静岡仏像旅行道中記
 (平成15年10月25日〜26日)

高見 徹

 〜行程〜

10月25日(土):新宿駅、横浜駅→智満寺(島田市)→建穂寺(静岡市)→登呂遺跡→静岡泊

10月26日(日):鉄舟寺(静岡市)→瑞林寺(富士市)→桑原薬師堂(函南町)→横浜駅、新宿駅

 

10月25日(土)

 新宿組は7:30出発、横浜組は8:00出発。ところが、横浜新道で第三京浜に入ってしまい、Uターンする羽目に。大ブレーキ。
 足柄SAに9:00過ぎに着いたものの、新宿組は30分以上も前に着いていた!

  焼津まで、少々飛ばして一号線のバイパスに入り、一路智満寺へ、ところが途中、山道へ入るところで、二台の車のカーナビの意見が食い違った。カーナビ命の 私が強引に自説を主張、その指示に従って進んだところ、段々道は狭くなり、ほとんど獣道のような渓谷沿いの曲がりくねった山道を山肌に車を擦り付けるよう に進む事約15分、命からがら智満寺の山門にたどり着いた。

「人生裏街道を歩いている人間は選ぶ道も違う」「中古のカーナビを値切って買っただろう」、「いや、これは旅情モードが設定できるんです!」と、暫くカーナビ談義。

 でも真面目な話、対向車がなくてよかった。死ぬかと思った。

 

千葉山 智満寺 島田市千葉254 天台宗

千手観音菩薩立像 重文 素地 像高181.5cm 平安時代 カヤ 
阿弥陀如来及諸尊像刻出龕像 重文 素地 像高11.1cm 藤原時代 サクラ 
薬師如来坐像 県文 室町時代

 智満寺の入り口から本堂までは、約200段の急坂の石段。朝一番の運動にはきつい。
 石段の途中の茅葺の棟に千木を載せた神仏習合の名残を残す仁王門をくぐると、中門の先のやや広い場所に急勾配の茅葺屋根が重厚な本堂が威容を見せる。
 天正17年(1589)徳川家康が再建したもので、仁王門、中門とともに県の文化財に指定されている。

  境内には薬師如来を祀る医王堂があり、その奥に聳える、源頼朝お手植えといわれる『頼朝杉』を筆頭に、裏山の千葉山山中に、樹齢1000年を越える「智満 寺の十本杉」(国指定天然記念物)の巨木群が林立し全国にもまれな巨樹の密集地であるという。本堂もまさに巨杉群の中にある。

 本尊千手観音立像は、60年に一度の秘仏で拝観できない。十数年前にご開帳があり、30歳台に見えるご住職も、一度しか拝んでいないとのこと。
 写真で拝する限り、衣文の彫りは浅く柔らかいが、天衣には翻波式衣文が見られるなど、古様を残している。合掌する真手の手首まで大衣を掛ける珍しい形で、天台密教の山寺に相応しい森厳な雰囲気を持っている。
 厨子の両脇には二十八部衆が十四体ずつ大きな光背に背中を貼り付ける様に祀られている。

 医王堂の薬師如来坐像も秘仏であるが、厨子の両脇に像高30cm足らずの小さな人形のような十二神将が思い思いの姿で並んでいるのが微笑ましい。

 重要文化財の阿弥陀如来及諸尊像刻出龕は、庫裏の傍の収蔵庫に納められている。収蔵庫はレトロな白い洋風の木造で、内部には鏡像、瓦、甲冑、刀など、あらゆる種類の寺宝が収納されている。
 龕像は、寄棟造、本瓦葺の棟に鴟尾を乗せる仏殿の内部に阿弥陀如来坐像の外、如来菩薩不動など七体の仏像を表わしたもの。収蔵庫の中を見渡しても目の前 にあるのが暫くわからなかった位、写真で見るよりずいぶん小さい。仏殿、仏像全てを一木から彫り出しており、細部の彫刻技術は目を見張るものがあるが、精 緻であるがゆえに写真にすると大きく見えるということなのだろう。

 

