三ヶ日、豊橋、岡崎仏像旅行道中記
 (平成16年4月24日〜25日)

高見 徹

 〜行程〜

4月24日(土):新宿駅、品川駅 → 龍潭寺(三ヶ日町) → 摩訶耶寺 → 赤岩寺(豊橋市)→ 豊橋泊

4月25日(日):普門寺(豊橋市)→ 滝山寺(岡崎市)→ 真福寺→ 品川駅、新宿駅

 

 今回訪ねた静岡県西部、愛知県東部は、長野県南信濃を含めて、三遠南信(さんえんなんしん)地域と呼ばれ、国が異なりながらも長く密接な繋がりを保ち続け、共通の文化を育んできた。

 愛知県豊橋市牛川鉱山から発見され教科書にも載った牛川原人や、静岡県三ヶ日町の只木遺跡で発見された三ヶ日原人は、最近の化学分析により、縄文時代以降の新しい骨である可能性が指摘されているが、互いに約15kmしか離れておらず関連が考えられる。

  また、愛知県奥三河地域は、豊川中流に沿って、愛知県下でも最も古墳の密集する場所で、特に新城市の旗頭山尾根古墳群などは、韓国に多く見られる積石塚ま たは半積石塚の古墳群で、信州地方に多く居住した渡来人との関連性も指摘されているほか、浜北市の前方後円墳「赤門上古墳」からは、卑弥呼の大和王権から 与えられたとの説もある銅鏡「三角縁神獣鏡」が発見されるなど、かなり早い時期から大和朝廷、出雲の豪族中央勢力が土着したと考えられる。

 仏教伝来以降は、行基菩薩建立の伝説を伝える古刹が多く伝わり、三ヶ日町・摩訶耶寺跡から出土した奈良時代の瓦塔や岡崎市・真福寺に伝わる白鳳時代の仏面などの遺品が往事の仏教の隆盛を伝えている。

  江戸時代には、民間信仰が盛んになり、火伏せの山で名高い秋葉山(静岡県春野町)の秋葉神社を中心として、三州街道(国道153号)遠州(伊那)街道(国 道151号)中馬(秋葉)街道を通じて人や物資の交流が活発となり、農村歌舞伎や人形浄瑠璃等の民俗芸能も伝播された。この地方は、全国でも指折りの民俗 芸能の宝庫として知られている。

 街道筋には、当時の賑わいを伝える宿場や、道標、道祖神、馬の供養を行った馬頭観音などが至る所に見られる。

 

4月24日(土)

 総勢11名のメンバーが、二台の乗用車に分乗して、品川駅、新宿駅を出発し東名を西へ向かう。
 足柄サービスエリアで一旦集合した後、浜名湖サービスエリアで休憩する。花博で混雑しているかと思ったがそれ程でもない。

  三ヶ日ICに結構早く着いたため、急遽、龍潭寺の庭園を見ることにする。料金所のおじさんに龍潭寺迄の道を聞くと花博までの地図を手渡され、「これには 載ってないけど、オレンジロードを行って気賀に出る道が景色がいいよ」と、後に車が続いているのも構わず、親切に教えてくれる。三ヶ日みかんの季節には文 字通りオレンジに染まるであろう、未だ”グリーンロード”は、カーブの続く山道はすれ違う車もなく、眼下に浜名湖を眺めながら、しばし快適なドライブを楽 しめた。

 

龍潭寺 臨済宗妙心寺派 静岡県引佐郡引佐町井伊谷1989

 龍潭寺は、遠州・三河地方に多く見られる行基菩薩建立の伝説を持つ古刹で、井伊家元祖からの菩提寺として隆盛を誇った寺である。

  左甚五郎作と伝える鶯張りの廊下を進み、同じく伝甚五郎作の龍を象った蛙股の彫り物を眺めて、本堂裏手に回ると、小堀遠州の作庭になるという池泉鑑賞式庭 園がある。心字形の池の前に数多くの石組みを使って表現された、江戸初期の代表的な寺院庭園として、国指定名勝記念物に指定されている。庭園に面した座敷 に座り、解説を聞きながらのんびりと眺めているのも心和ませる。

