埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百五回)

  第二十話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その2〉  仏像の素材と技法〜金属・土で造られた仏像編〜


 【20−7】

 本間紀夫は、木心乾漆像の制作年代の前後と「寄木式と一木式」との相関関係を、以下のとおりに分類した。



 ここで、木心乾漆諸像のうち、代表的なものについて、像容写真と内部構造図などを、掲載しておこう。
  
額安寺 虚空蔵菩薩像と内部構造図・木組み想定図(X線による木心乾漆像の研究より転載
 
高山寺 日光菩薩像と木組み想定図(同)
  
聖林寺 十一面観音像と内部構造図(同
 
神護寺 薬師如来像と内部構造図(同)
  
西大寺塔本四仏 阿しゅく如来像と内部構造図・木組み想定図(同)
  
興福寺北円堂 四天王 増長天像と内部構造図・木組み想定図(同)
  
岡寺 義淵僧正像と内部構造図・木組み想定図(同)


 木心乾漆像の制作年代の前後によって、内部構造や心木の彫刻技法には、変化や発展があるのだろうか?
 たとえば心木の彫り出しの程度には像によって差があることは確かだ。
 即ち、顔の部分にしても、目鼻立ちまで彫り出しているもの、卵形のような状態のままにしているものが存在する。
 久野や本間の研究によると、この変化の特徴と制作年代には、大きな相関関係があるらしい。

 本間紀夫は、心木構造などの発展展開について、このように述べている。
*木心乾漆像は、脱乾漆像の技術的展開の延長線上に生まれ来た。
それは、法隆寺伝法堂東ノ間阿弥陀如来像の木心が、脱乾漆技法をそのまま置き換えたものであることからわかる。

*即ち、その内刳りが、単なる内刳りではなく、脱乾漆造りにみられる「脱空」の意識が強くはたらく張子のように造られている。

*内部構造から見ると、寄木式木心の手法が一木式木心に先行して製作された。
寄木式木心は法隆寺伝法堂の過渡期的像から、ごく短期間に前後矧ぎ膝前横木矧ぎつけの正統的な寄木式木心構造に技術的に完成した。

*こうしたなかで、聖林寺十一面観音像を代表格とする一木式木心乾漆像が誕生してくる。

 本間の木心乾漆像の制作時期による特徴の所論を、私なりに一表に整理してみると次のとおりである。





【乾漆技法の展開について】

 こうしてみてみると、脱乾漆像から木心乾漆像への展開というのは、その先にある平安初期一木彫やその後の寄木造りとの関係や、係わり合いを考えるとき、結構重要な位置づけにあるとともに、なかなか面白くもあり、難しくもあると感じる。

*そもそも、飛鳥の昔から、法隆寺百済観音などに乾漆の盛り上げがおこなわれていて、木彫を乾漆で造型するという技法があった筈なのだから、脱乾漆像から木心乾漆像へと移行展開したと、すんなり考えてよいのだろうか?

*「木心乾漆像の乾漆部が薄くなり、内部の木心が独立して平安初期木彫が生まれたのではないかという説」も、「それはちょっと違うだろう」と思うが、全く否定できないような気もするがどうだろうか?

*平安前期には純粋木彫系と奈良様の乾漆系木彫が併行しておこなわれたのだから、木心乾漆技法は純粋木彫と関連はなく、別の展開をしたと考えるべきなのだろうか?

*寄木造りの技法は、木心乾漆像の寄木式技法と関係あるのだろうか、別のものだろうか?

 こんな、疑問や興味が自然と沸いてくる。


 本間紀夫は、こうした問題や疑問に対して、このような考え方を述べている。


法隆寺 百済観音像
* 飛鳥時代の法隆寺百済観音に木屎漆の盛り付けが見られ、広隆寺宝冠弥勒にも木屎盛り付けが推測されているなどの例もあるが、これは原初的な木造品の瑕欠を 補う式の延長線にあるものであり、木心乾漆の技法をこの使用法の発展形とは考えられないし、また中国像の影響とも考えられない。

*木心乾漆像の「捻木屎」の技法は、我国の脱乾漆像で発達した同技法との延長として引き継がれ、基底部は漆布層から木心に変わることにより、漆布層の分も加味された乾漆層としてより発達し、完成されたものと判断される。

*木心乾漆像の寄木式木心は後期には減少し、一木式が中後期に急増、晩期移行は一木式のみとなっていて、木彫化=一木化を裏付けている。

*流れとしては、寄木式から一木式へと動いており、二世紀半に及ぶ一木彫時代を超えて、定朝により完成されたといわれる寄木造漆箔像に直接影響を与えたとは考えにくい。

*唐招提寺千手観音像に見られるように寄木造りの技法は、巨像の必要工法として潜在的に存続したであろうことが推測され、寄木造りは巨像制作の系譜から、より合理化されたものとして誕生したと考えられる。

*木心乾漆像は脱乾漆像の技法的展開として誕生したが、その基となるものは木性への回帰であり、それは必然的に木彫化の道を進むことになる。木彫化の終着は一木彫であり、木心乾漆像はまさにその道を歩んだ。

*木心部が木彫化していく過程には、塑像の造型心木との関連も想起され、やや純粋な形で造型心木から木心乾漆像に移行したものとして額安寺虚空蔵菩薩像が考えられる。
心木腕部が木彫のように造形された秋篠寺脱乾漆心木も、木彫像誕生への初期的段階を示すものとして重要で、構造材であった桧材が彫刻材として変貌していく過程を示しているといえる。

*一方、木心乾漆像で完成された漆箔の技法は、重要な金色相を表現する不可欠の技法として存続した。また伝統的は捻木屎の技法(捻木屎による矧ぎ目処理の技法)も内部に温存し、平安中期の金色漆箔寄木造りの誕生を可能とした。

 この考え方を読んでいると、「うーん、なるほど!そのように考えればよいのか」と、すごく感心、納得してしまう。
 とはいってもこの問題、「平安木彫誕生の謎」などと称され、数多くの議論を呼んでいるなど、なかなか奥が深そうである。


 平安時代に入っても、天平彫刻を代表する乾漆の技法は、奈良様の伝統を受け継ぐ真言密教系の寺院の仏像に多く引き継がれていった。
 東寺の平安前期諸像、神護寺・五大虚空蔵菩薩像、観心寺・如意輪観音像などはその代表的作品である。
 乾漆は人肌の温かみや柔らかさを表すのに適した素材であり、平安期に用いられた目の粗い乾漆(木屑漆)でのモデリングが、木地とうまく馴染んで自然な肌触り感や豊満さが出て、密教系仏像の「妖艶なふくよかさ」を表すには、最適な素材となっていると感じる。
 
東寺講堂 梵天像        神護寺 五大虚空蔵菩薩像
 
観心寺 如意輪観音像        広隆寺 阿弥陀如来像


 私には、天平の木心乾漆像よりも、はるかにマッチしたフィーリングの質感を生み出し、木屑漆の魅力が発露されていると思っている。
 顕教系の仏像の中にも木心乾漆系の像がいくつか伝えられており、その気風を強く伝える仏像としては、広隆寺講堂の阿弥陀如来像が代表格である。
 これらの平安初期木心乾漆系の仏像は、木心乾漆像の区分の中に含められたり、木彫像に分類し乾漆モデリングがなされている木彫と区分されているものがあるが、木彫に分類し、木心乾漆系木彫に区分するのが一般的のようだ。



       

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