  昼食は、焼津のインターのそばの焼津さかなセンターに立ち寄った。さかなセンターは、100店近い鮮魚、海産物のお店と1000人以上収容できる大食堂が 併設した巨大市場だ。生のマグロから巨大なマグロの兜焼、カキ、イカ、貝類など食欲をそそる海産物が一杯。市場の中に鮨屋などもあり、食通にはこたえられ ない場所かも。
 生大トロ、赤身、甘海老などの上盛合せ1500円也。いやー、久し振りにうまい鮨を食った。
 あと一日あるので、生鮮品の御土産はちょっと無理。

 

建穂寺(たきょうじ) 静岡県静岡市建穂 502 駿河観音札所第15番

不動明王立像 県文 木造 藤原時代 昭和31年指定
不動明王立像 県文 木造 鎌倉時代 平成11年指定
千手観音像
大日如来像
釈迦如来像
二十八部衆
仁王像

 静岡インターから市の北西部にある建穂寺(たきょうじ)に。帰化人秦氏が当地に入植した時に氏寺として建立されたと伝える。近くに当時の地名を残す服織(はとり)小学校がある。
 現在建穂神社のある裏山に、かつては仁王門と18の塔頭が建ち並び、真言宗の修行道場として栄えたという。しかし、明治維新の廃仏毀釈で寺は破壊され、 明治3年(1869)、山頂の観音堂をはじめ二十余の塔頭ことごとく焼失したため、建穂神社を残して、建穂寺は廃寺となった。

 残された多くの仏像や文化財は、現在建穂町内会館脇に建てられた観音堂に安置されている。
 お堂は、「建穂寺の歴史と文化を知る会」のメンバーが二カ月おきに交代で管理し、大切に祀られ守られている。我々が訪ねたときも、町長さんまで含め、数人の方が集まって下さった。

 仁王門に安置されていた仁王像は観音堂の左右のガラス戸の中に、窮屈そうに納められている。
 本尊千手観音立像は秘仏であるが、実はお前立ちの千手観音立像が本来の本尊で、近年新しく新造した千手観音立像を本尊とし、本来の像をお前立ちにしたとの事。「畳と何とかは新しいほうかいい」でもなかろうが・・・。

  二体の不動明王立像は共に像高1m足らずの小さな像である。向かって右の像は、上下牙を表す忿怒の形相を示すが、表情も体躯も童子形で、マンガチックな愛 らしい像である。左の像は、腰をやや右に捻った姿勢もバランスが良く、上牙で下唇を噛みしめる表情や体躯や衣の表現も巧みで、中央仏師の手になるものと思 われる。

    

 「建穂寺の歴史と文化を知る会」では、平成3年に写真集「幻の建穂寺」を、更に平成11年に寺史「建穂寺編年」を出版したが、写真集は現在完売となっている。
 また、この寺の仁王像は、明治3年、廃仏毀釈のさなかに当時の住職が売却したことから、町民との間で争いとなり、明治26年に至って法廷に持ち込まれ、 判決により当寺に戻ったという経緯がある。当時、未だ民法はまだ施行されていない中、住職の仁王像の所有権をめぐって明治時代の法廷で繰り広げられた裁判 が、民事訴訟の幕開けの事件として、法学者の研究材料ともなっていたといい、その法廷闘争劇が『建穂寺異聞』として、静岡新聞社から刊行されている。

 

 ホテルに行くには少々時間があったので、市内の登呂遺跡に寄り、閉館間際の博物館を駈け足で見学する。
 出口の看板に「国民体育大会公開競技『スポーツ芸術』主催事業」とあったので、受付で「スポーツ芸術」とはどんな競技かと聞いたところ、「いや特に・・・、この看板を作っただけです」との返事。あやかり商法もここまで来れば立派と感心。

 そういえば、今日から静岡国体が開催され、天皇陛下も来られるという事で、静岡、清水近辺のホテルはどこも満員だった。

 

10月26日(日)

 晴天。朝は曇りだったが、昼前から雲も晴れ快晴。今日一日富士の晴れ姿を見ながらのドライブになりそう。

 

