埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十回)

  第二十三話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その6〉 〜仏像の素材と技法〜石で造られた仏像編〜

(3)花崗岩の時代と渡来石工

 鎌倉時代には、花崗岩による石仏制作の時代が到来する。
 これまでの石彫技術では難しかった、硬質の花崗岩を彫刻することが可能となり、石仏の一般化、庶民化が進み、多数の単独石仏が造られる時代となるのであ る。
 これは、宋の石工の渡来による、石造技術の発展の影響によるものといわれている。

 治承4年(1180)平重衡の兵火によって、南都諸大寺は灰燼に帰す。
宋渡来石工作の石獅子
 翌年、俊乗坊重源が東大寺再興の大勧進職に補せられる。
 復興事業にあたり、重源は宋から多くの工人を招請する。
 石造についても、宋人の石工が渡来し、大仏殿の石工事にあたることとなる。
 大仏の再興鋳造を行なった、宋国人、陳和卿もこのとき渡来している。
 記録によれば、宋石工「宋人字六郎等四人」は、建久7年(1196)日本の石が造り難いために、中国から石材を取り寄せ、中門の石獅子、堂内の石の脇 士、四天王を造ったと、伝えられる。(東大寺造立供養紀)
 その後、花崗岩石彫の技法を体得した宋石工ではあったが、渡来当時には、「日本の国の石が造り難かった」ようだ。
 多分、豊富に産した花崗岩の石彫技術をもっていなかったのであろう。
 大野寺磨崖仏(石英粗面岩)〜承元3年(1209)〜も、この宋渡来の工人の作といわれる。

 この宋石工渡来工人の系譜にあるのが「伊行末」(いのゆきすえ)である。
 この伊行末とその一派が、その後、花崗岩による石仏彫刻の時代を造ったといわれているのである。

 宋渡来石工が、東大寺復興の石造を担ってから約50年後、この宋工人の系譜にある「伊行末」は、硬質の花崗岩を用いて石塔を制作している。
 伊行末の作と判明しているのは、大蔵寺層塔[延応2年(1240)]、般若寺十三重石塔[建長年間(1249〜1255)]、東大寺法華堂石灯籠[建長 6年(1254)]の三つの石造物で、その全てが花崗岩製だ。
 ここに至って、宋工人・伊行末は硬質の花崗岩を克服し、その石彫技術を確立したものとおもわれる。

  

【大蔵寺層塔】 伊行末作    【般若寺十三 重搭】 伊行末作    【法華堂石灯籠】 伊行末作

 その後、伊行末一派や、宋石工系譜の制作との銘記等が遺る石造作品は、その数30ぐらいをあげることができる。
 ほとんどが花崗岩製であることから、伊行末一派が花崗岩石彫技術を確立し、鎌倉時代石仏の花崗岩の時代に発展させていったという見方もされている。
 花崗岩を使った石仏の盛行が、伊行末一派の影響そのものと見るか、または別の渡来工人の指導によるものかは、明らかでなく議論の余地を残すことになろ う。
 伊行末一派は、主として石塔、石灯籠を制作した工人で、石仏のような立体的石像を主導した石工とは違うのではないかという考えもある。
 いずれにせよ宋渡来石工の系譜の影響により、花崗岩材による石仏の時代が到来したのには、間違いない。
 鎌倉時代は、我が国、石造技術史の進展にとって、画期的な時代の到来であった。

 伊行末一派の石造遺品としての有名処を上げると、ミロク辻弥勒線刻磨崖仏(1274)、談山神社十三重石塔(1298)、サンタイ阿弥陀三尊磨崖仏 (1299)、地蔵峰寺地蔵石仏(1323)あたりとなるのだろう。

 
【ミロク辻磨崖仏】 伊行末一派          【談山神社十三重搭】 伊行末一派

 

       【サンタイ阿弥陀磨崖仏】 伊行 末一派       【地蔵峰寺地蔵石仏】 伊行末一派

 ところで、ここでちょっと思い出してみたいのは、花崗岩の石仏は、奈良時代から平安初期にも、いくつか遺されていることだ。
 この時代の制作であることに異論がない石仏で、花崗岩製のものは、頭塔石仏と狛坂磨崖仏である。
【狛坂磨崖仏】金勝山山中の花崗岩石仏
 この二つの石仏は共に、東大寺の帰化人僧、良弁にゆかりがあり、頭塔石仏は良弁の弟子である実忠の造立、狛坂磨崖仏は良弁のテリトリーともいわれる金勝 寺の在る金勝山山中にある。
 そうしたことからも、朝鮮からの渡来人による花崗岩石造技術によるものと考えざるを得ない。

 先にふれたように、古代より朝鮮慶州南山あたりは、高度な花崗岩の石彫技術が確立されており、見事な花崗岩石仏が、これでもかというほどに数多く遺され ている。

      慶州南山七仏庵
 久野健は、これらの石仏は、共に新羅の工人により彫られたものと考え、

「浮彫により、これほどの立体感を表現するには、やはり長い石仏の伝統が必要であって、朝鮮慶州の石窟庵や七仏庵の石仏等、多数の浮彫を制作している間に 磨き上げられた技術なくしては造り得ないのではないかと感じたのである。」(日本の石仏)

 と述べている。

 しかしながら、この花崗岩の石彫技術は、その後、継承されず途絶えてしまったのだろう。
 そして、鎌倉時代になって、今度は、宋渡来石工によって、その技術が確立され、一般化されていった。