 お昼は浜名湖名物の鰻の有名店でゆっくり食事をと思ったが、庭でくつろいだため、お寺の前の鰻屋で鰻の蒲焼きを食べることに。しかし、出てくる時間も値段も有名店並だった。果たして味の方は?。食事後、早速摩訶耶寺へ。

 

摩訶耶寺 高野山真言宗 静岡県引佐郡三ヶ日町摩訶耶

千手観音立像 重文 像高151.5cm ヒノキ 彩色 一木造 平安時代中期
不動明王観音立像 重文 像高94.7cm ヒノキ 彩色剥落 寄木造 鎌倉時代
阿弥陀如来坐像 県文 像高86cm ヒノキ 一木割剥造 藤原時代
金剛力士立像(二躯) 県文 像高 阿形278cm・吽形292cm ヒノキ 一木割剥造 藤原時代

  摩訶耶寺(まかやじ)は、神亀3年(726)に、聖武天皇の祈願所として行基が開基となり、引佐町奥山の富幕山の山中に開いた新達寺が前身とされる。平安 初期、宇志の裏山中千頭峯に移され、また平安末期の保元の頃に現在地に移り、寺号も摩訶耶寺と改称されたと伝えられる。

  昭和32年には、宇志の地から瓦塔と称する瓦製五重塔が発掘され、現在その実物は奈良博物館に寄託されている。相輪部は後補であるが、総高約2mという大 きなもので、屋根の瓦や柱、組物まで丁寧に表現されている。制作はかつて平安時代前期と考えられていたが、奈良時代後半の770年頃に営まれた愛知県猿投 古窯の出土品に形態が類似していることから、奈良時代後半に遡るものと見られている。
 この地には、愛知県の東部、三河地方にかけて、行基建立伝説を持つ寺が多いが、さすがに奈良時代まで遡る遺品を持つ寺は少なく、岡崎・真福寺の塑像仏頭と共に貴重な遺品である。

 千手観音立像、不動明王観音立像、阿弥陀如来坐像の指定文化財は、本堂に続く収蔵庫に安置されている。

  千手観音立像は、頭部、体部を含みヒノキの一木からなり、内刳りを施さない42臂の像である。下半身は丁寧で明瞭な衣文線を表わし、膝下には翻波式衣文を 表すなど古様を伝えている。本像は摩訶耶寺の本尊であったと考えられるが、静岡県で同様に平安時代の千手観音像を本尊とする静岡県の智満寺、鉄舟寺の千手 観音像と比較すると、茫洋とした面相や上半身の浅い衣文線など、初発性に欠けるところがあり、平安時代中期を降る制作と考えられる。

 阿弥陀如来坐像は、頭部を通してヒノキの一材から各部で割矧ぎ、内刳りを施している。大振りな面相に比して螺髪が細かく、衣文線も浅く穏やかになっており、藤原時代後期の制作と考えられる。

  不動明王立像は、頭髪を巻髪とし、左耳の前に弁髪を垂らす。面相は左目を眇眼とする天地眼で、牙を上下に表す。頭部を通して前後に割矧ぎ内刳りを施してい る。下半身がやや太めながら、バランスも良く、小像ではあるが収蔵庫の中の三体の中では、一番存在感がある。平安時代末から鎌倉時代にかけての制作と考え られる。

   
 本堂を出て、庭園に向かう。

  庭園は、平安末期から鎌倉初期の築造されたと見られる築庭跡で、昭和43年の学術調査の結果発見され現在復元されている。池と芝生の築山構造の中に白い石 組群点在させた池泉座視観賞式蓬菜庭園と呼ばれるもので、日本の中世庭園を代表する庭園として、京都西芳寺(苔寺)の庭池に次いで古い日本屈指の名庭と言 われている。庭園の一隅にお堂があり、この客間から眺めるように計画されているようである。龍潭寺など、禅宗の庭園に比べると明るく開放的で、この池に舟 を浮かべて遊んだであろう平安貴族の生活が想像される。

 

