法象威儀―彭楷棟先生寄贈文物特展

高見 徹

 

 台湾の国立故宮博物院に初めて行くことが出来た。

 台湾の首都台北市の北西の山麓にパステルカラー の壮大な宮殿建築を擁する国立故宮博物院は、世界一の中国美術工芸コレクションを誇り、フランスのルーブル、アメリカのメトロポリタン、ロシアのエルミ タージュと並んで世界四大博物館の1つに数えられている。

 収蔵品は、およそ70万点ともいわれ、青銅器、陶磁器、書画、絵画、玉器、漆、多宝 格、エナメル、彫刻、服飾等、中国文化を彩るほとんど全ての分野の至宝が集められている。その多くは歴代の王朝が所有していたもので、清王朝時代に中国全 土から収集され、北京にある紫禁城に永く保管されていたものである。

 これらの宝物が現在台湾に伝わる歴史的背景は、よく知れていることであるが、簡単に纏 めておこう。

 紫禁城に永く保管されていたこれらの宝物は、満州事変の際戦火を避けるために、 1933年に、すべて二万もの木箱ケースに詰め、上海を経由して南京の南京博物館(現南京博物院)に送られ、さらに日華事変による日本軍の攻撃で、戦火が 拡大されるに従い、文物も箱詰めにされたまま、南京→長沙→貴陽→貴州→漢中→成都→漢口と、中国内を大移動し、四川省・重慶に運ばれた。1945年、日 本が降伏した際、いったん南京に戻されたが、1948年、共産軍が政権を握ったことから、蒋介石率いる国民党政府により、これらの宝物の中から特に貴重な 収蔵品が選び出され、約三千箱が米国艦船に積み込まれて秘密裏に台湾に移動された。因みにこの時、七千箱が北京の故宮博物院に戻され、残りの一万箱が南京 博物院に残されたと言われている。

 その後1965年、台北の山のふもとに新しく建てられた国立故宮博物院が開館するま で、秘宝は箱詰めにされたまま台中の山中深くに隠されていたという。

 故宮博物院は、2005年4月からちょうど大改装に入っており、本館の約3分の2が閉 鎖されていた。工事は2006年2月までかかるそうで、その間、本館の残りと、別館の図書文献館で展示が行なわれているが、展示内容はかなり縮少されてい る。
 もっとも、通常の展示スペースでも、70万点あると言われる収蔵品のうち、展示されるのは数千点で、3〜6カ月おきに、展示品を入れ替えているものの、 すべて見て回るには、20年以上はかかると言われている。
 展示場所は限られてはいたが、やはり、収蔵品のレべルの高さには目を見張るものがある。収蔵品のーつーつに中国の宮中生活の優雅さをかいま見ることが出 来る。
 特に水墨画、書、工芸品等はさすがに中国の粋を集めた文物が並ぶが、仏教美術品は意外に少なく、特に、唐代以前の物は数点にすぎない。

 しかし、丁度別館で「法象威儀―彭楷棟先生寄贈文物特展」(2004年10月5日〜 2005年9月末日)という特別展が開かれており、300体を越える小金銅仏を見る機会を得ることができた。

 この特別展は、在日台湾人の新田棟一氏(本名:彭楷棟)が半世紀に亘って収集されたも のを、一括故宮博物館に寄贈されたのを記念して開かれた展示会である。
 インド、中国、韓国、日本のものをはじめ、東南アジアのものも含めて、350体に及ぶ膨大なコレクションである。
 新田棟一氏は、若くして日本へ渡り、幾多の苦労を経てビリヤードの名手、映画俳優として活躍し、実業家として成功してから、古美術に興味を持ち、特に小 金銅仏を専門に収蔵するようになったという。
 東京港区の自宅に収蔵品を所蔵していたが、親しい人をよんで見せるだけで、積極的に公開しなかったため、その詳細は余り知られていない。
 貧しい家庭に育ち、少年時代、学校に行けなかった経験をもつ氏は、数年前、教育に役立てて欲しいと新竹市に巨額の寄付を行ったほか、所蔵する全てのコレ クションを、2003年と2004年に故宮博物館に寄贈した。

 新田棟一氏のコレクションの中には、日本の重要文化財に指定されているものも数点ある が、そのうちの小金銅仏一点は北魏時代のもので、ご覧になった方も多いと思う。

 コレクションの中で注目されるのは、五胡十六国時代の二体と、北魏、北斉の年紀を持つ、六体 の像である。

 五胡十六国時代の如来像は、衲衣を通肩にまとい、両手を腹前に重ねて禅定印を結び、方 形台座の上に結跏趺坐する姿に表されている。また、台座前方の両側には護法の獅子、中央には宝相華が表されている。
 これらの特徴は、他の五胡十六国時代の像と共通するものであるが、光背を持つ像に表された、台座のユーモラスな表情の獅子や光背の飛天のリアルな表現 は、他に見られないものである。

