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【2014年8月30〜9月8日】
〔河北省・山東省の古仏を訪ねて〜旅程地図〕
【行程】
8月30日(土) 羽田空港→北京→邯鄲(泊) 【南響堂山石窟】
G南響堂山石窟は北響堂山石窟の南約15qのところにある。
南響堂山 全景 第2窟窟門脇にある隋代の碑文に天統元年(565)僧慧義によって開かれた旨の記載があり時期的には北響堂山に遅れ北斉末期近くに造営された石窟であることがわかる。 ここは石窟近くまで車で行けるので北響堂山のようなきつい登りもない。 響堂寺(石窟寺?)という寺であったか、寺のすぐ裏の崖面の上下二層にひとまとめにしたように七つの窟が穿たれている。受付を済ませさて見学しようとすると、寺の管理人(僧?)が窟手前の柵より見てほしいという。 ここまで来て窟内を外から眺めるだけでは価値半減というより来た意味がない程である。 幸いCさんが交渉してくれ追加の見学料を支払うことでようやく内部へ入ることができた。 南響堂山 第1窟、2窟外景 [第1窟]
窟内は6~7m四方位の広さで、中央に一辺3mほどの中心方柱が立ち、その正面及び左右の三面に各々龕が開かれている。
正面龕には中尊が坐し、左右に何体か弟子、菩薩像が並んでいたようだが欠失、破損しているので当初の構成は不明。 ただ、ここで嬉しいのは中尊の顔面が辛うじて残されていること。 第1窟 中心柱正面龕と正面龕中尊顔部 一部右頭部を欠くものの当初の面影が想像できる貴重な像。螺髪の頭に頬を丸く張ったような卵形の顔つきで北魏代の像とは全く異質な感じを受ける。 やや撫で肩気味で丸味を帯びた体部に簡素な衣文の中国式の衣を着け、膝部も北響堂山特有の扁平なものとは異なり厚みを出している。 また、左足を上に組む坐法も特徴的である。 (北響堂山の諸像はすべて右足が上であった。) 向って左側面の龕は一仏二弟子二菩薩の構成で、その奥上方には千仏がビッシリと彫られている。 中尊はここでも左足を上に組んでいる。 また、脇侍は短躯で動きも乏しいが各々中尊の蓮華座下から伸びた蓮華上に乗っているところは注目される。 向って右側面は損壊がひどいが、五尊像で脇侍が中尊蓮華座から伸びた蓮華上に立っているところは左側面と同様である。 この龕の見所の一つは中心柱正面龕上部の群像レリーフ。 高いところでわかりにくいが、向って左から順に「半跏の太子と愛馬カンタカ(との別れ)」、「仏説法」、「弥勒説法?」の三つの場面が表わされているものか。 窟の入口を開けてくれた僧が、向い合う壁面(入口前壁上部)にも阿弥陀浄土図があると教えてくれるが外光の影が強く暗い位置にあるのでほとんど見えないのが残念である。 中心柱左右龕内の蓮枝に支えられた三尊像も共通のイメージで造られたものであろうか。 [第2窟]
第1窟のすぐ左隣りに対窟のようにほとんど同じ大きさで造られている。
第2窟入口 入口脇の隋代の碑文によれば、第2窟は北斉の丞相、高阿那肱の造営によるものとのこと。歴史資料では高阿那肱は北斉最末期、北周に攻められ今や滅びんとする頃に北周に寝返った人物とのことだが、おそらくその直前の造営ということであろう。
第1窟同様の中心柱窟であるが、中心柱は大きく破壊され龕内の仏像は何一つ残っていない。 明らかに人為的な破壊と思われ今では正面に僅かに残された光背を見る他ないが、細かくみると頭光の唐草文の中に七仏があらわされ、その外周に八体の飛天が舞う美しい光背文様である。ただ、飛天も賛嘆の主がおらずどこか寂しげである。 ところで、ここから破壊し持ち出されたものは仏像だけではない。 前壁上部にあった阿弥陀浄土図が現在ワシントン・フーリア美術館に所蔵されている。 この阿弥陀浄土図は横幅3mを超える大きなもので、阿弥陀三尊他仏菩薩や前方の蓮池で蓮華化生する様が表わされる最初期の変相図といわれるが、阿弥陀仏や阿弥陀浄土変が盛行する隋、唐以降ならともかく北斉代にこのような阿弥陀浄土変が早くも信仰、表現されていることに驚かされる。 美術館でよく残されたと考えるのか複雑な心境である。 (参考図版)ワシントン・フーリア美術館所蔵 阿弥陀浄土図 [第7窟]