 摩訶耶寺から浜名湖に北接する猪鼻湖の西岸を通り、赤岩寺に向かう。湖岸線沿いに、ノリの養殖用の網を固定する支柱が無数に立ち並び、内海の静けさが時間を忘れさせる。
 湖岸の道から県道4号線を入ると県境の多米トンネルを抜け、意識することなく愛知県に入る。

 

 赤岩寺 真言宗 多米町字赤岩山4

愛染明王坐像 重文 像高103.1cm 玉眼 彩色 ヒノキ 鎌倉時代
阿弥陀如来坐像 県文 像高90.8cm 漆箔 ヒノキ 平安時代
伝聖観音立像 市文 像高102.8cm 漆箔 ヒノキ 平安時代

  赤岩寺も神亀3年(726)行基創建と伝える寺で、源頼朝が三河国の守護安達籐九郎盛長に命じ、三河国の有力な寺を選ばせて保護した「三河七御堂」の一つ であり、鎌倉時代の等身大の愛染明王坐像を伝えることで知られている。今は数少なくなった路面電車が豊橋駅前から出ているが、その終着駅、赤岩口のすぐ近 くである。

 寺の裏山の山腹の愛宕権現社にある、赤い大岩があることから赤岩寺の名がついたとされる。愛宕権現社は、今でも山門付近から望めるが、かつては沖の船から大岩が遠望できたという。

 突然の訪問であったが、若い青年僧が案内して下さる。本堂の左手のやや高みにこぢんまりとした収蔵庫が建ち、その中に愛染明王像が安置されている。

  丸々とした面相や肉付きの良い体躯は奥行きも量感もあり鎌倉時代の典型的な像容を示している。また、額の第三眼と獅子冠の眼まで玉眼を使用し、天冠台の精 緻な銅の透彫や衣に施された彩色文様など、丁寧な仕上げを施している。しかしながら、全体的にやや締まりに欠けるところがあり、鎌倉時代も中期以降の制作 と考えられる。

  昭和7年(1932)平成10年の修理の際、頭頂の獅子冠の中から、木造愛染明王の小像百四体と寛文4年(1664)の修理文書が見つかり、あるいは本像 の造像以前に愛染明王像が安置されており、その像が失われたことから、それまでに奉納されていた小像を本像の造建の際に納入したものと考えられる。

 愛染明王像の脇には、愛らしい馬に乗った勝軍地蔵像がある。

  真新しい庫裡を兼ねた客殿には、藤原時代の阿弥陀如来坐像、南北朝時代の阿弥陀如来坐像、及び聖観音立像が安置されている。阿弥陀如来坐像は螺髪及び体部 の背面を省略するが、丁寧に彫出された藤原時代の特徴を持つ像で、引き締まった面相は意志的で次代の萌芽が見られる。伝聖観音立像は現在修理中ということ で実見できなかったが、深く被った天冠台や丸い面相、ふくよかな体躯、浅い衣文線など、藤原時代の中央風の優作である。

   

 

 本日の拝観は終了。豊橋駅前の第一ホテルにチェックイン。

夕食は、ホテルにあった飲食店ガイドを眺めて、商店街の高級居酒屋に向かう。「高級といったって、所詮豊橋ですから」、と言いながら、店に踏み入れる足が思わず止まるほどの高級店だった。入口に戻りお品書きをじっくり眺めて、おもむろに後ずさりして隣の中級居酒屋に入る。

 酒屋を兼ねているだけあって、日本酒の種類は豊富。三河のキス、三河のあさりを肴に美味しいお酒が楽しめた。

 

4月25日(日)

船形山 普門寺 真言宗 豊橋市雲谷町字ナベ山下

伝釈迦如来坐像 重文 像高139.0cm ヒノキ 漆箔 寄木造 彫眼 藤原時代
阿弥陀如来坐像 重文 像高140.0cm ヒノキ 漆箔 寄木造 彫眼 藤原時代
四天王立像 重文 像高 持国天176cm 増長天171cm 広目天177cm 多聞天171cm ヒノキ 彩色 一木造 彫眼 藤原時代
阿弥陀如来坐像 市文 像高65.0cm ヒノキ 漆箔 寄木造 玉眼 鎌倉時代
不動明王立像 県文 像高162.2.cm ヒノキ 彩色 割矧造 彫眼 藤原時代

