

5.北畠冶房について採り上げた本




 
  2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

 北畠の「大御所様ぶり、雷親爺ぶり」を、活写した文章を、紹介してみたい。
 歴史学者の喜田貞吉、詩人の薄田泣菫の二人が、その思い出や人となりについての文章を残している。

 まずは、喜田貞吉の思い出話。
 明治38年3月、関野貞、平子鐸嶺は相次いで「法隆寺非再建論」発表した。
これに真っ向から対抗し、猛然と論争を挑み、一貫して「法隆寺再建論」を主張し続けたのが喜田貞吉。
 この論争は、「法隆寺再建非再建論争」と称され、その後、昭和の時代に至るまで大論争となっていくのは、ご存知の通り。
 当時、弱冠35歳の喜田は、その年の12月に、法隆寺を訪問する。
 このとき、奈良の郷土史家・水木要太郎の薦めで北畠邸を訪れ、初めて面識を得る。
 喜田は、北畠という人間に強烈なインパクトを感じたようで、自著の「60年の回顧」の中で、思い出を語っている。


「喜田貞吉著作集14〜60年の回顧・日誌〜」 喜田貞吉著 (S57) 平凡社刊 【622P】 6400円

 「60年の回顧〜法隆寺年代論〜」のところに、思い出話がでてくる。
 冒頭の文章の繰り返しで、くどくなるかもしれないが、なかなか面白い文章なので、お付き合い願いたい。

 その道の通なる水木君を煩わして、実地について法隆寺の案内を請うたところが、同君はうまいことを言って、まずもって自分を同寺門前の北畠邸へ案内されたものだ。
 「男爵があなたの論文を読んで、一度会いたいといっておられる。」というのだ。
 自分は、男爵がどんなお方であるかを知らず、長者から会見を求められることにいささか得意を感じて、快くこれに応じたのであったが、さてお目にかかってみると、案に相違してまるで叱られに行ったようなものであった。
 当時男爵は既にかなりのご老体で、温顔を持って、しかも立会い_々猛烈なる気焔をあびせかけられる。
 およそ法隆寺問題に口を容れたほどのものは、男爵にとってことごとく「馬鹿」であり、「青二才」であるのじゃそうな。
 「黒川(真頼)・小杉(榲邨)の大馬鹿どもが」である。「関野・平子の青二才どもが」である。
 自分に対しても初めのうちこそ「君」という対称を与えられたが、いつの間にかそれが「お前」になる。「お前も馬鹿なことを行ったものだ。しかしあれには関野・平子の青二才どももずいぶん参っただろう」である。
 さんざん八つ当たりに罵倒を浴びせかけられた揚句のはてに、「しかしお前の筆法の鋭利なのには感心した。あの筆をもって俺の説を発表したなら天下無敵 だ。どうだ教えてやるから二、三日宅に逗留してくれんか。ここらはどうせ碌でもないものばかりだから、大阪から御馳走を取り寄せて、賓客の待遇をするがど うか」と来た。
 一時間以上も怪気焔を恭しく拝聴させて、自分には一言も口を利かせなかった末がこれだ。
 やがてそのいわゆる「碌でもない」ところの、しかも自分にとっては大そうなご馳走を、「お前は胃が悪そうだから」と、わざわざ粥まで用意されて、いわゆる賓客の待遇を頂戴して、さらに御自身法隆寺の堂塔を案内してくださるといわれる。
 「坊主どもは仏像を勿体ない物のように思っているから、学者の好きな研究が出来ぬ」とあって、「俺がお客様を案内するからお前たちは下がって休んでいるがよい」と、案内者を追出しての御説明を承る。
 御自身、須弥壇の上へ登って、ステッキで仏像を叩いてみて、「どうだ、この音が推古式だがお前にはわかるか」という調子だ。
 目を閉じて柱を撫でてみては、「この手触りが推古式だがお前にはわかるか」と言われる。
 御説明はともかく、生まれて始めて内陣に足を容れたと言うよりも、かつて古仏像など注意して見たことのない自分にとっては、お陰でゆっくりあらゆるものを観察することが出来たのが嬉しかった。
 次には東院、次には中宮寺とそれぞれご案内を受ける。
 「これ小尼!俺がお客様を案内するから、お前は曼荼羅を出したら下がってよろしい」と、どこまでもこの調子で、男爵はまるで法隆寺界隈の大御所様だ。

 
法隆寺の回廊の円柱              法隆寺金堂内陣

 次には、明治から昭和にかけての詩人・薄田泣菫が綴った北畠冶房像を見てみよう。
 ご存知の通り、薄田泣菫といえば、奈良を愛し「ああ、大和にしあらましかば」(詩集:白羊宮所収)と言う詩であまりにも有名。
 泣菫は、北畠冶房と面識、付き合いがあり、興味をそそられる人物であったようで、北畠を題材にした随筆を三編残している。

中宮寺の春」 【太陽は草の香がする:昭和元年(1926)
          12月刊】
「北畠老人」 【猫の微笑:昭和2年(1927)5月刊】
「法隆寺の老人」 【猫の微笑:昭和2年(1927)5月刊】

