〈その2−9〉



【2017年10月11日〜10月20日】




〔四川省 古仏探訪の旅〜旅程地図〕


【目 次】

T.はじめに

U.古仏探訪の日々

10/11(水) : 成田⇒上海⇒広元
10/12(木) : 広元     皇澤寺 千仏崖  (広元造像概観)
10/13(金) : 広元→巴中  南龕・西龕    (巴中造像概観)
10/14(土) : 巴中→中  中大仏 中故城
10/15(日) : 中→綿陽  碧水寺 綿陽博物館
10/16(月) : 綿陽→梓潼臥龍山千仏崖→綿陽
10/17(火) : 綿陽→成都  四川博物院
10/18(水) : 成都→蒲江飛仙閣・龍湾→成都
10/19(木) : 成都     四川大学博物館 成都市博物館
10/20(金) : 成都⇒成田

V.四川の仏教造像について

1.ロケーションと文化の伝播ルート
2.造像の変遷について

W.旅行を終えて




【 広元千仏崖 (こうげんせんぶつがい)


@千仏崖は皇澤寺から北へ車で約15分程度の嘉陵江東岸に位置し、川沿いの断崖に開かれた石窟群は四川省最大規模ともいわれる。

この辺りの地形は河に断崖が迫り、古来「蜀の桟道」で知られた交通の難所。
1934〜5年に四川省と陝西省を繋ぐ自動車道の建設で石窟の半分以上が破壊されたといわれるが、川沿いの桟道から見上げると高いところは約40mの高さまで窟龕が何層にも蜂の巣状に穿たれている。

時代的には北魏晩期から唐代まで大小1200近くの窟龕があり、その約8割は唐代のものとのこと。




広元千仏崖全景


A入場料は65歳以上無料で有難いが、更に有難いのは日本語ガイドがいること。
中国では敦煌を除けば珍しいのではないかと思う。
この女性ガイドに連れられいよいよ見学スタートである。

桟道を奥へ進んでいくと右手断崖、約2mくらいの高さのところに2つの窟が並んでいた。



[746 睡仏窟]
 
・窟の中央に2本の樹木(双樹)が立ち、樹には龍が巻きついている。
その前に涅槃に入った釈迦像が横たわっているが、何故か「睡仏窟」という。




左:牟尼閣窟  右:睡仏窟


[744 牟尼閣窟]
 
・窟中央に(746の発展形かと思うが)マンゴー系の双樹や光背が衝立て状に透かし彫りであらわされ、その前に中尊坐仏(頭部欠)と2弟子、2菩薩、小さな2力士の七尊が立ち並ぶ。
この透かし彫りの後塀形式は他地域では見かけない独特のもの。
(以下「透かし彫り背塀」と呼ぶ)




牟尼閣窟・透かし彫り背塀


・この透かし彫り背塀には皇澤寺でも見た天龍八部衆がレリーフ状にあらわされ、向って左側に阿修羅像が立っている。
像容はやはり3面で、上二手で日、月を捧げ、もう二手は胸前で合掌する形。

・左右や奥の壁面には多くの仏菩薩が並んでいるようだが、桟道からは少し高い位置で距離もあるのでよくわからない。


[726 大仏窟]

・続いて、大仏窟と呼ばれる開口部が縦横5〜6mほどの大型の窟がある。




大仏窟



大仏窟 菩薩像
三壁全体に風化、損壊が目立つが、正面主尊の体部と向って右壁の菩薩像はよく残されている。
おそらく当初は窟全体で1仏2菩薩の三尊仏を構成していたものであろう。

・向って右側の菩薩を見て驚いたのはその像容。

双髻状に束ねた髪に面長な顔つき、胸飾りを着け、肩の先で反り上がった天衣は腹前でX字状に交差、裳の両側は鰭状に左右に開き、手には右手で蓮華の茎を持ち、左手で桃型の持物をとるなど、見るからに北魏スタイルの菩薩である。

中国西南部の四川で龍門賓陽中洞の脇侍菩薩を彷彿とさせるような典型的な北魏仏に出会ったことに驚きとともに歴史的痕跡としての感慨を覚える。


[535 蓮華洞]
 
・ここも大きく開かれた窟。
まず目に入るのが天井の大きな蓮華文様。

三壁三龕には多くの仏像が彫られているが、各面の中尊は
(@)正面:通肩の倚坐像、
(A)向って左面:偏袒右肩の坐像で胸飾りをつけ右手は触地印という菩提瑞像風の像、
(B)向って右面:中国式着衣の坐像で左胸前で袈裟の端を吊る、
という三者三様の姿。







