宮城仏像旅行道中記 (平成14年8月23日〜26日)

高見 徹 

 行程

 8/23(金):東京駅 → 築館町・双林寺 → 花山村
 
8/24(土):古川市 → 天王寺(岩出土町) → 安国寺(古川市) → 仙台市博物館(仙台市)
        → 竜宝寺・大崎八幡神社 → 岩切東光寺磨崖仏 → 陸奥国分寺・陸奥国分尼寺跡
 
8/25(日):仙台市 → 多賀城碑(多賀城市) → 東北歴史博物館 →東光寺磨崖仏(柴田町)
        → 円龍寺 → 大光院 → 福応寺(角田市)
 
8/26(月):角田市 → 自照院(角田市) → 称念寺 → 高蔵寺 → 東京駅
 
(所感)

 8月23日 曇

東京駅 8:00 出発
首都高、東北自動車道共すいており、予定より早めに進行。
佐野SA 9:15 15分休憩
安積SA 10:45 15分休憩
国見SA 11:45 30分食事休憩
築館IC 13:40
 さすがに宮城の大寺。築館ICの出口に大きな看板があった。

 

●双林寺14:00

医導山双林寺 曹洞宗 栗原郡築館町西小山

 寺伝によれば、この寺の前身は、医導山興福寺といい、縁起は天平時代にまで遡るという。
 孝謙天皇の天平宝字元年(757)、天皇が脳を患い、易博士に見せた所、奥州の大杉の木の精が紫宸殿をおかしており、その木を伐るべきであるとのお告げがあった。早速、大納言明公を奥州に下向させ、築舘に大杉を見つけこれを伐ったところ、天皇の病気が平癒した。
 その後、最澄が薬師如来を刻んで安置し、祈願霊場として、比叡山延暦寺の末寺、医導山興福寺として、一時は48坊を数えたという。
 その後、衰退し、双林寺という坊が残っていたのを、天正6年(1578)伊達忠宗の命により、築舘能持寺の林茂和尚が中興したという。
これらの縁起から、古来、杉薬師または杉寺と呼ばれてきた。
 付近は杉の大木が多く、樹齢千年の姥杉が霊木として祀られている。和様、唐様折衷の建物で、江戸時代中期の再建である。

○ 薬師如来坐像 木造 古色 平安時代 像高121.2cm

 薬師堂の本尊。膝前を含め、頭部体部をケヤキの一木から彫出する。胸や肩に豊かな量感を持ち、膝も厚く、平安初期の古様を伝える像である。漆は剥げ落ちて素地をあらわしており、衣文の表面のは摩滅が見られるが、左肩から腕にかけての衣文には丁寧な翻波式衣文が見られ、やはり平安時代初期の特徴を示している。しかし、膝前に衣文線は細かく、形式的になっていることから、製作時代はやや遅れるものと考えられる。東北地方でも古様を示す像として注目される。

○ 二天王立像 一木造 彩色 平安時代 像高119.4cm

 本尊薬師如来像を納めた厨子の前に立つ像で、素地に彩色したケヤキの一木造の神将形の天部立像である。両像とも内刳もなく体躯から邪鬼まで一木で彫成している。両像とも両腕先は別木をホゾで接ぐが、現在は腕先を失っている。共に邪鬼の腰と頭を踏む形に表され、腰を捻った動きを見せるが、体躯はやや抑揚がなく、藤原時代に入ってからの制作と考えられる。

□ 地蔵菩薩立像 一木造 素木 平安時代 像高166.7cm

 延命地蔵尊と伝える。両手は手先を失い、鼻なども欠けており、衣の皺や顔などは磨滅して、黒光りしているが、これは、かつて祭礼の際、手で抱いて練り歩いたためといわれる。衣文は美しく弧をえがいて彫り出されており、平安時代初期の作風を示している。

□ 阿弥陀如来立像 銅造 鎌倉時代 像高48.8cm

 いわゆる善光寺式阿弥陀如来像で、通肩の服製、右手の第二、第三指のみ伸ばした刀印など、善光寺式の通例に倣って作られている。
 安永7年(1778)の「風土記書出」に弥陀如来、金仏にして大宮定朝の作、御長け正面は一尺六寸、脇立二体は一尺一寸と記載されており、当初は阿弥陀三尊像であったことが判る。背面には光背を取付けるためのホゾを鋳出しているが、光背も失っている。頭部体部を含め一鋳であるが、左手は手先、右手は肩から垂下する袈裟を含め、別鋳で接いでいる。

 

 以前に来た時(30年前)は、本尊をはじめとする諸像も本堂にあったが、今は収蔵庫に安置されている。
 いかり型の肩や分厚い胸に、平安時代初期の気風を伝える本尊薬師如来坐像、ユーモラスな表情豊かな四天王、面相や衣文は摩滅しているものの塊状感に平安の息吹を伝える地蔵菩薩立像、いずれも宮城を代表する仏達である。四天王像の足元の邪鬼の表情が無邪気でよかった。
 本尊薬師如来坐像は、近くによると、面相や肩、胸など、はち切れんばかりの量感を示すが、やや離れた正面観は意外な程、細身で穏やかな姿を見せる。写真によっても印象が全く異なる不思議な像である。
 帰り道、参道の脇に並べられた、石仏の三十三観音像を眺めながら坂道を下り、最後に杉薬師の名の元になったという天然記念物の杉を見上げながら、双林寺を後にする。我々に覆いかぶさるように枝葉を広げた姥杉はさすがに存在感があった。

 

        

 

