.             【第1回】    → 【第2回】



【2014年8月30〜9月8日】




〔河北省・山東省の古仏を訪ねて〜旅程地図〕


【行程】

8月30日(土)  羽田空港→北京→邯鄲(泊)
8月31日(日)  北響堂山石窟→南響堂山石窟→邯鄲(泊)
9月1日(月)  →安陽霊泉寺大住聖窟→小南海石窟→邯鄲(泊)
9月2日(火)  邯鄲→済南 山東博物館→済南(泊)
9月3日(水)  神通寺千仏崖石窟→済南(泊)
9月4日(木)  済南市博物館 済南→青州(泊)
9月5日(金)  駝山石窟→青州市博物館→青州(泊)
9月6日(土)  雲門山石窟 青州→青島(泊)
9月7日(日)  青島市博物館→青島(泊)
9月8日(月)  青島→成田空港




≪はじめに≫


中国各地に日本仏の源流を訪ねる旅も回数を重ね、ここ数年でその代表ともいうべき五大石窟(敦煌莫高窟、雲岡石窟、龍門石窟、麦積山石窟、炳霊寺石窟)を見学する機会に恵まれ、これらを直接自分の目で確かめることができたことはまさに得難い体験であったと同時に、また次なる新たな探求の源ともなった。

広大な中国の大地では今なお新しい文化的発見があり、仏教文化の分野では山東省や河北省を中心に古代の貴重な文化財の出土が相次ぎ注目を集め続けている。
なかでも1996年に山東省青州の龍興寺址で発見された仏像群はその特異な造形から大きな反響を呼んだことは記憶に新しいところである。

今回の旅行では、まず

@これら山東省で発掘された仏像群の見学と、

A周辺の河北省、山東省に点在する主要な石窟の巡回、


をターゲットにしたプランを想定し、毎回石窟巡りに同行いただく中国通のKさんに相談したところ、Kさん自身も中国十大石窟の踏破という積年の目標があり、唯一未訪問の河北省響堂山石窟をぜひ訪れたいとのことで、幸い意見が一致し実現にこぎつけることができたもの。


T.8月30日(土)


@そのKさんに、アジアの仏像に関心深いIさんが加わり3人で羽田を出発。
昼過ぎ北京空港に到着する。
そこで、Kさんの友人で大連在住のCさんと合流し、一行4人の旅が始まる。

まず、バスにて北京西駅へ向う。

北京西駅からこの日宿泊予定の邯鄲まで高速鉄道(中国版新幹線)を利用するためである。北京はどんよりした曇り空で市内はいつもながら渋滞が激しい。
案の定というべきか駅への到着が遅れ列車の切符変更が懸念されたが、長蛇の行列の中Cさんの手配のお蔭で無事16:40発の「和諧号」に乗車できる。
中国版新幹線とはよく言ったもので車両は内も外も日本の新幹線そっくりというか、そのものである。
約2時間の行程で夕刻邯鄲に到着、ホテルへ向う。




U.8月31日(日)


@邯鄲は、いうまでもなく「邯鄲の夢」の故事で知られた街。

山西省と河北省を分ける太行山脈の南の端に近く、遥か戦国時代には趙の都として栄えた古い歴史を持つ都市である。
現在は鉄や石炭などの鉱物資源をもとに鉄鋼業中心の工業都市となっている。
そのためか空はどんよりと霞がかかったようで街の空気も悪く、地方都市ながらこの点では北京とあまり変わらない感じも受ける。


Aさて、この日は一日かけて南・北響堂山石窟の見学を予定。

響堂山石窟は今回の旅行のメインターゲットの一つでもあり訪問を楽しみにしていたところ。
響堂山石窟は邯鄲市内より西南へ35q程の、太行山脈の支脈である鼓山の山腹に穿たれた石窟で、約15qを隔てて西麓に北響堂山石窟が、南麓に南響堂山石窟が残されている。
ともに中国南北朝時代の北斉期に創建された石窟であるが、この一帯は当時の都「」(現在の河北省臨県)と同王朝発祥の地「晋陽」(現在の山西省太原)を結ぶ要衝の地であったとのこと。


Bこのうち北響堂山石窟は北斉の文宣帝(550〜559)の創建と伝えられ、三大窟(北洞、中洞、南洞)があることで知られている。

また南響堂山石窟は規模的には北響堂山石窟より小さいが、同じく北斉代にやや遅れて開鑿されたといわれる7つの窟が残されており、ともに中国で仏教が隆盛する二つのピーク、北魏と唐代の間を結ぶ中国美術の過渡期の独特な様相をあらわす貴重な石窟として位置付けられているもの。


