【行 程】 2010年9月3日〜10日
9月3日(金) 羽田空港→北京空港→大同(泊) 【その3】
W.9月5日(日) 1.車で大同より応県木塔、懸空寺、恒山を経由して五台山へ向う。 今回の旅行で仏像の他、建造物にも興味を引かれるところが多く、以下印象に残った古仏、古建築を中心に記述してみたい。 2.朝、大同を出発してから1時間半位かかったであろうか、だだっ広い平原の中に高い塔が見えてくる。 これが応県木塔(正式名:仏宮寺釈迦塔)である。
遼代(11〜12C)に建てられた八角九層のずんぐりした塔だが、九層といっても一層毎に暗層の部分があり、外から見ると、下に裳階のついた五重塔のように見える。 法隆寺五重塔も1階に裳階のついた同様の形であるが、八角塔ということもあり近くで見るとかなり重量感があり日本の五重塔とはイメージが全く違う。 この木塔は高さ67mもあり日本でこれに匹敵する塔はない。(日本では最も高い東寺の五重塔で55m、興福寺で50m。) 中国で最も古い木塔であると同時に世界で最も高い木塔とのことである。 日本の五重塔はもともと上へ昇ることを想定していない造りだが、この塔は昇ることができる。 入口を入ると1階には高さ11mという大きな釈迦仏が坐っている。 その脇の急な階段を手すりをつたいながら昇っていくと暗層部分から三層目に到達しようやく視界が開ける。
当時の建築技術の高さに驚かされる。 三層目では、外部を構成する柱、壁と、内部にも柱に囲まれた内陣があり、ここに塑像の三尊像と脇侍が祀られている。 ところが、昇り口の反対側へ回ってみると、内陣の柱、外側の柱とも一目でわかるくらいかなり内側へ傾いており、ピサの斜塔ならぬ東洋の斜塔を実感する。 このため現在は三層までしか昇れないことになっているとのこと。ここからの眺めを楽しんだあと、応県より懸空寺へ向う。 3.懸空寺は絶壁にへばりつくように建てられた、日本でいえば鳥取県の三仏寺投入堂を連想させるような寺。 かつては(三仏寺もそうであるが)僧達の修行の場であったのであろう。 ここは観光客も多く狭い通路、階段を一方通行で昇っていくようになっている。 昇りきった上の狭い堂内には不思議なことに道教、儒教、仏教の三教が合同で祀られており、我々には理解しがたいところ。 三仏寺の場合は投入堂へ至る昇りが厳しくスリルがあるが、スケールはこちらの方がはるかに大きい。 懸空寺全景 同 登り階段 4.このあと道教の聖地として知られる恒山を経由して五台山へ向う。 この日はかなりの距離を走る予定だが、我々のチャーター車は7〜8人乗りの上海GM製「ビュイック」で、5人がゆったり坐れるので長距離の移動には楽である。 馬力があることに加えドライバーもかなり攻撃的な性格のようで、田舎道も山道もかまわずバンバン進む。 スピードが出る分すぐ前方の車に追いつくが、その都度委細かまわずクラクションを鳴らし猛スピードで対向車線に出て次々と追い抜いていく。 追い越されるのはトラックが多いが、このトラックも路肩に寄るでもなく中央線寄りを平然と走っている。 時に追い越し時に対向車線から車が来て肝を冷やすこともしばしば。おかげで(?)落ち着いて居眠りもできず。 途中、山中の道路で大型トラックの事故に伴う大渋滞に遭遇。 この辺りのトラックは少しでも利益を上げようと過積載の車が多く、中にはそれが原因でシャフトが折れたり路肩より転落するケースも多いとのこと。 渋滞を抜けた後は車は次第に標高を上げて五台山の台内に入っていく。 夕刻に近づいてくるにつれ外はかなり冷えてきた。 関所のようなところ(検問所)で入山料90元(?)を支払い、更に30分程走り五台山の中心部、台懐鎮にあるホテルに到着する。 X.9月6日(月) 1.五台山はいわずと知れた仏教聖地。 古くから「文殊菩薩の住処の清涼山(五台山)」として栄え、隋・唐代に隆盛、日本の僧円仁が修行したことでも有名。 元代に従来の寺院にラマ教の寺院が加わり、特に清代には康熙帝、乾隆帝もしばしば参詣したという。 ただ、その後は文化大革命の嵐も加わり荒廃。現在は再建された寺が多く、内部の仏像も古いものはなく色彩もややけばけばしい。 近年には世界遺産に指定され整備が進んでいるようであるが、日本の寺のような厳粛な雰囲気が感じられないのは残念である。 五台山の中心部は海抜2000〜3000mの地にあるので気候は寒冷、夏でも涼しいので清涼山といわれる。 我々が訪問した前後は雨模様であったようだが、この日は青空が広がり天候には大変恵まれ、おかげで気持ちよく台懐鎮と呼ばれる中心部の諸寺を巡ることができた。