さほど大きな窟ではないが比較的保存がよく、窟門の前に瓦屋根の木造建築を模した軒の形と、その上部に北響堂山で見たストゥーパ形覆鉢と蓮華宝珠文様が表わされている。 まさに北響堂山との繋がりを感じさせる造形で、いわばインド的な塔と中国の伝統建築を組み合わせたような構造。 前面に立つ柱も装飾性に富み下で獅子が支える見事なもの。 窟門左右の金剛力士像も頭部も含めよく残されている。 我々日本人が見慣れた力士像に近く、響堂山の中でも少し時代が下がる窟であろうか。 第7窟 正面龕 内部は三壁三龕形式で帷幕を持ち北響堂山の南洞を小さくしたような窟。 龕内はともに一仏二弟子二菩薩の構成のようである。 正面龕の中尊は右足を上にした坐像、向って左龕は中尊欠失、右龕中尊は椅像、の組み合わせ。 注目されるのは右龕椅像の足元にあらわされた人面。 口から蓮華の茎を左右に吐き出しその先の蓮華に椅像の足が乗るという変った表現があり面白い。 コルカタのインド博物館で見たバールフットの欄楯に口から蓮華を出す類似の表現があったことを思い出す。 . 第7窟右手龕 足元の人面 (参考図版)コルカタ・インド博物館バールフット欄楯のメダイヨン 仏像はどの像も体の抑揚や動勢に乏しく形式化した感があるが、この窟の素晴らしいのはむしろ入口周りの装飾や天井を含めた全体表現であろう。 後世の彩色もそれなりに効いているかもしれないが、特に天井は蓮華を中心に四方より楽器を持った飛天(楽天)が各2体、宝珠文様を挟むように大きく浮彫りされ、見る者を文字通り天上世界に誘うかのようである。 第7窟 カラフルな天井装飾 北響堂山との関係では、各龕の基壇下に博山炉のような文様や神王像をあらわすのも共通で、全体に北響堂山、特に南洞をイメージして造られたような感がある。 [第6窟]
右隣の第6窟は三壁三龕の形式だが仏像は1体も残されていない。
続いて第5窟へ移る。 [第5窟]
第5窟も三壁三龕の基壇はあるが、脇侍はすべて失われどういう訳か三壁の中尊だけが残されている。
第5窟正面龕 正面中尊は左足を上に組み蓮華座上に坐す。 膝周辺は厚みもあり二条の衣文線がみられる。 向って左の中尊は椅坐像でこれは弥勒か。 右の中尊はやはり左足を上にした坐像で、衣の端を台座から少し垂らすいわゆる裳懸座の走り?のような形がみられる。 天井には蓮華の花が大きく立体的に表わされ、規模は違うが龍門石窟蓮華洞の天井を思い出す。 第5窟 天井の蓮華文様 窟門前壁上部の涅槃図も見所の一つ。
珍しいのは、釈迦の手前で脈をとるかのような広袖の服装の人物、耆婆(ぎば)大臣があらわされているところ。 あまり類例を見ない表現だが、法隆寺五重塔塔本塑像ではこの耆婆大臣があらわされており影響関係が注目される。 釈迦に関しては、前壁に呼応するかのように正面壁の向って左上隅に半跏の悉達太子像、右上に説法する釈迦像などが表わされているので、一連の仏伝場面を表現したものであろう。 ここでも基壇下の神王像等他の窟との共通表現が見られ、小窟ながら内容豊富で見飽きない。 [第3,4窟]
右隣の第4窟も三壁三龕式だが、中はがらんどうで見るべきものはない。
隣の第3窟は若干奥まった位置に開かれているが、未完成の窟のようで内部は壁面装飾も含め何も残されていない。 上の階層はおそらく第4〜6窟を中心に左に第7窟、右に第3窟を並べて造る計画であったかと思われるが、第3窟については何らかの事情で奥の位置に造り直そうとしたか、あるいは情勢の変化等で途中放棄されたものかもしれない。 H時間は既に4時近くになっており、石窟に入る陽差しもかなり傾いてきた。 南響堂山は、スケールと壮麗さにおいて王室が関与したといわれる北響堂山には及ばないが、コンパクトながら想像以上に見所があり内容の豊富さを実感。 同行のKさん、Iさんも同様のようで、この日一日念願の南北響堂山石窟見学を果たした充実感を胸に帰途に就く。 I邯鄲のホテルは市内の中心地にあり比較的グレードの高いホテルとの触れ込みであったが、どうも官営系ホテルのようで設備やサービスは今一歩(二歩?)。 特にIさんの部屋は風呂一つをとっても、(当初)湯船の栓がない、湯の温度が上がらない、水漏れで床がビショ濡れになる等散々の態で、結局部屋を替えてもらいようやく落ち着く。 夕食はホテルのレストランで、充実した初日の見学と何よりもKさんの「十大石窟踏破」を祝い乾杯する。 |