【北響堂山石窟】

Cまず午前中に北響堂山石窟へ向う。ホテルより1時間ほどで麓の駐車場に到着。

この辺りは昔の常楽寺という寺のあったところで今でも八角九層の塔が残されている。
入口で入場料(一般25元、65歳以上15元)を支払い、そこで石窟のガイドを依頼するが午前中は不在とのこと。
事前にCさんが確認した際には「いつでもOK。予約も不要」とのことであった筈だが話が違う。
当てにしていたのに残念ではあるが文句を言ってどうなるものでもない。


北響堂山石窟遠景
  石窟は山の中腹にあり麓からもぼんやり見ることができるが、かなり遠く高い位置である。
上まで1250段という石段を歩き始めるがこの登りがなかなかきつい。
この日は薄曇りながら時々雲の間から陽が差し蒸し暑い。
汗をかきかき休み休みしながらようやく石段を登りきり山門をくぐると正面に岩壁と石窟の入口らしき窟門が見えてくる。
ハードな登りであったが念願の北響堂山石窟にやってきたとの想いが湧き上がる。


Dガイドがいないのでどれがどの窟か分からぬまま、まず向って右端の窟より見ていくこととする。
やや大き目の窟で位置からしてこれが南洞かと思われるが、内部に人が多く入っているのでまず右側の階段から窟の上部にある小さな窟へと向う。





第1窟(上)と第3窟(南洞)(下)

[第1窟]

これが(番号で)第1窟と呼ばれている窟。


第1窟
  岩壁の中央に小さい窟口が開かれ、その上部に鉢を伏せたような大きなアーチ形と、写真等でよくみられる北響堂山のシンボルともいうべき独特の蓮華宝珠(三つに分かれて伸びる茎と葉の先に宝珠を乗せたような)文様がレリーフされ、その周囲に多数の石刻の碑文が彫り込まれている。

窟内正面には釈迦、多宝の二仏並坐像と脇侍菩薩像が並び、左右にも龕があるようだが窟口が小さいので見えにくい。
残念なことにどの像も頭部を欠損し風化も進んでいるようで痛ましい。
正面の短躯の脇侍菩薩は衣文はほとんどないが肩から斜掛け(タスキ掛けした瓔珞)をかけており薬師寺の日光・月光像を思い起こさせる。


[第3窟(南洞)]

次に下へ降りて南洞へ向う。

南洞は、石窟の内外壁に多数の刻経や568年から572年の銘文があるので北斉代の造営であることが確認されている窟。
窟門を入ったところが前室で、左右にボリューム感たっぷりの金剛力士像が立っている。
頭部を欠き破損も目立つが体部の厚み、盛り上がりで力感あふれる像。

主室の内部は、3〜4m四方の広めの空間に正面・左・右の三壁に大きな龕が開かれ多数の石像が立ち並んでいる。

像や頭光、周囲の壁は朱や金色等で彩られ、また天井にも大きな蓮華や植物文様がカラフルにあらわされ、一見してさすがに手を掛けられた立派な窟との印象を受ける。


正面の龕は、上部から宮殿内の如く帷幕を垂らし、中央に如来坐像、左右に二弟子(比丘)四菩薩の立像を配する七尊像。



南洞 正壁

左右の龕も同様に等身大の七尊像が並ぶが、こちらは一仏・四弟子・二菩薩の構成となっている。 弟子の数が十になるよう組み合わせたものか。
ただどの像も頭部を欠く。左右の如来に頭部はあるが後捕のものでイメージを損ねているのが残念である。

中尊はいずれも中国式の服装で坐すが、着衣は北魏(後期)の仏像にみられるような厚手のものではない。
左右の中尊の衣には(この地特有の)二本線の衣文がみられる。造像面で三壁中尊とも共通するのが扁平な脚部。上半身に比べ薄くややアンバランスな感がある。

菩薩は各々やや腹を突き出すように直立するが、よくみると正面の四菩薩は、胸飾やX字状の瓔珞を身に付けた伝統的な菩薩と、上半身裸で装飾のほとんどみられない菩薩の組み合わせとなっている。
全般に硬く直立したシンプルな像が多い中、左右龕の特に正面帷幕側の菩薩像は体の量感を感じさせるとともに装飾も豪華、流麗でまた違った感じの像である。



