【行 程】 2010年9月3日〜10日
9月3日(金) 羽田空港→北京空港→大同(泊) 【その4】
Z.9月8日(水) 1.この日は太原周辺を観光の後、午後、南へ約100kmの地にある平遥へ向う予定で、やはり足の確保が先決である。 前日夕刻Kさんの交渉で幸い1日ガイド(日本語ガイド)を予約することができたので、この男性ガイドとその友人の運転する乗用車に乗り込みホテルを出発。 太原は山西省の省都で人口300万人超の大都市である。 市中心部には迎沢大街という幅60mの大通りがあり道路はよく整備されているが、朝の通勤時間帯ということもあり渋滞が激しい。 太原は以前石炭による大気汚染ワーストワンの街として知られていたが、今はかなり改善されたとのことで、さほど酷いという感じは受けない。 渋滞を抜け、まず本日のメイン天龍山石窟へと向う。 2.天龍山石窟は太原市内より西南へ約40kmの天龍山の山腹にある。 太原でのもう一つの見どころである晋祠の裏手から山道へ入り登りが始まる。 この道がひどい道で雨上がりのデコボコ道を尾根伝いに右に左にくねりながら走るので、前の座席の背もたれにでもしがみついてないとますます気分が悪くなる。 尾根道を走ること約30分でようやく天龍山石窟の入口に到着する。
天龍山は、もと北斉の高洋帝の父、高歓が避暑宮を造営したところとして石碑が残っている。 雲岡、龍門を開いた北魏が534年に滅び東魏と西魏に分裂するが、東魏の丞相が高歓で、その子高洋が550年北斉を興す、という流れの中、天龍山石窟も東魏の頃から隋、唐を経て五代の頃まで開鑿が続けられたとのこと。 石窟のある山は海抜約1700mで、南側は谷から屹立しておりこの断崖を利用し石窟が穿たれているとのこと。 敦煌、雲岡、龍門の三大石窟はいずれも河岸の断崖に掘削されたものにつき山中にある天龍山石窟はこの点が異なっている。 ここで、山西省辺りでは珍しい(と思われる)茶髪の若い女性から声がかかり現地ガイドとして雇うことになったので、男性日本語ガイドと女性現地ガイドとともに巡回が始まる。 石窟は入口の真下の位置にあるので、我々はガイドの説明を受けながら山上から順に下りていくが、この段階では石窟がどこにあるか全くわからない。 途中、中腹の崖地に立つ三層四重の大きな楼閣がみえてくる。 ここが天龍山石窟を代表する第9窟で、楼閣は窟を覆うために1986年に再建されたものという。 通称漫山閣といわれるこの楼閣の入口より内部を拝すると、中央上段に高さ7.5mの弥勒と思われる大きな椅坐像が鎮座し、その前の下段に十一面観音立像、左右に文殊騎獅像、普賢騎象像が各々丸彫りされた姿で並んでいる。 中央の本尊弥勒仏は高い位置にあり下半身は建物の二層目の床に隠れて見ることができない。 顔つきは頬を丸く張り目鼻立ちもハッキリあらわされており、下から見上げているせいかいかつい感じも受ける。 本尊の制作年代には議論があり五代という説もあるようだが、窟前の解説板には「唐代の芸術的珍品」と表記されている。 我々を日本人と見た管理人(僧?)が「この大仏の白毫に嵌められていた石は日本人が略奪した」と、きつい目で我々を睨む。 確かに白毫の位置に大きく穴が開いている。何となく気まずい空気が流れ、(写真撮影不可表示も立てられており)カメラに手をかけようものなら何を言われるかも知れない雰囲気。 ガイドブックで「楼閣の二階に昇って本尊を間近に見ることもできる」との記述を読んだ記憶もあり、二階へ昇りたいと頼むも「階段が壊れており不可」と言下に断られる。 下段の三体の像も5m前後の大像だが、いずれも頭部は後捕のものとのこと。このうち中央に立つ十一面観音の体部は彫りも精緻でなかなかしっかりした造形。 少し右足を遊脚にしプロポーションも整っており唐の伝統がよく残されているような感じもある。じっくり見てみたいところだが、像の足元直下から見上げる状態につき細部がよくみえないのが難点。