 普門寺に向かうが、朝出だしでつまずき、約束の9時を少々過ぎて到着。お寺の前では御住職が首を長くしてお出迎え。

 昨日、赤岩寺を訪ねたことをお話しすると、赤岩寺は御住職の実家で、昨日応対して下さった青年僧は、お兄さんの息子さんだとか。

  収蔵庫の入口に半紙に干支の申を切り絵にした「宝来」が飾ってあったが、確か赤岩寺の客殿の鴨居にも同じものが飾ってあったので、お伺いすると、それも普 門寺の御住職が作られたものだそうだ。御住職が修行をされた高野山では昔から米が採れずしめ縄の材料となる藁がなかったため、代わりにその年の干支や壽や 宝珠などのおめでたい模様を絹や紙に切り絵をした宝来を、毎年暮れに床の間や部屋の入り口に飾り一年の無病息災を祈るという。

 普門寺は奈良時代の神亀4年(727)に行基菩薩が自作の観音像を本尊として創建したと伝え、三河七御堂の一つに数えられている。

  平安時代から真言宗に属して勢力を振るったが、嘉応年間(1169〜1170)に天台宗の僧侶との勢力争いにより焼き討ちにあい、全山を焼失した。鎌倉時 代に源頼朝の叔父の化積(けしゃく)上人によって平家追討を祈念して再興され、頼朝の厚い庇護のもと鎌倉時代には再び栄えた。現在の境内の裏山には、元堂 跡や元々堂跡など、かつての堂跡や行場跡、中世墓地と考えられる削平地が100カ所以上も確認されており、当時の盛んな寺勢をしのぶことができる。

 山門の左手の高台にある収蔵庫には、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像と四天王像が安置されている。

  中央に八角形の二重裳懸坐に座す伝釈迦如来、阿弥陀如来の二像、左右に四天王像が安置される。伝釈迦如来坐像は、右手で施無畏、左手で与願の印を結ぶ。顔 は丸みがあり、頬はふくよかで、彫眼は半眼の伏目、額には水晶製の白毫をおく。衣には流れるような衣文の線が見られる。二重裳懸坐は、当初のものは八面の 内、前左右の二面だけだとのことであるが、台座の上面には衣文が彫られておらず、釈迦如来のものに比べるとやや定型的に感じられる。

  阿弥陀如来坐像も釈迦如来像とほぼ同じ像高を持つが、本像の方がやや首が長く、その分上半身が小振りに造られている。面相は伝釈迦如来と同様に顔は丸みが あるが造作が大きく、古様を示している。二重裳懸坐は上面にも衣文を表し、やや大振りに造られるなど、釈迦如来像のものと意匠が異なっている。

 両像とも、藤原中期から後期への過渡期における定朝様式の像である。

  

 四天王立像は、頭部体部の根幹部を一木から彫出し、背面から内刳りを施す。肉付きがよく写実的で、表情も怒りを表すが全体的には温雅な作風を示している。像の足で踏みつけられている邪鬼は、素木の一木造で、表面は丸鑿の跡を残す鉈彫様の像である。

 現在の像の並びは、重文指定時と異なっているが、お寺での尊名でいえば、持国天と多聞天は他の二天に比べて表情も穏やかで、やや遅れての制作と考えられる。

 四天王像の制作は、藤原中期から後期への過渡期と考えられるが、中部地方のおける四天王の作例として貴重である。

  収蔵庫の隅に、神将像の膝下と邪鬼がある。別の四天王像の破損仏の一部かと思ったが、ご住職にお伺いすると、破損したものではなく膝部を見ると元々膝下の みを彫ったもので、試みの像ではないかとのこと。邪鬼を見る限り、四天王像と同じ鉈彫で同巧であることから、あるいは四天王像の試作であったのかも知れな い。

   

   