補陀洛山 鉄舟寺 臨済宗妙心寺派 静岡市清水村松2188

千手観音立像 県文 木造 像高154.0cm 奈良時代から平安時代
千手観音立像 木造 像高195.9cm 頭部:平安時代、体部:室町時代
兜跋毘沙門天立像 木造 像高198.5cm 平安時代前期
文珠菩薩坐像 木造 像高54.3cm 平安時代
薬師如来坐像 木造 像高94.4cm 平安時代
梵天立像(伝日光菩薩) 木造 像高174.1cm 平安時代
帝釈天立像(伝月光菩薩) 木造 像高170.3cm 平安時代
菩薩坐像 市文 木造 像高66.8cm 鎌倉時代

 鉄舟寺は、もと久能寺と称し、明治維新の際に寺領を失って荒廃していたのを、西郷隆盛・勝海舟による江戸城の無血開城会談の立て役者となった山岡鉄舟が、由緒ある名刹の滅びるのを惜しみ、明治16年、自ら中興開基となって、再興したことから鉄舟寺と改められたという。
 鉄舟寺再興に当たっては、侠客清水次郎長こと山本長五郎も大いに奔走したという。

  鉄舟寺の禅堂は、収蔵庫になっており、管理の方の手作りの案内板、年表が微笑ましい。堂内には、寺宝とともに、薬師如来坐像、梵天・帝釈天立像(伝日光・ 月光)が安置されている。各像とも表面が磨滅しており、肩や肘など、朽ちたり、節が抜け落ちた痕が空洞となっているが、内刳りのない一木造である。

  本堂観音堂には本尊千手観音立像、文珠菩薩坐像を安置する。脇室の菩薩坐像は、両肩から先を失うものの、宝髻を高く結い揚げた宝髻や玉眼を使用した小振り な面相、引き締まった腰回りなど鎌倉時代も早い頃の制作と考えられる。若い頃の快慶を思い起こさせる意思的な面相を持つ像である。

  禅堂の脇から墓地を上り詰めた高台に観音堂と毘沙門堂がある。観音堂の本尊は秘仏であるが、平成13年に清水港湾博物館(フェルケール博物館)で公開され た。その時のポスター等を拝見したが、脇手を掌を上にして頭上に組む、清水寺式と呼ばれる形式を持つ像で、両肩や両膝間の衣文の畳み方は浅く形式的で造作 の小さな目鼻立ちや下半身の鈍重なモデリングは当地での制作を感じさせるが、膝前の衣の端部に細かい文様を刻む所や硬質な彫り口など古様を示している。

 

 本尊の両脇には二十八部衆を安置する。二十八部衆の作例は余り多くはないが、今回訪れた、智満寺、建穂寺、鉄舟寺の三ヶ寺で見ることが出来た。

 毘沙門堂には兜跋毘沙門天立像が安置される。ややバランスを欠く像ではあるが、地天女まで一木で彫出した像である。

 お寺に残っていた鉄舟寺展の図録を一冊分けて頂いた。一冊500円。お寺にはもう残部はなく、展示会場となったフェルケール博物館にも問い合わせたが、もう完売とのことであった。

 高台からは、三保の松原から富士山まで手に取るように眺めることが出来る。

福寿山 瑞林寺 静岡県富士市松岡489

地蔵菩薩坐像 重文 木造 像高84.8cm 平安時代後期 

 瑞林寺は黄檗宗のお寺。正面に黄檗風の鐘楼が一、二階とも四方に扉があるため、裳輿付きのお堂のように見える。

 地蔵菩薩坐像は本堂奥の池の中ノ島に建つ収蔵庫の中に安置されている。
 胎内全面に書かれた墨書胎内銘により、興福寺南円堂の諸像を制作し、慶派の中心として活躍した康慶によって、治承元年(1177)に造り始められたこと が分かる。キリリとした理知的な面相や、写実的な衣文線は本像が鎌倉彫刻の系譜に繋がることを示している。

 康慶といえば、静岡県を中心に多くの作例を残す運慶の父であるが、康慶の作品が富士の地に伝来することは、当時の文化交流を知る上でも興味深い。

 お寺の駐車場から富士山が大きく見える、丁度中腹に雲がかかり、写真撮影にはおあつらえ向き。
 拝借したお手洗いの窓からも富士の雄姿が見える。この辺りの銭湯には、ペンキ絵は必要ない?

