埃
まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三回)
第二十話 仏像を科学する本、技法についての本
〈その3〉 仏像の素材と技法〜漆で造られた仏像編〜
【20ー5】
【心木組込みの不思議〜最初からか後からか?〜】
脱乾漆像は、
「苧布を切り開いた窓から、塑土とその心棒を取り出した後、新たに心木を入れ木組みした」
と、いわれている。
けれども、その心木の木組みを見ているとなかなか複雑で、
「よくぞあんなに狭い窓から心木を入れて、中で木組みできるものだ。どうやってやったのだろう?」
と不思議に思ってしまう。
そんなに面倒なことをしないで、最初から心木木組みをしておいて、その上に塑土を盛り付けて行くことにしたほうが簡単なのではないか?
こんな疑問も、ふと沸いてくる。
実は、脱乾漆像の心木を入れたタイミングについては、いろいろな見解があるようで、「塑土を取り出した後、心木を後から入れた」と、簡単に断じることが
出来ないようだ。
脱乾漆像を修理した時の調査によると、その像の内部、内側に苧布が一枚裏貼りしてあったそうだ。
そうだとすると、はじめの塑造用の心木では、もともと乾漆像に対しては寸法が足りないので塑土の除去とともに取り出され、裏貼りの上、別の心木に置き換
えられたと考えることが出来る。
しかし、このような心木の置き換えは工作しやすい坐像、等身大以下の小像の場合は可能であるが、三月堂不空羂索観音像のような大型像では、最初の塑造心木
を塑土とともに除去することは、乾漆像の変形が著しく起こるため不可能ではないか?という指摘が西村公朝(元東京芸大教授・美術院院長)によってなされて
いる。
西村公朝は、大型の脱乾漆像の心木について、
心木は、塑造の最初から、計画的に大きめのものを作り、塑土による造型の際に、その塑土の表面から飛び出した分を切断して、次に行う乾漆の張り子の内周
壁に接するようにしていたのではないかと思う、
と述べている。
木屎漆の材料といい、心木組み入れの問題といい、古代の乾漆像の技術には、いまだにはっきりしないことが、まだまだ多く残されているようだ。
もう少し、この心木の組入れの問題についてみてみたい。
三月堂仁王像は、戦時中疎開していたときに破損し、その修理時に内部構造が明らかになっている。
修理に当たった辻本干也は,
「心木はヒノキ材で、黒い漆を上に塗ってありまして、しかも材にはそれぞれ番付のように『西東一』というような刻銘がしてありました」(南都の匠仏像再
見)
と記しており、漆が塗ってあることや、材の場所の符丁が刻されていることから、この像の心木は、後から組み入れられたことは間違いないと、考えられてい
る。
三月堂
仁王像破損修理寺に内部写真 三月堂仁王心木棚板に彫り込まれた番付符牒と拓影 心木に
漆が塗られている 全て「西東一」の符牒が彫られていた
興福寺阿修羅像の模造制作を行った美術院の小野寺久幸はこのように語っている。
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興福寺阿修羅蔵模造制作時の心木 |
「初めの芯木を残すということも行われていたと思います。芯木を残す仕事と、出して入れ替える仕事の二通りあるのだと思います。・・・・・
(阿
修羅像は)僕は最初は(初めの)芯木を込めたままで出来ているというふうに思っていたわけです。・・・・ところが調査研究している間に、やはり当初から入
れたままだとすると、肩の付け根いろんな複雑な組み手に非常に不都合がある。・・・・どうしても形を造っていくうちに少し腕を上げたいとか、下げたいと
か、やはり変えたい部分が出てくるわけです。その場合芯木を固定してしまってあるとどうにもならないわけです。・・・・・
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興福寺阿修羅像X線写真 |
きちんと均整の取れた芯木を入れておくためにはやはり芯木を入れ替えたのであろう・・・
もう一つは芯木を込めたまま粘土を抜き取った想定をしました。・・・・
ど
んなにきれいにかき出しても粘土が残ると思うのです。それがX線を通してみてもそういう痕跡は発見できず、まるで粘土が洗い流されたように隅々まできれい
に取り去られているのです。そうするとやはり当初の芯木は抜き取って捨てて新しい芯木を入れて造ったというふうに思われます。」(日本の美術「乾漆仏」〜
対談・阿修羅像を造る〜)
こうしてみると、なべて心木は後から組み込んだという結論になりそうだが、「そうとは限らない」ということ実証する脱乾漆像心木が残されている。
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秋篠寺脱乾漆像心木
腕部が木彫像のように
彫刻されている |
秋篠寺に残された脱乾漆像心木である。
この心木は、その造型性と強固さからみて、塑造の原型のための心木が、そのまま乾漆の心木として用いられたことは明らかである。
心木の各所には土留めのための小さな棒を挿した穴があり、その利用されなかった穴には塑土の原型が残っているのだ。
ところが一方、脱乾漆像の心木としては変わったところがある。
それは腕の心木で、棒状ではなく、ほとんど木彫のように造型され、苧布が貼り重ねられ薄く木屎が盛り付けられているのだ。
この像は、塑土を除去したのか、像内に込めたまま完成像としたのかは、よくわからないそうだが、脱乾漆像から木心乾漆像に移行していく萌芽を示す具体例
として重要な遺品とされている。
これらの例を見ていると、
脱乾漆像が制作し始められた頃やその盛期においては、心木は後から組み入れられていたが、後期にいたってくると、塑造の心木をそのまま完成像の心木とす
る技法も行われるようになり、乾漆像の主力が木心乾漆像へと移行していくというプロセスが考えられるのかな?
ということなのだろうかと、思えてくる。
【脱乾漆像の制作日数と費用】
脱乾漆像を造るのにはどのぐらいの日数を要したのだろうか?
当時、漆は大変高価だったそうだが、乾漆仏を作る費用はどれほどのものだったのだろうか?
自然と興味がわいてくるテーマである。
脱乾漆像の制作日数、材料、費用などについて記した資料は、ほとんど見当たらないそうだが、わずかに天平宝字4年(760)の「奉造丈六観世音菩薩雑物
等自請来事」により、当時の材料、工人の編成及び製作日数を知ることが出来る。
これには、制作のため請求した諸品目の量と単価が記されており、食料の白米等の量から製作期間を、漆・調布の量から制作費用を推定することが出来る。
これによると、脱乾漆の丈六像を造るのに、彩色工程を除いて約9〜10ヶ月かかっている。
塑土による造型と心木制作期間でおよそ3ヶ月、布張りと木屎の盛り付け成形におよそ7ヶ月かかったと推測されている。
また、食料なども含んだ総費用額のうち、漆が43%、布が27%と併せて70%を占め、これに貴重な金箔、群青、緑青、朱などの費用を加えて考えると、
大変高価な脱乾漆像のイメージが浮かび上がってくる。
また、興福寺西金堂の造営については、「正倉院文書」に詳しい記録が残っており、この研究を行った福山敏男によれば、漆は大変高価で、西金堂の建築や仏
像に使った漆の値段は、西金堂の建築費とほぼ同額であったそうだ。
脱乾漆像の造像費用が、いかに高価なものであったかを想像するに難くない。
脱乾漆像は、このように極めて高額の制作費用を要したことや、工程が多く流れ作業的に造るには都合が良いが、一体のみを造るには効率の悪い造像法である
ことから、私的な工房で作ることは困難であったに違いない。
都の造仏所の造像で、奈良の大寺に祀られるものであったのだろう。
地方の奈良時代の古寺跡などから出土する仏像の断片等のほとんどが、安価な塑像であることが、そのことを物語っているように思われる。
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