南洞 (向って)左壁

この窟は他にも周囲にビッシリと彫られた刻経など見所もあり、同行のIさんも立ち去りがたい様子。
もっと時間をかけてみたいところだがキリがないので次の窟へ向う。
この辺りが南の端のようで、崖伝いに中央の方へ戻っていく。


[第4窟(中洞)]


第4窟(中洞)入口
  二層の木造瓦屋根の建物がかけられているところが中洞のようである。

建物の中は礼拝空間のようになっており正面奥に本尊が坐す基壇がみえる。

その手前に明り窓のついた窟門があり、左右の壁には正面向きに天王像?が、門柱の内側左右には菩薩像が向い合う形で立っている。
天王像は破損が激しく、紐で縛ったような円筒形の胴部が残るだけで天王像かどうかも確認し難い。

一方の菩薩像は高さ3m近い像で、窟門に向い合う形式は珍しい。
頭部は欠くものの体部は比較的よく残っており、胸飾やX字状の瓔珞を身につけ下半身は衣が体に貼り付き片足を少し浮かせたようにみえるなかなか魅力的な造形。


   

中洞窟門の魅力的な菩薩像               中洞中心柱正面龕

窟門から中へ入ると、内部は幅、奥行とも7〜8m程の大きな空間の中央に柱が立ついわゆる中心柱窟となっており、正面に大きな龕が開かれている。
広い基壇上は中尊坐仏と左右に弟子と菩薩が立つ五尊像形式で、中尊蓮華座の両側に狛犬のような獅子と従者か供養者のような壊れた小像が配されている。
ここの中尊は、頭部はあるが明らかに後捕のもの。
南洞の如来との対比では着衣は通肩と違いをみせるが扁平な脚部は共通。脇侍菩薩は大ぶりでズン胴、ボテッとした感じで、入口の菩薩とは打って変わって出来の方は今一歩の感。ただ、双方衣褶に二条の線が使われているところは共通している。

Iさんが中心柱基壇下の小龕に彫られたレリーフに注目。
よくみると中心柱各面下部に甲冑を身に着けズボンをはいたような西域風の人物像や獣頭の像が並んでいる。
これらは石窟の守護神とみられ、基壇両側の柱を支える怪獣らとともに一つ一つ見ていくのも面白い。

次に左側の北洞へと向う。


[第9窟(北洞)]


北洞入口
  北洞は北斉の文宣帝が最初に造営した窟として知られ、響堂山で最も大きく荘麗といわれる石窟。
外からみて入口上部のかなり高いところに明り窓が3ヶ所ついているので大きさの程が想像される。

内部へ入ると高い天井をもつ巨大な空間に中央に方柱が聳えている。
幅13m、奥行11m、高さ12mの空間に一辺7mの中心柱という大きさで、まさに雲岡にも匹敵する巨大な石窟である。
雲岡が比較的掘りやすい砂岩の岩山であるのに対し、ここは硬い石灰岩質につき相当な難工事であったものと想像される。

一見して、正面龕内のカラフルな光背を背に坐す大仏(如来)や中心柱を取り巻く周囲の列龕、壁面装飾が目に飛び込み、圧倒される感がある。


  

(左) 北洞 中心柱正面及び右手側面     (右) 右手側壁

中心柱正面の龕は、上から垂れる天幕の中に高さ約3.5mの大きさの坐仏中尊と(破損が激しいが)左右に小ぶりの脇侍菩薩が立つ一仏二菩薩の組み合わせ。
中尊は通肩に衣を着け体の厚み、ボリューム感充分な堂々たる像であるが、ここでも脚部が扁平でマッチしない感。北斉期の造像の特徴であろうか。


  

北洞 中心柱正面如来像              北洞 中心柱左手側面

向って左側側面の龕内も一仏二菩薩が並ぶが、通肩の中尊はなんと半跏扶坐スタイルである。
半跏の菩薩は珍しくないが半跏の如来を見るのは初めてである。
龕内向って左の菩薩は頭部を欠くものの肩から下は残りがよく、上半身裸で下半身は遊脚の足に薄手の裳が貼り付くようなインド風ともいえる造形表現。
中心柱の背面には龕は開かれておらず、それを抜けた(中心柱向って)右側面の龕もやはり一仏二菩薩形式で中尊は(足の破損はあるが)通肩の椅坐像となっている。