 

桑原薬師堂 (長源寺境内) 田方郡函南町桑原592番地

 長源寺は、源頼朝が文覚上人と源氏再興の旗上げの際、密議をした所と言われる。

阿弥陀如来及両脇待像 重文 木造 (平成4年指定)
  中尊像 像高 89.1cm、左脇待像 106.1cm、右脇待像 107.2cm 鎌倉時代初期

薬師如来坐像 県文 木造 像高110cm 平安時代中期 (昭和52年指定)
毘沙門天立像 県文 木造 像高101.5cm (平成13年指定)
十二神将立像 県文 12躯 像高91.5〜105.4cm (平成13年指定)
聖観音立像 県文 木造 県文 像高99.2cm (平成13年指定)
地蔵菩薩立像 県文 木造 像高93.1cm (平成13年指定)

 薬師堂は、長源寺境内にあるが、現在桑原区で管理されており、桑原薬師堂と呼ばれている。 土日曜日は、参拝者の受付を兼ねて交代で管理をされているという。
 当地は、平安時代に箱根山の神領になり、小筥根(こはこね)と呼ばれ、箱根神社を開いた万巻上人の菩提寺の小筥根山新光寺があったと伝えているが、薬師堂の本尊で、現在秘仏となっている薬師如来坐像は新光寺の本尊と伝えられる。
 60年に一度ご開帳となっており、お守りの方のお話によると、約20年前にご開帳された記憶があるという。写真で見る限り、堂々とした体躯や貴族的で穏やかな顔つきは藤原時代の特色をよく示しており、中央仏師の制作と推定される。

  阿弥陀如来及両脇待像は、頭部内矧面に「大仏師実慶」の銘文がある。実慶は、「運慶願経」に結縁者として名を連ねていることから、運慶と近い関係にあった 慶派の仏師で、修善寺町修禅寺の大日如来坐像(承元4年-1210)の作者としても知られている。蓮華座は、制作当初の状態をよく残しており、鎌倉時代初 頭の蓮華座の特徴をよく表わしている。
 瑞林寺地蔵菩薩坐像の初発性に比較すると、ややくだけた面が見られる。また、表面の仕上げも後世の箔や彩色が除去され、全体的にこげ茶っぽく古色に仕上げられている。

  最近の仏像の修復では、静岡・願成就院、神奈川・浄楽寺の運慶作の諸像など、後補の彩色等は除去され、古色に仕上げられることが多い。しかし、本来は金 箔、彩色で仕上げられていたはずで、修復として正しいのかどうか。白い背景の中では余りにも黒っぽく、少なくとも写真撮影者泣かせである。

 毘沙門天立像、聖観音立像、地蔵菩薩立像、十二神将立像12躯は、平成13年に県の文化財に指定された。十二神将立像12躯の内、3体が藤原時代の制作で残りは室町時代以降の制作となる。
 いずれにしても、このような所に時代を超えて多くの仏像が守られているのは、万巻上人、源頼朝とのつながりも深いと考えられるが、建穂寺などと同様、地元の篤志家の信仰心に頼るところが大きいのであろう。

 拝観を終えて、長源寺の手洗いを拝借し、奥さんに自家製の野草のお茶をご馳走になった。ご住職は、座禅の指導で世界中を廻っており、現在はオーストラリアの拠点に出張中だとか。

 客間から見渡す長閑な風景は、この地方の人々の心を表わしている気がした。

 

 今回の旅行では、三組の二十八部衆と二組の十二神将を拝観する事が出来た。これらの像は、数が多い事から纏まって現存している例は少なく、特に廃寺となったお寺で残っているのは、一体でも欠けたら後補の像を新調して加えるなど、檀家や篤志家の努力の結果であるのだろう。
 その意味でも、幸せな生きている仏たちである。

 また、智満寺本尊、鉄舟寺観音堂本尊とも、古代の千手観音像が秘仏として伝えられている事に先人の信仰を感じた。両像ともに秘仏ながら幸い近年開帳されているため調査が行き届いており、天平末期から平安初期の形式をもつ像である事が確認されている。

 ややもすれば見過ごされがちであった東海地方の仏教文化の歴史ももう一度見直される必要があると強く感じた次第である。

(2003年10月4日)

 (桑原薬師堂阿弥陀三尊像の写真は、函南町のホームページから転載させて頂きました)

 


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