 三篇の随筆は、次の本に収録されている。

「泣菫随筆」 薄田泣菫著 (H5) 富山房刊 【334P】 1100円
「中宮寺の春」を収録

「薄田泣菫全集 第7巻」 薄田泣菫著 (S14) 創元社刊 【466P】 2.8円
「北畠老人」「法隆寺の老人」を収録

 

 この随筆の内容については、直木孝次郎が、自著「新編私の法隆寺」のなかで紹介 している。
大変わかりやすくコンパクトにまとめられており、原文を紹介すると長くなるので、直木の文章を、そのまま紹介したい。

 まずは「中宮寺の春」から。

 ある年の1月5日の午後、泣菫は冶房とつれだって夢殿へ行き、見物客らしい四十がらみの紳士に出会う。
 治房は横柄に、「おい、お前はどこの奴じゃ」と、呼びかける。
 紳士は、丁寧に「はい、神戸の者でございます」と答える。
治 房は、「ひとりで見て歩いたって、お前たちに何がわかるもんか。案内してやる」といい、紳士は「それじゃお供させていただきます」と答える。
 冶房は、「ついて来るか。いい心掛けじゃ。しばらく僕と一緒にいたら、きっと賢くなれるからの」と、例の調子である。
 そして自分の着古した外套をぬいで、紳士の前に突き出す。
 「お前は手ぶらのようだから持ってくれ」
 紳士は不承々々に古外套を抱える。
 三人はそれから中宮寺へ行って、本堂の如意輪観音の前に坐り、老人(泣菫は冶房のことをこう記す)は、いつものようにわめくようにこの仏像の優れていることを吹聴する。
 それから別間の座敷に行って休息するのだが、ここで泣菫は老人から行儀作法について講釈を聞かされる。
 ふと気がつくと、先ほどの神戸の紳士がいない。
 「あいつには外套を持たせてあるのじゃが」と、老人は急に不安になり、次の間へ捜しに行く。

 以下は泣菫の原文。

 紳士の姿はそこにも金堂にも見えませんでしたが、禿ちょろけの老人の外套は折りたたんだまま、お鏡餅の飾ってある小さな経机の上に載せてありました。
 そして手帖でもちぎったらしい紙片に、鉛筆で次のように書いてありました。
 「奉納、古外套一著(ママ)。
        口喧しい老人より」
 北畠老人は懐中から眼鏡をとり出して、その紙片に眼を落としたかと思うと、鳴くような声で笑ひ出しました。
 「あいつめ、老人をやわにしよるわい」

 以上で、「中宮寺の春」というと題する小品は終わる。
 表面は傲岸で横柄だが、内心には人の好さと気の弱さもつ老人のすがたが、温かくえがきだされていると言えよう。


 次は「北畠老人」、同じく直木の文章で紹介したい。

 もう一つ、こんな話もある。
 ある時、泣菫が北畠老人にこれから吉野へ行く用がある、と言うと、それならお前に教えてやることがある、といって「源義経は何の目的で吉野へ入ったか。お前はそれを知っとるか」と質問した。
 泣菫は知人のM氏から聞いたことを思い出して答えた。
 「北国行きにいる山伏の装束を取りに行くためでしょう。吉野には修験者がたんといますからね。私の思いつきですが」
 これを聞いて老人の声の調子が変わった。
 「その通りじゃ。俺はそれを研究して知ったが、貴公は思いつきで考えたとすれば、貴公の頭は馬鹿にならない」
 いつもは「お前」と言っていたのが、「貴公」と言う敬称に昇格した。
 泣菫がM氏に会ってその話をすると、M氏は大きな身体をゆすって、とめどなく笑い出し、涙をふきふき言った。
 「山伏の装束取りは、僕の発見ではない。聞きかじりだよ。北畠老人からの」
これは「北畠老人」という小品である。


 「法隆寺の老人」は、北畠が、高名な学者や画家をやりこめたエピソードなどを綴った泣菫の随筆。


 泣菫が北畠と知り合ったのは、泣菫が故郷・岡山から大阪に出て毎日新聞に入社した大正元年以降のことであろうと思われ、泣菫30歳半ば、北畠80歳になった頃だ。
また、喜田貞吉が北畠との出会いを綴った時、喜田は35歳、北畠は72歳。
 いずれの随筆からも、北畠冶房の傲岸不遜、傍若無人ぶりが伺えるけれども、その頑固一徹の雷親爺の老人への憎めない親愛の情のようなものも、滲み出ているような気がする。
 この二人が、北畠と出会ったとき、北畠はもう70歳を超えており、当時では大変な長生きの大年寄。
 北畠自身、老いと共に枯れてきて、傲岸不遜ななかにも丸みや洒脱さを帯びてきていたのだろうか。
 30歳代の二人にとっては、駄々をこねる餓鬼大将のような老人に、やさしさを持って接するような気分であったのであろうか。

 いずれにせよ、北畠冶房という特異な人物を、見事に活き活きと描き出している。

 


       

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