従って中心柱三面の如来は、いずれも通肩で「正面に坐像、左右に半跏像と椅坐像」という珍しい組み合わせとなる。
通常三面といえば三世仏をあらわすケースが多いが、ここでは坐勢から「一仏二弥勒」の組み合わせという考え方もあるようである。

この龕内で目を惹くのは右側に残る脇侍菩薩。



北洞 中心柱右手の如来と菩薩

響堂山を代表する菩薩像として知られ、肩に掛かる垂髪、裸の上半身と肩から掛かる斜掛け、薄い裳の腰からの折り返しや足への密着感、片足を軽く自然に浮かせた足の表現など全体にバランス感、優雅さを感じさせる見事な造形。頭部欠損が実に惜しまれるところ。
また、中心柱基壇下部には中洞と同様に神王、畏獣や博山炉など中国の伝統的文様があらわされているのも興味深い。


側壁の列龕と壁面装飾
  ここまで中心柱を中心にみてきたが、北洞の特徴はむしろ中心柱を取り巻く周囲の壁面や全体観にあるのかもしれない。

入った際に一瞬目を奪われた左右の側壁に並ぶ列龕と壁面装飾は一種独特である。

側壁には人の背より少し高い位置に龕が横一列に整然と並び、各々の龕の上部は鉢を伏せたような(ストゥーパ状の)覆いがあり、その中央から上に蓮華と火焔宝珠を組み合わせた響堂山独特の文様がレリーフで大きく並ぶように表わされ、これが窟内の薄暗さとも相まって荘重な雰囲気を醸し出している。

これらの龕が各々仏塔をイメージしたことは明らかで、何か深い意味があるのか詳細は不明だが、当地で古くから「北洞は文宣帝が北斉の事実上の創始者である父高歓の墓所として造営した窟」と伝えられているのも頷けるような厳粛、荘重な雰囲気がある。
さすがに北斉の皇帝が開いた壮麗な窟ということがいえよう。


柱を支える怪獣
  列龕内の仏像は後補のものだが、ここでもう一つ注目されるのは列龕両サイド下で柱を支える怪獣の存在である。
跪く両足先を外側に開くところなどをみると、薬師寺金堂薬師如来の台座で柱を支える怪獣にも繋がる源流のようにも思えてくる。

外へ出てあらためて石窟の上部をみてみると、明り窓の上部に大きな伏鉢型の覆いと、更にその上に(かなり風化はしているが)蓮華文様かと思われるレリーフがあり、なんと窟全体で仏塔(ストゥーパ)をあらわしているようである。
その壮大な構想には驚かされるが、思えば最初にみた第1窟の覆鉢と蓮華文様も下の南洞(第3窟)と一体のストゥーパ表現であったことに気づかされる。

また、第1窟は塔であるからこそ窟内に「法華経見宝塔品」の二仏並坐像が表わされていたことにも納得させられる。
これが北響堂山石窟に共通する造形思想というものであろう。


E三洞(南洞、中洞、北洞)の周辺にはいくつかの小窟があるが、いずれも中へは入れず時代的にも後世の窟のようで取り立てて見るべきものはない。

これで一通りの見学は終了。
駆け足で見てきた訳でもなかったが、特にメインの三洞はさすがに見所が多くおそらく丸1日をかけても見飽きないほどであろう。


この三洞を我々は「南洞→中洞→北洞」の順にみてきたが、造営された時代でいえば「北洞→中洞→南洞」と逆になる。
ところが印象でいえば、造像面では、量感のある体躯の如来、上半身(半)裸で薄い衣が体に貼り付き動勢をみせる菩薩など前時代(特に北魏期)ではみられなかったいわばインド風ともみられる斬新な造形表現がまず北洞に顕われ、中洞に引き継がれる一方、後の南洞になるとこの斬新さが薄れ、如来の服装も中国式に変化するとともに全般に伝統的なやや硬い造形に逆戻りしてしまったかのようである。

現代の感覚かもしれないが、造形的に優れたものが先に顕われ時代が進むにつれ後退していくというのはどういうことであろうか。


F興味は尽きないが、見学を終えて期待通りの満足感ともっと見ていたいという気持ちが交錯。
時間は昼過ぎになっていたが、このあと南響堂山の予定も控えているので後ろ髪を引かれる思いで山を下っていく。



.        → 【第2回】



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