平成18年度愛知・静岡仏像旅行道中記
(平成15年10月 25日〜26日)

高 見 徹

 〜行程〜

5月20日(土):JR東京駅 → 財賀寺(豊川市)→ 長興寺(田原市)
→ 東観音寺(豊橋市)→ 浜松(泊)

5月21日(日):浜松 → 応賀寺(新居町)→ 海福寺(御前崎市)→ 西楽寺(袋井市)

→ 静岡 → 東京

 5月20日(土)(第1日目)    → (第2日目)


  昨年までは、東京から車に分乗して行ったが、運転者の帰りの疲労を考慮し、今年は浜松まで東名バスで行って、そこでレンタカーを借りることにした。
  昼間の東名バスに乗るのは初めて。東京発7:20と少々早く皆さん朝の足に苦労された模様。
 昨日の東京は大雨で、気温も低く、今日 も雨が残るかどうか心配。カサはともかく、上着がいるかどうか微妙な天候であったが、東京駅は快晴で暑い位。
 バスは、特急というこ とで、スイスイ行くのかと思ったら、実際は各駅停車。しかもインターでは、一旦出口まで出て停留所で時間調整と、JRの鈍行並。それでも何とか11:30 に終点浜松駅に到着。

 浜松市内は主要交差点には横断歩道が無く、地下道でつながっている。特に駅前の地下ロー ターリーは複雑怪奇で、どこから入ってどこを歩いているのかさっぱり判らず、目的の場所に出るのに一苦労。
地下道の路面が濡れている ので早朝から水掃除をしているのかと思ったら、昨夜来の大雨で地下道の中まで水浸しになったのだそうだ。

 浜松 駅で昼食のあと、レンタカー二台に分乗して、いざ財賀寺へ。



   財 賀寺 陀羅尼山蘇悉地院財賀寺 真言宗
 豊川市財賀町観音山3

 財賀寺は、神亀元年 (724)、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開いたと伝える。
 最盛期には七堂伽藍を有し、山内外に数百の院坊を備えていた。源頼 朝が平家討伐を祈願し、八間四面の本堂ならびに仁王門を再建、三河七御堂の一つに数えられるようになったが、応仁年間の兵火により、二十余坊を残すのみと なる。
 文明4年(1472)豪族牧野氏により現在の地に再建された。以降、牧野・今川・徳川などの諸将の庇護をうけた。特に徳川家 康は、朱印百六十石余、山林三十六町余を与え、当寺は十万石の大名と同じ格式を認められた。

 仁王門 重文 三 間一戸楼門 寄棟造 柿葺 室町時代
 本堂内厨子 重文
 仁王像 重文 寄木造 ヒノキ 像高阿形像  381cm、吽形像 375cm 平安時代
 宝冠阿弥陀如来坐像 県文 ヒノキ 寄木造 平安時代 
 阿弥陀如 来坐像 県文 像高89cm ヒノキ 寄木造 平安時代後期
 二十八部衆 市文
 不動明王画像 市文
  不動明王三尊画像 市文
 五大明王像 市文
 地蔵菩薩立像 市文
 本尊千手観音菩薩立像 (秘仏)

 財賀寺のご住職から、仁王門は少し離れているた めそこ迄まで来て下さると連絡頂いていたので、まず仁王門に向かう。
 豊川ICから、山に向かい、車を進めるとまさに深山幽谷の世 界、昨夜の雨で木々の緑も映える。

  仁王門前で降り、出迎えて頂いたご住職に挨拶し、仁王像を拝観する。 仁王門は、二層目を欠くため、仁王像を安置するお堂のように見える。時たま降る雨に 濡れる柿葺きの屋根が趣を増す。石段下のボックスに100円入れると3分間照明がつき、仁王像がライトに浮かび上がる様になっている。説明をお伺いしなが ら写真を撮っていると、何百円も使ってしまった。

 仁王像は昭和59年(1984)京都・国宝修理所で修理され たが、帰られるべき仁王門に収まらず、仁王門の解体修理を待って、平成10年に15年振りにお寺に戻されたという。
 その際の補助金 の裏話や「COME BACK仁王様 市民の会」結成のお話など、当時のご苦労を微塵も感じさせず、面白おかしくお話頂く。
  仁王像の腰に巻いた太い縄状の帯が横綱の綱に見えることから、力士の信仰も集めており、平成10年の仁王像帰郷の際には横綱貴乃花(現貴乃花親方)の奉納 土俵入りが行われたそうである。今も仁王門の前にはその際の土俵の痕跡が残っている。丁度時の人で警備も大変だったとか。
 仁王像 は、東大寺南 大門像に次ぐ巨像で、仁王門いっぱいに立っており、上部の梁と髷の間は数cmしかない。東大寺南大門像などの鎌倉時代の像の様に写実的ではないが、丸顔の 中心部に目鼻立ち集めたユーモラスな面相や太造りの腰回り、安定感のある下半身など、どのパーツをとっても絵になる像である。
 鳥害 防止用の網をめくって下から見上げると、こんなお相撲さんいたよなぁ〜と思うよう親しみのもてる像である。
 