そこから右に左に細い道を進んでいくと上部の崖にいくつもの小さな洞窟が並んでいる。 石窟の全体像が頭に入っていないのでどれが見どころの窟かわからないことに加え、窟の入口に表示が一切なく、また石窟入口に至るアクセスルートも整備されておらず梯子でもない限り確かめようもない。 女性ガイドも石窟の案内まではできない様子で、その周辺を行きつ戻りつして見学できそうな窟を覗いてみる。 そのうちの一つが(後で調べると)第2窟であったらしい。 内部へは入れないが、中は伏斗式天井をもつ3m四方位の小さなスペースで、
ただ、いずれの像も頭部が欠け、脇侍菩薩は体部まで剥ぎ取られており見るも無残な状態である。 この窟は天龍山最古の東魏代の造像とのことであるが、壁に残された像を見る限り造形的には全般に彫りが浅く体の抑揚もさほど感じられない。 内部へ入れたのが第8窟である。 偶々内部の仏像を補修中のようであったので、山道から少し崖を上り最後は這い上がるようにして窟の入口に至る。 この窟は他の窟と違い、入口前に二本の円柱が立ち(うち一本は途中で折れているが)内部は中央に塔柱が立つ隋代の塔廟窟である。 この形式は雲岡でもみられたが唐代以降はないのでこれが最後の中心柱窟とのこと。 隋の煬帝が晋王として開鑿したといわれるはこの8窟のことであろうか。 ただ、方柱の幅は2m位で内部も狭いので雲岡第6窟でみた方柱(幅8m)とは全くスケールが違うもの。 方柱の四つの側面には帳をつけた龕が穿たれ、各々如来が坐し左右に比丘(羅漢)が配される三尊形式で、また入口面を除いた三つの側壁には仏坐像と比丘、菩薩の五尊形式で構成されている。 如来の着衣は(第2窟でも同様であったが)通肩の場合でも右肩の上に更に衣がかかっている。 造形的には、全般に彫りが平板でやや固い感じの像が多いが、方柱の右側と奥(東面と北面)の龕内の如来は柔らかみのある体部表現で仏師が違うように感じられる。 ただ残念なことに像という像は全て頭部が削り取られており無残という他ない。 第8窟入口付近 第8窟方柱正面の如来 他の窟も含め天龍山のほとんどの仏頭は削り取られ世界各地の博物館に持ち出されているとのことで、日本でもこの窟の入口左右にあった仁王像は京都の藤井有鄰館に所蔵されているらしい。 今回の旅行出発前に偶々根津美術館へ行った際にも天龍山石窟の仏頭がいくつか展示されていた。 同じ仏教徒である日本人が破壊したとは到底思えないが、現地での惨状をみるにつけ何とかならぬものかと心が傷む。
見学者も少ないのであろうが、石窟の管理も第9窟以外は充分ではないようである。天龍山で最も秀れた仏像があるといわれる唐代の窟もぜひ見たかったが、所在わからぬままあきらめて尾根道を下っていく。 尾根道からの眺望は素晴らしく麓にある聖寿寺という寺が眼下に見え、山を見上げると山腹に立つ漫山閣がなんとも美しい。 複雑な思いで山を下る。 3.昼食を済ませたあと晋祠を訪れる。 晋祠は春秋時代(BC11C)の「晋」の始祖唐叔虞を祀る北魏代創建の祠(日本でいえば神社のようなところ)。 「晋」は山西省の代名詞のようになっており今でも車のナンバープレートに使われている。 東京でいう「品川」「練馬」等に相当するもので、因みに山東省では「魯」が使われている。
聖母殿は宋代初期11C前半に建てられた大きな建物で二層の屋根を支える斗きょう、木組みが見事である。 前面は唐招提寺金堂のように柱だけの吹き放しでこの柱に木彫の龍が巻き付いている。 現地ガイドの女性が一本の木から柱と一緒に彫り出したと解説するがやや怪しい。 ここの見どころは内部の塑像群である。殿内中央の宮殿内部を模した帳内に叔虞の生母が坐し、その周りに等身大の女官や一部宦官のような人物も立っている。 帳の外側にも沢山の侍女が立ち並んでおり、まとめて宋代塑像の傑作と評されているもの。 侍女は各々顔つきが違い、中でも主人の方に向いた右半分は従順な顔ながら反対側の左半分は眉をひそめ嘲笑するような表情の侍女がいて面白い。 いつの時代も変わらぬものとこちらも苦笑い。 これらの像は宋時代の宮殿内の衣装、習慣等を見る上で貴重な像と思われるが、仏像のように多様な尊格がある訳でもないので、何となくワンパターン的な感じを受けるのもやむをえぬことか。 4.晋祠を出たあとは玄中寺に向う。 更に南西方向へ車で1時間半程度走り道に迷いながらも山間の門前に到着する。