 北斉武平元年(570)銘の如来坐像は、面長で微笑みをたたえた面相や服制、特に膝前 に品字形文様を表す点など、止利様式を彷佛とさせる像である。

 北魏、北斉の記銘像は、年号の順に挙げると次の通りである。

 無量寿仏坐像 太和9年(北魏485)像高24cm

 弥勒仏坐像 太和17年(北魏493)像高13.7cm

 二仏並坐像 景明4年(北魏503)像高12.3cm

 弥勒仏三尊像 普泰2年(北魏532)像高22.8cm

 如来三尊立像 天保3年(北斉552)像高20.4cm

 如来坐像 武平元年(570)像高20cm

  

 仏坐像(北魏時代-重要文化財)    仏坐像(五胡十六国時代)     仏坐像 (五胡十六国時代)

 

    

無量寿仏坐像(北魏時代-485)  弥勒仏坐像(北魏時代-493)  二仏並坐像 (北魏時代-503)

 

    

 弥勒仏三尊像(北魏時代-532)  如来三尊立像(北斉時代-552)  如来坐像 (北斉時代-570)

 

 日本の小金銅仏も約20点あり、その中には止利工房の作品と思われる像や、法隆寺献納 宝物に近い白鳳時代の像もある。

 中でも目を惹くのは如来坐像(像高18.8cm)である。本像は、大衣、内衣、僧祇支 を着け、大衣を左肩から背面を通り、右肩に少し懸かって右肘下から腹前、左前膊に懸ける形式や腹前の帯など、法隆寺金堂釈迦如来坐像に近い様式、服制を持 ち止利様式を伝えている。
 二重裳懸座の形式も、法隆寺釈迦如来像の形式を踏襲するが、膝前の衣文はシンメトリーではなく、流れるような表現が見られ、穏やかな面相と共に、やや時 代が下ることを物語っている。法隆寺献納宝物の内、147号像との類似点が多く見られ、特に、膝前の大衣の重なりの処理や、膝下の衣文を品字形に表す点、 二重瞼を表す鏨の陰刻など、写しといっても良いほどである。

 

              如来坐像             如来坐像(法隆寺献納 宝物151号像)       

 

 また、観音菩薩立像(像高36.5cm)は、童顔や特に膝前の衣文の処理などの服制や 宝髻、宝冠の形式などに白鳳時代に共通する様式を持つ。正面に本地仏を表し、左右に三葉のパルメット紋を配した三面頭飾を付ける。宝髻を三束に結い、先端 を左右に膨らませた表現や腰下に衣の折り返しの形式など、法隆寺献物の171号に近い。

 如来立像(像高30.8cm、34.3cm)は、腹前の衣文を左上から右下に流す独特 の衣文を示すほか、螺髪を縄状に表すなど、法隆寺献納宝物献物にも見られる様式を持つ。

   

        観音菩薩立像       如来立像       如来立像   観音 菩薩立像(法隆寺献納宝物171号像)

 法隆寺献納宝物は、橘寺から、法隆寺に移されたと伝えられるが、これらの像も、飛鳥地 方の寺院に安置されていたか、蘇我氏などの有力豪族の念持仏として制作されたものと考えられる。

 藤原〜鎌倉時代の制作と見られる観音坐像 (像高30.4cm、孔雀高63cm)は、大振りの孔雀に座す観音像を表した珍しい像であるが、孔雀の的確な造形や、穏やかな面相など、貴重な金銅仏とし て注目される。

 この他、平安時代の天部立像や鎌倉時代の地蔵菩薩立像、金剛力士像、不動明王立像、毘 沙門天立像など、興味ある像も多い。

 コレクションは、中国、日本に留まらず、夥しい数の新羅仏や、インド、パキスタン、ス リランカ、ビルマ、タイ、カンボジア、インドネシアなど、東南アジアの各地の遺品が集められている。

 国毎に纏められた遺品を眺めると、同じように見える上部座仏教系の仏像も細かい違いが 分って面白い。少なくとも小金銅仏に限って言えば、バンコクの国立博物館の収蔵品を上回る質と量である。

 一代でこれだけの遺品を集めるには、資金力だけでなく、相当な情熱と審美眼が必要で あったことはいうまでも無く、全く頭が下がる思いである。勝手を言わせて頂けるなら、日本の遺品だけでも、日本の博物館に寄付して頂きたかったという気持 ちがあるが、これは日本人のエゴであり、むしろ仏教美術品の厚みの少ない故宮博物院の宝物が一段と充実したことを喜ぶべきであろうか。

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