中国に仏教が伝来したのは後漢の永平年間(58〜75年)のことといわれ、この時、昨年訪問した洛陽の白馬寺に続いて創建されたとの伝説がある。(但し真偽の程は不明。) 因みに、日本の曹洞宗の本山永平寺の名もここ(永平年間)からとられたという。 関連ついでにいえば、京都嵯峨野の、中国伝来の釈迦如来像で有名な清涼寺も開祖「然上人が五台山で学んだ縁でズバリ五台山清涼寺というネーミングである。
中国では近年の改革開放政策から多くの人が信仰を持つようになったようで五台山を訪れる人も多く、みやげ物を売る店や宿泊施設も数多い。 但し、何かにつけ値段は高目で全てが観光地プライスになっている。 2.流石に夕方になると冷え込んでくるので早めにホテルに戻ることとする。 ホテルの部屋の設備は山上ということもあり、あまり期待できないことは事前に(予約してくれた)Kさんからも聞いていたが、部屋に入ってみると、シャワー室がなく(仕切りもカーテンもなく)洗面、シャワー、トイレが狭いスペース内に一体となっており、シャワーの使い勝手にやや問題あり、結局この日は一日寺院の階段の昇り降りで疲れもあったがタオルで体を拭くに止め、床に就く。 Y.9月7日(火) 1.この日は五台山の台内より台外のいくつかの寺を回りながら、太原まで移動する予定で、およそ200〜300kmの行程である。 朝、ホテルを出発し南西方向へ向って山を下り、途中、まず金閣寺へ立ち寄る。 中国にも金閣寺があるとは知らなかったが、日本の金閣寺とは雰囲気が違う。 観音閣と呼ばれる大きな建物には、頭上に冠を被る高さ17.7mの千手観音像が立つ。 五台山で最も大きい仏像とのことで、もともとは銅像であったようだが上から泥を塗り塑像とした上から金色に彩色したものという。 2. ここからどんどん山を下り、次に訪れたのが仏光寺である。 台懐鎮より45km程南西の地にある山中の丘陵に建てられた大きな寺である。 北魏孝文帝の時代に創建されたという古い歴史を持ち、唐代の武宗期に出された廃仏令(845年頃、「会昌の廃仏」といわれる)で破壊されたが、直後に再建され今日に至る。 山門を入ると左右の殿舎に挟まれた中庭に出るが、その正面の高台に二本の樹木越しにどっしりとした風格のある建物が建っている。 これが本殿にあたる東大殿で、建物内の墨書等から唐代857年に建てられた貴重な建造物であることが判明したという。 現在中国には唐代以前の木造建築は現存せず唐代のものも中国全土で僅か4ヶ所しか残っておらず、そのすべてが山西省にあるとのことである。 建築の知識には乏しいが、屋根の勾配、軒の反り、斗きょうと呼ばれる屋根を支える木組み一つ一つを見ても奈良の古寺、古建築を見慣れた日本人には違和感なくしっくりくる建物である。 正面の急な階段をカニ歩きのように昇って東大殿の前に出る。 仏光寺東大殿 同 建物前面 内部へ入ってみると、天井を格天井に組んだ大きな空間の中に20m近くはあろうかという横に長い須弥檀があり、壇上に唐代の塑像35体が古建築に似合わずカラフルな姿でいっぱいに並びビックリさせられる。
更に両側の隅に金剛力士像、前に供養天像を配する豪華な塑像群である。35体のうち20体以上は3mを超す大ぶりな像でこれらが揃って並ぶ様はまさに壮観である。 時代的には中唐〜晩唐にかけての造形といわれ、特に菩薩はスラリとした立ち姿で衣の襞は流れるような見事なもの。 但し、惜しいことに後捕の色彩が厚く塗られ近年の修復も入っているためか各像とも個性のない優しい感じの顔つきで、鮮やか過ぎる彩色とあいまって当初のイメージを損ねているのではないかとも思う。 総じて品よく纏まっているがやや力強さに欠ける感は否めず、数が多いこともあり見る側もどうしても散漫になり勝ち。 博物館等で一体一体見ていけばまた印象が違うかとも思うが、どこまでが唐代の原形か掴めないまま東大殿をあとにする。 東大殿に向って左手にあるのが文殊殿で、こちらも金代の建物。