蓮華洞


窟前の解説板には、
「690〜697年則天期に造られた釈迦、弥勒、阿弥陀の三世仏」
とあるが、左右の尊格はやや決め手に欠ける。
いずれにしても弥勒を主尊とする三世仏ということであろう。




Bこれより先にはさほど大きな窟はないが、中小の窟龕が崖の壁一面に彫られている。

下から見上げるところが多いが、主な見所は以下のようなところか。


[211 蘇 (そていくつ)
 
玄宗期の宰相蘇が「益州大都督府長史」として成都にいた頃(720〜721年)の造像で、弥勒倚像を中尊とする美しい窟。







[365 弥勒仏窟]
 
中尊:弥勒倚像(頭部欠)


[366 菩提瑞像窟]
 
中尊:宝冠触地印如来
両窟ともに入口近くの「744窟」でもみた透かし彫り背塀形式の窟。


[202 地蔵龕]
 
地蔵菩薩の単独龕。通肩に衣をつけ大腿部の張りをあらわすY字形衣文は唐招提寺の木彫群や平安初期彫刻像を連想させる。




地蔵龕




Cここからは石段や鉄の階段を上り下りして高い位置にある窟の見学となる。
麦積山の見学を思い出すが、ここの通路は人一人が通れるくらいの狭さである。

通路を通って見学できた主要な石窟は次のようなところ。


[512 大雲古洞]
 
規模の大きな窟。
高さ2.4mの通肩の如来像を中心に左右に奥深く掘り込んだ窟で、側壁には数多くの仏菩薩が高浮彫りにあらわされ、西方浄土の信仰を反映したものという。




大雲古洞


[513 韋抗窟]
 
512のすぐ隣の窟。
窟内に銘文があり「益州大都督府長史」韋抗が玄宗開元期に造営したことがわかる貴重な窟。


[493 神龍窟]
 
本尊は豊満な体型の弥勒倚坐像。
窟内に「神龍2年(706)」の題記があることで知られている。




神龍窟


[689 千仏窟」
 
透かし彫り背塀形式の窟。中尊坐仏に2弟子2菩薩、前に2小力士の七尊像と側壁に千仏の構成。
背塀に天龍八部衆の造形があり、阿修羅は三面で、手に日・月、重りをつけた天秤、胸前で輪宝を持つ。
全体にまとまりがよく成熟した造形を感じさせる窟。




千仏窟


[806 釈迦・多宝仏窟]
 
中央壇上に二仏(向って左は中国式着衣、右は通肩の如来像)。
左右に2弟子2菩薩を従えるので計六尊像。










釈迦・多宝仏窟


後壁には天龍八部衆。
阿修羅は二仏の後方中央に立っているので下半身まであらわされている。
三面で手には日、月と胸前に輪宝を持つ。
この窟の造像は写実性に富み、出来の良さを感じさせる。



D下の桟道へ降りて見学はほぼ終了。

千仏崖は多様で見所多く期待に違わぬ石窟で充分満足。
これも細かく質問するうるさい我々?を気持ちよく案内してくれた女性日本語ガイドのお蔭。

日本語は必ずしも上手とはいえないが懇切丁寧な解説で感謝感激。
きけば日本語での案内はこの5年で2組目とか。
巡り合わせにも感謝し千仏崖を後にする。




【 広元での造像について概観 】


(1)当地区の歴史について


・南北朝期、四川省北部エリアは南朝と北朝の境界付近に位置するため、しばしば政争の地となってきた。

もとは南朝の支配下にあったが、505年梁武帝代北魏に占領され、535年北魏分裂時一時南朝に帰属するも、553年西魏が再度侵攻、これ以来四川省全土が西魏から北周、隋、唐へと支配を受けることになる。

千仏崖で北魏仏に出会ったのも決して不思議なことではない。



(2)造像の時期について


@ここまで見てきた石窟を時代順に並べてみると概略以下のようになろうか。







Aこれをみると、広元では、

(@)当初6C前半に千仏崖で開鑿、
(A)6C半〜7C後半に皇澤寺造営に移り、
(B)7C末頃から再び千仏崖に戻って盛唐期にピークを迎える、

という比較的わかりやすい流れで造像活動が展開されたことがわかる。



(3)特徴的な造像について


・千仏崖、皇澤寺に共通してみられたのが天龍八部衆で、初唐期から開元の終わり頃まで好んで造像されたということがいえる。

・千仏崖で目についたのが透かし彫り背塀形式の窟で盛唐期に集中。
天龍八部衆については他でも見られるが、この背塀形式は広元だけの特徴ではないかと思われる。



                



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