 ちょっと付けたりの話になるが、この「花崗岩の石材で造られた磨崖仏」の制作年代をめぐって、論議を呼んでいる磨崖仏がある。
 山口県小野田市の菩提寺山山中にある菩薩形磨崖仏だ。
この磨崖仏が、奈良時代の新羅系工人の制作か、現代の村田宝舟という僧の制作か、はたまた江戸時代の制作か、という論争で、未だ決着を見ていない。

 ご存知の方もあろうが、その経緯を簡潔にふれてみたい。
 1980年、地元の研究家、内田伸(当時歴史民族資料館館長)が、この磨崖仏が古代のものではないかと考え、その調査を久野健に依頼した。
 菩薩形磨崖仏の形式は、薬師寺東院堂聖観音像に共通するものがあったのだ。
 久野健は実査の結果、8世紀後半から9世紀前半に新羅系工人の手により制作された、貴重な古代磨崖仏と判断した。
 「日本最古の磨崖仏大発見」と新聞紙上を大いに賑わした。

 

        菩提寺山磨崖仏             菩提寺山磨崖仏発見の新聞記事

 ところが

 「この石仏は、昭和のはじめに地元の僧で石工もする村田宝舟が制作したもので、開眼法要の記録もある。現代の模古作である。」

 という話が飛び出し、騒動となり事件化したという話である。

 ここで、古代説を主張する内田伸などが、その重大な根拠としているのが、この磨崖仏が、「花崗岩製」であるということである。
 内田は、

菩提寺山磨崖仏 顔部(花崗岩)
現代においても、花崗岩石彫は高難度で、石工技術のプロでも ない一人の僧が、超硬質の花崗岩石を一から彫り起こすなどということは、到底なしうるものではない。
開眼法要したという村田宝舟は、表面的な改修、削り直しを行なったに過ぎない。
この磨崖仏は、その様式が白鳳天平期のものであることから見て、硬質花崗岩の石彫をなし得た、古代工人の制作と考えられる


 と、主張している。

 確かに、花崗岩の加工は現代でもなかなか大変なことらしい。
 今でも、電動の専門機材などを使わずに、「鋼鉄ハンマーを振り上げて石鑿(タガネ)で叩けば火花も散ろうかという硬い大きな花崗岩」を、人力で石彫加工 していくことは、大変困難を極めるということだそうだ。

 

花崗岩石彫加工の有様と石彫工具

 この論争の帰趨について、実物を見たこともない私には、感想意見も言い難いところであるが、「花崗岩の石仏」という、石材と石彫技術の問題は、なかなか 奥深いものがあるものだと、一人納得した次第。

 この菩提寺山磨崖仏について書かれた本を紹介しておきたい。

「渡来仏の旅」 久野健著 (S56) 日本経済出版社刊 【197P】 980円

  「山口・菩提寺山の磨崖仏」という章が設けられており、磨崖仏調査の経緯や、新羅系石仏との比較などにより、8世紀後半〜9世紀前半の制作と考えられる 根拠が述べられている。

「特集・話題の磨崖仏を探る〜目の眼1992年6月号所載〜」  里文出版刊 【160P】 780円

 小野田菩提寺山磨崖仏問題にスポットライトをあてた特集号で、「ドキュメント・小野田磨崖仏事件の顛末」という題目の章が設けられており、菩提寺山磨崖 仏の発見再評価の経緯から、村田宝舟作現代作説の登場、その後の顛末まで、詳しく知ることが出来る。

 

「有帆菩提寺山 磨崖仏〜有帆菩提寺山磨崖仏調査委員会報告書」 有帆菩提寺山磨崖仏調査委員会編 (H20) 山陽小野田市教育委員会刊 【119P】

 1980年に、この磨崖仏の8〜9世紀製作説が提唱されて以来、なんと28年後に小野田市(教育委員会)が、菩提寺山磨崖仏の制作年代と文化財的価値に ついての本格的調査研究を実施した。
 実は、この磨崖仏が注目されて以来、所在地一帯の所有権に係争が起こり、裁判等を経て地元自治会の所有に確定、2004年に自治会から小野田市に所有権 が寄付移転された。
 これを機に、市当局が調査委員会を設置、調査報告書を刊行したのが本書。
 12名の調査委員のうち彫刻史分野は、菊竹淳一、副島弘道と発見紹介者の内田伸が参画している。
 報告書の結論は、古代説にはやや否定的なトーンのようだが、
「いろいろな可能性が考えられ、はっきりしたことはいえない。」
という主旨の、玉虫色まとめとなっている。

 「委員各人各論続出で、各意見間の調整も図ったが、結局全体の共通理解形成に至らなかった。石仏の図像学的な様式・表現や作風・ノミ痕などだけでは、そ の年代は容易に決しがたく、さらに紀年銘や製作事情を残さない多くの磨崖仏にとって、編年的位置付けを試みることは、極めて困難とされる結果といえる。」

 と、「まとめ」に記されており、これだけの事件的話題となった論争に、調査委員会で方向感的決着をつけるのは、よほどの決定的事実などが発見されない と、そもそも難しいこと、という悩ましさが伺える。


 菩提寺山磨崖仏の、詳しい調査研究内容、歴史的経緯、各学識者の意見を知るには、充実した報告書。

 


       

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