内部は柱を少なくして空間をできるだけ広くとるよう構造的に工夫されているようで、中央に“五台山の住人”文殊菩薩が獅子に乗り従者を引き連れ祀られている。 さすがに文殊菩薩は多いが、一説によると文殊はもとは中国で作られた仏?でインドや中央アジアには古い像はみられないという話もあるが本当かどうかいずれ確かめてみたいところ。 ここは山中にあり静かで訪れる人も少ない。 日本ではさほど知られていない寺と思うが、なかなかに雰囲気のある、歴史、風格を感じる立派な寺という印象を受けた。 3.仏光寺から次に目指すは南禅寺である。(といえばまるで京都市内の移動のようだが) 南禅寺は五台山の一部とはいってもかなり外れの位置にあり、車で更に山道を延々と走った人里離れたところにある。 寺の右手は窪んで崖になっており、この崖を利用したヤオトン住居がみられ何と今でも人が住んでいるようである。 南禅寺は小じんまりとした寺で、山門を入ると正面に小ぶりな本殿がある。
782年といえば、唐招提寺金堂もほぼ同時期(その1〜2年後)に建てられたことが今回の平成の大修理で判明したばかりである。 シビを乗せた屋根の勾配はゆるやかで軒も前後左右に伸びやかに張り出している。 我々が訪れた時は地元の人達であろうか信者が集まり法要が行われている最中で、これが終わるのを待って内部へ入る。 内部も余計な装飾がなく構造材がそのまま露出し比較的シンプルで質素なつくりとなっている。 さて目当ての仏像であるが、入ってすぐのところに鉄柵があり、その中に計15体の唐代の塑像が並んでいる。 須弥檀中央に大きな釈迦が八角台座の上に裳懸座に坐し、左右に二弟子(阿難、迦葉)、二脇侍菩薩、左に騎獅文殊、右に騎象普賢の両菩薩、その外側に二脇侍菩薩、更にその外に二体の天王像の構成で、ほとんどが唐代中唐期の貴重な仏像。最も大きいのは中尊だが、脇侍菩薩、天王像も高さ2.5m前後の重量感のある像ばかりで迫力がある。 中尊手前両サイドに供養天が配置されていたようだが、近年盗難にあったとのことで蓮台のみが残っている。 須弥檀前の鉄格子はそれ以後設置されたようで、寺側にとっても我々拝観する側にとっても不幸なことである。 一部の像は手先が失われ腕の先から木芯が顔をのぞかせているところも見える。 後世の補修も入っているものと思われるが仏光寺の塑像ほど彩色もきつくなく、また各像とも穏やかな顔つきの中に体部の肉付き、体の動勢が感じられ、地味ながら全体的にバランスの取れた、就中、中唐期の成熟感が感じられる本物の唐代の仏像という印象を受けた。 ぜひカメラに収めたかったが撮影禁止が残念。 (参考図版)南禅寺仏像群 このように南禅寺は建物、仏像とも時代を超えて残されてきた大変貴重な遺産である。 唐代の所謂「会昌の廃仏」は845年頃で円仁も在唐中これに遭遇しているが、五台山のほとんどは壊滅的な被害を受け仏光寺も例外ではなかったが、南禅寺については五台山でも僻地のような場所にあり、ほとんど知られることのない小寺院であったため例外的に破壊を免れたものという。 ただ、仏光寺も「会昌の廃仏」直後の再建以降は文革期を含め破壊を逃れ今日まで保存されてきたもので、ともに現在でも車で何時間も奥へ入るような、中心から離れた場所にあったことが幸いしたものであろう。 これで五台山エリアを後にすることになるが、台懐鎮にあった寺院、仏像は大部分が明清代以降の作であり、建物や仏像に感激することはなかったが、最後に訪れた仏光寺、南禅寺で歴史と文化の一端を味わうことができたことは望外の幸運であった。 4.このあと我々は高速道を経由して一路太原へ向う。 早めに太原へ向うこととしたのは手持ちの人民元が乏しくなり銀行が開いている間に両替を済ませるためである。 山西省あたりでは大きな都市の大銀行へ行かない限り外貨両替は難しいようである。 両替後、ホテルに向かい、そこで大同から4日間に亘り我々を案内してくれたGさん、ドライバーともお別れである。 Gさんの卓越した日本語力、豊富な知識、女性らしい優しい人柄と三拍子揃ったこれ以上望めないガイド振りとチャーター車のお蔭で、大変気持よくかつ効率のよい4日間を過ごさせてもらった。(感謝!)
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