 
仁 王像(阿形)             仁王像(吽形)


 仁王門から本堂までは、趣のある長い石段が続 き、10分位で本堂迄行けるそうだが、ご老体一行ゆえ車で上ることにする。

 レンタカーは5ナンバーのミニバン ながら、狭く急な綴れ折りの道に一苦労。雨に濡れた木の葉にタイヤが滑って、LOW発進でもタイヤが悲鳴を上げ煙を吐き出した。
 あな恐ろしや。


仁 王門から本堂に至る石段

 本堂の内陣、本尊厨子の右脇に安置されている宝冠阿弥陀如来像を拝観する。
  この像は、財賀寺の末寺であった舌根寺の本尊であったと伝える像である。
 宝冠阿弥陀如来像は、常行堂の本尊などとして各地で制作さ れた阿弥陀如来坐像の異形像で、大衣を通肩に纏い、頭部は高い宝髻を結い上げている。
 本像は、様式的に伊豆山上常行堂旧蔵(現神 奈川・逢初地蔵堂蔵・藤原時代)の像と、同じく伊豆山下常行堂旧蔵(現広島・耕三寺蔵・鎌倉時代快慶作)の像の丁度中間に属する像で、いわゆる藤末鎌初の 典型的な像である。
 宝髻はやや低いが面相や膝前の衣文には、鎌倉時代の様式の萌芽が現れており、中央風の像である。

  財賀寺には、この他末寺の極楽寺本尊であったと伝える通例の阿弥陀如来坐像があるが、現在は豊川市桜ケ丘ミュージアムに長期寄託中であるとのこと。


 庫裡に繋がる文殊堂に五大力があるということで拝観する。室町−江戸時代の制作であろうが、不動明 王坐像を中心に中々迫力のある五大明王像であった。

 今日は、渥美半島の中程まで行かなくてはならないため、早 々に辞したが、帰りの車の中で「こういうお寺はもっと時間に余裕を持ってゆっくり来たいね!」と、私の強行日程に批判が続出した。



  次の目的地は、渥美半島のほぼ中間の田原市の郊外にある長興寺。
 既に予定時間をオーバーしており、少々飛ばすが、さすがに伊良湖岬 までの中間地点、思ったより時間がかかる。

 
 長興寺 雲龍山長興寺

 愛知県田原市大久保町岩下8

 長興寺は、渥美半島統 一を達成し、田原城を築いた戸田氏の菩提寺。

 観世音菩薩立像 県文 像高132.3cm ヒノキ 一木造 平 安時代後期

 素朴な観音像の写真のイメージから、小さなお堂 を勝手に想像していたが、永平寺を本山とする立派なお寺で、山門から続く参道と回廊を備えた伽藍配置は風格を感じさせる。

  聖観音立像は、山門脇の収蔵庫に安置されている。鑿痕を横に細かく表した鉈彫像で両腕の裏側まで、丁寧にノミ痕が刻まれている。背面は正面とは異なり、や や荒く不規則な鑿痕を残している。他の鉈彫像と同様、彩色は施さず、眉や唇にのみ色を置いている。直立した穏やかな像で、衣文や下半身の表現もおとなし く、鉈目も装飾的な要素が強くなっている。
 東国の好みに合った荒々しさの表現として関東から始まったとされる鉈彫の様式 も、この最南限の例とされる本像では、もはや装飾の一手段としてしか捉えられなかったのであろうか。
 初めて口紅をつけた田舎の少女 が恥じらっているような姿からは、神奈川・宝城坊薬師三尊像のような厳しさは全く感じられない。
 本像の尊名は聖観音であるが、印相 は、第二・四指を内側に折り曲げて合掌する、いわゆる馬頭印である。手先は後補の可能性もあるが、意味なくこのような印相にすることは考えられないため、 あるいは馬頭観音の信仰との関連があったのかも知れない。

 
聖観音菩薩立像

 三遠地方は古来より交通の要所であり、当地も海運の盛んな場所であったこ とから、旅や、海上交通の神である馬頭観音の信仰が各地に見られ、次に訪れる東観音寺も本尊馬頭観音像のほか馬頭観音御正体を有している。