  収蔵庫にある経筒は、裏山にある元堂跡の経塚から銅鏡とともに出土したもので、経筒には普門寺13代住職の勝意が、久寿3年(1156)年に母親の延命息 災と死後の極楽往生を祈って埋経したことが記されている。なお、同じ年に勝意が父親のために造った事が記された経筒が、現在鎌倉古陶美樹館に所蔵されてお り、元は一対のものとして埋納されたものがわかる。

  その他、収蔵庫にはなになになど、多くの寺宝が集められている。収蔵庫を痕にして本堂を拝観させて頂く。本堂のご本尊は鎌倉時代の阿弥陀如来坐像。小振り な面相とバランスの良い体躯は正統の仏師による造像を感じさせる。最近修理を行い、白目の周囲に青を見せる玉眼が印象的である。

本堂の右脇室には、平安時代末期の制作になる不動明王立像が安置されているが、現在修理中で、破損していた光背も復元修理した所、元の場所に入らなくなったそうで、脇室自体を改造中であった。

  

 

 普門寺から豊橋市内を抜け、東名に一旦入って岡崎まで。

 岡崎市は、矢作川と乙川との接点にあり、比較的温暖な気候と清流に恵まれ、古くから交通の要衝として発達し、徳川家康公の生誕地、三河武士発祥の地として、歴史と伝統を持つ町である。

  北野町の北野廃寺は、物部氏の祖とされる三河国造知波夜命の子孫によって17世紀後半に創建されたと伝え、発掘調査の結果、中門、塔、金堂が一直線に並ぶ 四天王寺式伽藍配置であることが知られるほか、真福寺町の東谷遺跡からも北野廃寺と同様の軒丸瓦が採集されるなど、古くから仏教文化が栄えた地域であっ た。

 

滝山寺 天台宗 愛知県岡崎市滝町山籠107

聖観音菩薩立像 重文 像高174.4cm 寄木造 彫眼 鎌倉時代
梵天立像 重文 像高106.5cm 寄木造 彫眼 鎌倉時代
帝釈天立像 重文 寄木造 像高104.9cm 寄木造 彫眼 鎌倉時代
狛犬 二躯 県文 像高 阿形66.5cm、吽形69.8cm ヒノキ 彩色剥落 鎌倉時代末期〜室町時代初期
錫杖 2柄 県文 大型杖頭高さ56cm、小型杖頭高さ37.5cm 室町時代及び鎌倉時代
孔雀文磬 県文 鋳銅製 室町明応四年(1495)
行道面(ぎょうどうめん) 県文 6面 総長41cm、42cm、41cm、42.5cm、40cm、44cm 鎌倉時代
仁王像 二躯 市文 像高 阿形294.3cm 吽形287.0cm 寄木造 鎌倉時代末期

  目指す滝山寺は、岡崎から下山村へ抜ける県道沿いにある。滝山寺は、役小角(役の行者)によって創建されたとされたと伝えるが、鎌倉時代に入って藤原氏系 の熱田大宮司季範が大檀那となって以来、寺運は隆盛し、また、季範の娘が源義朝の正室となり、頼朝の母となったことから、鎌倉幕府の篤い庇護を受け、寺観 が整ったものと思われる。
 『滝山寺縁起』によると、源頼朝の没後、滝山寺僧で頼朝の従弟にあたる寛伝僧都の発願で正治元年(1201)に惣持禅院を建立し、その本尊として聖観音 立像と脇侍像を仏師運慶に依頼して造立し、聖観音像の胎内に頼朝の鬚(あごひげ)と落歯を納めたと伝えられている。現在収蔵庫に安置される、聖観音立像、 梵天立像、帝釈天立像の三尊がこれに当たるとされ、近年のX線撮影の結果、それと思しい物体が頭部にあることが確認されている。

 本堂から下った庫裡に面して建てられた収蔵庫には、三尊を含め、多くの寺宝が所狭しと並べられている。
 三尊像は写真で見るより意外と小さいが、さすがに迫力は他を圧している。特に側面間の面相と姿勢は、運慶の手慣れた写実性を表すとともに、湛慶の高山寺善妙神・白光神立像に通ずる造形を感じさせる。
 各像は極彩色で彩られており、衣の文様も丁寧であるが、これは江戸時代末か明治初期に施されたものである。
 この所、本像の造顕年代に近い運慶工房作とされる像が相次いで発見されていることから、本像の基準作例としての重要性を高めてきている。