中国浄土宗の三祖、曇鸞、道綽、善導により開かれ発展してきたとのことだが、曇鸞は北魏代後期の僧で、道綽、善導は唐代の僧である。 特に善導の名は日本でもよく知られるが、昨年訪問した龍門石窟奉先寺洞の大盧舎那仏の造営監督責任者であったことを今回初めて知る。 日本との関連では、浄土宗の開祖、法然は善導の著した書によって開眼したといい、浄土真宗の祖、親鸞の鸞は曇鸞からとったものという。 浄土教は唐代に最も流行したとのことだが、それまでの権力者中心の仏教に対し一般大衆を救う教えが広く受け入れられたもので、造像面でもそれまでの釈迦仏と弥勒仏中心から、唐代に入る7C以降は阿弥陀仏が圧倒的に多くなってくるようである。 5.この日の泊まりは平遥であるが、平遥へ行く前にぜひ立ち寄りたいところがあった。 平遥の手前15kmのところにある鎮国寺である。 玄中寺を出たのが4時過ぎで、到着が遅れると閉まっている恐れもあり気を揉む。事実到着したのは6時前で既に薄暗くなっていたが、幸いにして無事拝観することができた。
山門から中軸線に天王殿、万仏殿、三仏楼が並んでいるが、時間もないのでまず万仏殿に向う。 今回の旅行では、中国に残る木造建築のうち南禅寺大殿、仏光寺東大殿に次ぐ古い建物である。 さほど大きな建物ではないが、やはりゆったりした屋根の勾配と深い庇、軒先の優雅な反りが特徴で、軽快感を感じる。 軒先の斗きょうは三段で支える「三手先」で、外へ突き出る部材(尾垂木)の先端を尖らすところなども仏光寺東大殿と類似の様式である。 外壁は後世の補修で一部レンガ積みで補強されている。 堂内は暗いので懐中電灯で照らしてみると、壇上に見事な塑像が並んでいる。 釈迦の坐像を中心に左右に二弟子、二菩薩(肩に甲を着ける半跏の像。文殊、普賢か)、二脇侍菩薩、二天王、前方に二供養天の計11体である。敦煌を除いて中原での数少ない五代期の作例とのこと。 中央の釈迦は右肩に衣を掛ける偏袒右肩で金色に彩色されている。 左右の脇侍は高さ2.5m位の、いずれも端正な顔立ちの像である。 後世の彩色が塗られているが仏光寺塑像ほどきつくはなく、むしろ肌の質感が感じられさほど抵抗感はない。 シンプルな薄手の衣を身に着ける洗練された感じの像が多く、中でも脇侍菩薩のスラリとした優雅な立ち姿が印象に残った。 南禅寺像と比べ全般に体の肉付きが少なく、像から受ける緊張感という点でやや劣後する感はあるも、なお唐風を漂わせる素晴らしい仏像である。 時間が遅かったこともあり他の観光客もおらず、ここではゆっくり拝観しカメラに収めることができた。 鎮国寺堂内塑像群 万仏殿の背後の高台にある三仏楼内にも明代の塑像があったが、ここの見どころは左右の壁面に描かれた釈迦の仏伝図である。 明代の作品とのことで、テーマ、題材は雲岡第6窟でみたものと同内容であるが、ここでは中国人風の釈迦が中国の社会風俗の中で描かれており、それはそれで面白いが時間もなくなってきたのでザッと見て出口に向う。 鎮国寺では静かな雰囲気の中で素晴らしい仏像をゆっくり見学でき、大変印象に残る寺となった。 平遥古城とともに世界遺産に登録されたのも「むべなるかな」である。 6.外はすっかり暗くなっており、その中を今夜の泊まり平遥へと向う。 ガイドには平遥古城の城門まで送ってもらい、そこから電動カートに乗り換えて城内のホテルへ向う。城内へは自動車は入れないからである。 昔の中国の主要な都市は、欧州や中近東の伝統的な都市と同様、城壁で囲まれていたが、近年の都市開発などでほとんど姿を消し、現在も城壁が保存されているのは4〜5ヶ所といわれ、中でもほぼ完璧な形で残っているのは平遥だけといわれている。 城壁内の街並みもよく保存されており、到着したホテルも木造の商人宿風の趣きのある建物。 従ってホテルの設備も期待できないものと思っていたが、部屋の内部は意外にも現代人向きに造られていた。 気に入ったのは大き目のバスタブがついていることで、久しぶりにゆっくり湯につかることができ心身ともリラックスすることができた。
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