   東 観音寺 小松原山東観音寺 臨済宗妙心寺派
 豊橋市小松原町字坪尻14

  東観音寺は、縁起によれば、熊野参詣中に神託を受けて小松原町にきた行基が、白馬に乗った馬頭太朗という優婆塞に出会い、天平5年(733)に白馬が化し た木に彫った馬頭観音像を本尊として創建したという。鎌倉時代には東三河の地頭・安達盛長の保護を受けたと言われている。
 寺宝とし て、仏像の他、中世文書60点を所蔵している。

 多宝塔 重文 桧皮葺 室町時代
 阿弥陀 如来坐像 重文 像高138.0cm ヒノキ 漆箔 寄木造 藤原時代後期
 金銅馬頭観音御正体 像高27.0cm、直径 34.3cm 鎌倉時代 文永8年(1271)
 二天像 像高108cm 平安時代
 善女龍王像 円空作 像高 40.4cm 江戸時代

  お寺のすぐ手前で畑の中の脇道を入ってしまい、カーナビに表示されたお寺のマークからどんどん離れていく。悩んでいる所に丁度ミニ白バイに乗ったコワモテ のお巡りさんに出くわせ、道を聞いた所、「一本違うよ、いいよ付いてきなさい」と、わざわざ引き返してお寺まで先導してくれた。最後に「じゃあ、ゆっくり お詣りしていきなさい」と、帰っていった。
 誰かが、これで今日は県警本部に「遭難中の男女12名救助」と報告が上がったな、と冗談 を言ったが、確かに大きな事件など起きそうにも無い長閑な町だ。


 東観音寺は、隣接して幼 稚園を経営されている大きなお寺である。手入れの行き届いた開放的な境内に山門、本堂、多宝塔が点在する。

 山 門奥の収蔵庫に、阿弥陀如来坐像、二天像、馬頭観音御正体、円空仏が安置されている。
 金箔の発色が美しい阿弥陀如来坐像は、定朝様 式の像である。
 阿弥陀如来坐像の両脇に脇侍のように立つ二天像は、兜、甲冑を纏い、片手を挙げて威嚇し、それぞれ口を阿吽の姿に表 す像である。
 この像は面相部のみ平滑に仕上げ、面相以外の甲冑や衣など全身に丸鑿の跡を残す荒彫り状態の像である。関東地方に見ら れる鉈彫像はもちろん、先ほど拝観した長興寺・聖観音像とも全く趣を異にし、未完成のような荒々しさを持つ。
 しかしながら、荒彫り の一番深く削られた部分を仕上げ面とすると、像としては痩せ過ぎてしまうので、仕上げの途中段階ではなく、ノミ目を意識的に残した鉈彫の系譜に連なる像と してもよいと考えられる。
 一見、未完成のように見えるこの像もじっくり見ていると、顔の表情や、姿勢とマッチしてくるから不思議で ある。

 円空像は、両手で宝珠を戴く姿に表される善女龍王像、素朴で愛らしい。

円 空像(善女龍王像)

   
多 宝塔                 阿弥陀如来坐像

 
二 天像(吽形)             二天像(阿形)

 渥美半島から洗松までは、一号線のバイパスのバイパスとでも言うべき潮 見バイパスが出来ており、広々とした砂浜の遠州灘海岸の砂浜とサーフィンにお誂え向きな波を眺めながら、快適なドライブで一路浜松の宿へ。


  宿についた後、駅前付近までぶらりと歩き、魚料理の一心で夕食。
 刺身盛合せにお品書きにある「のれそれ」を入れてもらう。
  「のれそれ」とは、高知地方の呼び名で、あなごの稚魚のことだそうだ。網であげたときに一緒に採れるドロメ(鰯の稚魚)がすぐに死んでしまうのに、あなご の稚魚はドロメに乗ったり逸れたりして動き回る様子からその名がついたとか。白魚のようなものと言われるが、長さ数cmの透明な平べったい、どちらかとい うとトコロテン状で、つるんと飲み込む。味わいは喉ごしだけといえば、白魚と同じか。
 アサリの酒蒸しを頼み損ねたが、後で聞くと浜 名湖のあさりは、海水と淡水が入れ替って、塩分濃度が適度に保たれるため美味しいので有名なのだとか。

 さあ、明日は時間を作って潮 干狩りだ!(ウソです)。
 地の魚とお酒をたらふく食べて、皆さん満足気。


(2006年6 月8日)

 


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