  

 狛犬は、背筋を伸ばし、頭をたげ尻尾を立ち上げた写実的な像で、湛慶が完成したといわれる狛犬の様式を伝えているが、全体的にきびしさに欠ける点から鎌倉時代末期から室町時代初期の作と思われる。 

 現在は、6面と断片4点が残存しているが、全体に薄手で軽量に仕上げてあることや、表裏に布を貼り漆塗りとし、瞳や鼻孔を貫通させ、宝髻は高く、面相は多少引き締まってまなじりも少しつり上がっているところなどは、鎌倉時代の作風をあらわしている。

  収蔵庫からやや登った所に本堂がある。本堂は、貞応元年(1222)足利尊氏によって建立された県下最古の現存建造物である。前2間を外陣(礼堂)、その 後方中央間3間を内陣とし、外陣、内陣の間を格子で仕切る密教系の本堂である。礼堂内の虹梁や組物が美しい。内陣には正面見付3間に壇正積和風仏壇を置 き、中央間5間に禅宗様宮殿厨子を据えている。

  厨子のなかには秘仏の薬師如来坐像を安置し、その左右に日光・月光菩薩・十二神将・毘沙門天・不動明王など多数の仏像を安置している。十二神将像は像高 1mを超える像で江戸時代の制作であろうがややコケティッシュな面相や姿勢が微笑ましい。仏壇の背後には鬼祭りに関係すると思われる鬼面や猿面などの面の ほか、珍しい三面の勝軍地蔵などが安置されていた。

  
  滝山寺本堂の東側の一段高いところには、徳川三代将軍家光が正保2年(1645)竹中重常を造営奉行に任じて建立させた滝山東照宮がある。日光・久能山の 東照宮と並んで日本の三東照宮の1つに数えられており、極彩色の東照宮様式で建てられた社殿や、各大名、岡崎藩代々の藩主から寄進された石燈篭などが、江 戸時代の徳川家の権勢を物語っている。歴代将軍から贈られた太刀などの宝物の多くは、岡崎市内の三河武士のやかた家康館に寄託されている。

  寺を辞して、県道を1km程川沿いに戻った所にある山門を拝観する。かつてはここから滝山寺の境内であったこと考えると、往事の寺の隆盛を感じることがで きる。山門は、文永4年(1267)の建立になる重厚で均整のとれた柿葺きの美しい楼門で、国の重要文化財に指定されている。

 

 三門に安置される仁王像。寺伝では運慶作とされているが、実際には鎌倉末期頃の作と考えられる。真福寺の仁王像とともに岡崎市域の代表的な仁王像である。

 左右に安置される仁王像は、鎌倉末期頃の作と考えら、真福寺の仁王像とともに岡崎市域の代表的な仁王像であるが、山門の周囲は鉄柵で囲まれており、傍まで近付けないのが残念である。

 

 昼食は、最後に訪問する真福寺の竹膳料理を予約した。

 真福寺には、竹膳料理用に大型観光バスが何台も止まれる大きな駐車場があり、駐車場の周りは竹林で覆われ、歩道沿いにあちこちからタケノコが顔を出している。境内の一角に竹膳料理専用の数百人を収容可能な会館風の建物が二棟もある。

 竹膳料理は、タケノコの天ぷら、酢の物、佃煮、刺身、吸い物、タケノコご飯と筍尽くし。勿論器も竹製。見た目は物足りないが、結構お腹一杯になる。

 

真福寺 天台宗 愛知県岡崎市真福寺町薬師山6

仏頭部 塑像 県文 頭長46.8cm 面長31.0cm白鳳時代末〜天平時代初
菩薩頭部 塑像 市文 頭長30.3cm 室町時代
仏頭部 塑像 市文 頭長41.0cm 室町時代〜江戸時代
慈恵大師坐像 県文 像高84.5cm ヒノキ 彩色剥落 寄木造 玉眼 鎌倉時代末期
仁王像 二躯 市文 像高 阿形が327cm、吽形が325cm 室町時代永正12年(1515)

  真福寺は、白鳳時代に物部守屋の次男真福(まさち)が本堂山で霊顕を得て、山上に湧き出る泉を発見し、これを広く世の中の人々に分け与えようと、時の摂政 聖徳太子の許しを得て建てられた、太子建立の46ヶ寺の一つとされるが、仁平元年(1151)および応永17年(1410)に火災により焼失したといわ れ、創建当初を伝えるものは仏面だけである。

 お寺は、竹膳料理の客や、ご祈祷の客で結構賑やか。本堂で事前に拝観を依頼した事を伝えるが、ああそうですか、仏面は宝物館にありますからどうぞご自由にと、少々拍子抜け。

 宝物館は、2階が出入口で盆栽展がメイン、寺宝は1階ということであったが、白鳳の仏面は2階の盆栽の横にさり気なく展示してあり、これもちょっと拍子抜け。

 この仏面は、寛政2年(1790)に内々陣より偶然発見された塑像の仏頭の一つである。

  仏面は破損しているため、構造がよく分かるが、下地に荒い粘土で形造り、その上にかなり細かい土でほとんどの形を仕上げ、最表面に極薄く精土を載せてい る。その面相の特徴や、構造から白鳳時代末から天平時代初め、7世紀末から8世紀半ばの制作と考えられている。一部火中して焼土化しているが、表面の造形 はやや出来過ぎの感のある程よく整っている。もしこの像が坐像であったと考えると像高 140cm位を想定することができ、白鳳時代創建の伝承を裏付ける、かつての真福寺の本尊仏であった可能性が考えられる。

  本堂裏の慈恵堂に安置されている慈恵大師坐像は、大師の晩年の姿を写したもので、膝裏及び像底に付けられた墨書銘によると、大師の住した比叡山楞厳院の僧 栄盛が、弘長元年(1261)、33体の慈恵大師像造立の発願をし、文永8年(1271)には改めて66体造立に願を広げ、本像は同11年に作られたその 内の1体であることがわかる。

 なお、栄盛はさらに願を広げ99体の造立を誓っており、滋賀・本覚寺、京都・曼殊院にもほとんど同じ銘文が記された像があることが知られる。

  本堂の内陣の隅には、白鳳の仏面と同時に発見された同じく塑像の菩薩頭部及び仏頭が安置されている。菩薩頭部は、頭長30.3cmで火災にあった跡を残し ていることから、応永17年(1410)以前の作、もう一体の塑像仏頭部は、頭長41.0cmで火災にあった跡はなく、応永17年以降の作と考えられる。  

 

本 堂の下には覆屋で覆われた、3m程の宝塔がある。下層は円筒形の厨子状でいわゆる瑜祇塔(ゆぎとう)に近い形式を持つが、屋蓋に立つ五本の相輪以外は、宝 塔とほとんど変わらない、高野山瑜祗塔がどの程度、当初のものに忠実なのか、疑間であるが、現在のものを見る限り、中央と四隅

  山下の入口にある仁王門。この門は三間一戸の楼門の下層が残されたもので、仁王像が建立された永正12年(1515)頃に造られたと考えられる。寛政元年 (1789)に修理されているが、中世の和様を伝えている。仁王門(市指定)安置される仁王像である。胎内銘によって、永正12年(1515)に願主賢忠 金蔵坊、宗梅が制作したものであることがわかる。寛政元年(1789)に仁王門とともに修復されている。

 

 今回の旅行は、やや広い範囲となったが、各地の歴史ある名刹を訪ねることが出来た。
 しかしながら、名刹と言えども建物や寺宝を含めて維持することは大変なことであり、それぞれの御住職が色々な工夫を凝らして努力されていることに敬意を表する。

 また、豊橋市美術博物館や岡崎美術歴史博物館などで寺宝展などが開かれており、積極的な公開や研究が行われている。昨秋の静岡仏像旅行と併せ、東海地方の仏教文化の底力を感じさせてもらった。

(2004年5月10日)

(赤岩寺、普門寺、滝山寺の写真は、図録、パンフレット等から転載させて頂きました)

 


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