●花山村 15:10

御嶽神社 栗原郡花山村本沢

□ 不動明王及び二童子立像 一木造 彩色 鎌倉時代 像高:不動明王立像153.5cm、矜羯羅童子95cm、制迦童子93cm

 これらの像は、廃寺となった花山寺に伝わったもので、両眼を見開き、口の両端に牙を下向きに表すなど古様を示す像である。衣部に美しい文様や截金が残されているが、後世の補筆の跡も見られる。
 不動明王の右に立つ矜羯羅童子は、蓮茎を持つあどけない姿に表される。左の制迦童子は、右手に金剛棒を持ち睨み付ける姿は、表情も童子らしくユーモアに富んでいる。

□ 蔵王権現立像 銅造 鍍金 鎌倉時代 像高37.9cm

 大和吉野の金峰山蔵王権現よりの分霊と伝えられ、金山信仰に伴い、平安末期より鎌倉期にかけて多く作られたもので、精緻な作風が見られる。昭和22年5月頃盗難にあい現在所在不明である。

 

 雨天であれば、道が悪いため拝観できないと連絡受けていたが、幸い空も明るくなってきたため期待して花山村に向かう。
 御岳神社の所蔵と聞いていたので、御岳神社まで行き、向かいの家で仏像の所在を尋ねたところ、御岳神社ではなく、もっと手前の小学校の並びの華山寺に安置されていた。管理の方は華山寺前で待っていたが、バスが通り過ぎたのを見て、我々が尋ねた家へわざわざ電話をしてくれたそうだ。
 不動明王、二童子像は、見る者をほっとさせる、ほのぼのとした像である。両眼を見開き、口の両端に牙を下向きに表すところは古様であり、怒りの表情も穏やかである。二童子の姿勢や表情も愛らしい。衣の部分には、彩色、金泥による文様が表されているが、当初のものと思われる切金も見られる。
 我々が最初に行った御岳神社のさらに奥に花山寺跡があり、これらの像は本来そこに伝わった像であるが、現在は、収蔵庫を建て華山寺として村で管理しているという。
 管理の方が、文化財に対する若者達の無関心さを嘆いておられたが、花山村もダムに沈んだ村であり、残った若者達に保存の意義を伝えるのは難しいようだ。
 花山寺の縁起が無いかお伺いしたところ、ノートに書き留めた物があるとのことで、花山町役場に同行してもらい、資料コピーさせて頂く。ついでに図書館に寄り、花山村史の文化財に関する部分もコピーさせて頂いた。

 

 

 夕食は、ホテル推薦の北浜(割烹)、コース3500〜のところを3000に値切ったが、庭付きの個室で、料理も創作料理風で凝っておりなかなか良かった。

 

 8月24日 曇時々雨

●天王寺 9:00

天王寺 臨済宗 玉造郡岩出山町上野目(かみのめ)

 葛西・大崎一揆により焼失し、天正18年(1590)より、伊達政宗が覚範寺として再興した。慶長8年(1603)の仙台開府により覚範寺が移転して、旧寺号に復した。

□ 如意輪観音半跏像 木造 漆箔 桃山時代 像高185.0cm

 長い面相に装飾的な高い宝髻をもった個性的な像である。大阪四天王寺像の模刻像であるが、四天王像と同様に伊達政宗の復興時の制作と見られている。
 体内の本尊修理の墨書銘と銘札により、享保4年(1719)には如意輪観音とされていた。

□ 四天王立像 木造 漆箔 一体のみ鎌倉〜南北朝時代、他は桃山時代 像高131.4〜132.6cm

 仁和寺白描四天王図像に描かれる、大阪四天王寺の四天王立像を模刻した像といわれる。いずれも甲冑をつけて直立し、前方を見据えた像で、持物は失われている。四躯は天冠台を彫出し、頭髪を刻まず円頂型としている。

 

 舗装道路から山門に向かう参道は、昔ながらののどかな小道である。
 住職は不在で大学生の息子(僧侶見習)の案内で拝観。細眉にピアスという今風の姿に一同唖然とするが、慣れない説明を一生懸命してくれ、なかなか真面目な好青年であった。
 本尊は如意輪観音半跏像で、脇侍に四天王像を従える。小堂の内陣一杯に安置されている。制作は、南北朝〜桃山時代と考えられるが、大阪四天王寺の像を模したと伝え、法隆寺金堂四天王像の服制に近い、極めて異国風の不思議な像である。
 本堂脇に、来迎阿弥陀如来像を陰刻した板碑がいくつか並べられている。 
 山門の脇には、りんごの木が青い実をつけていた。

 

 

●安国寺 11:30

興聖山安国寺 臨済宗 古川市柏崎安国寺  

 安国寺は、南北朝時代、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めで後醍醐天皇を始め戦没者の冥福を祈り、国家の安泰を祈願するため、利生塔と共に国ごとに一寺を建立したもので、陸奥国の安国寺は、当初、伊達郡の東昌寺が当てられたが、その後、現在の安国寺の場所に移った。開山は京都嵯峨天竜寺の夢窓疎石で、松島・瑞巌寺からこの地に移り。開山したと伝える。その後幾度もの戦火に遭い衰退したが、寛永8年(1626)、伊達二代藩主伊達忠宗の命により、松島・瑞巌寺の雲居(うんご)禅師が中興開山となって復興した。

□ 阿弥陀如来坐像 寄木造 玉眼 漆箔 南北朝時代 像高69.7cm

 肉髻部が低く宋朝様式の影響が認められるが、体躯には適度な量感を持ち、流麗な衣文線も丁寧で、理知的な面相は慶派の制作を思わせる。また、唐草文様を透かし彫りが見事な光背も当初のものである。この仏像は、安国寺創建以来の本尊と伝えられている。

 

 住職(50)の講話を、多彩な趣味の話を含め、30分以上拝聴した。全国安国寺会編の安国寺の本を戴く。
 本堂は、近代的な建物に改装され、畳敷の上に長椅子を設けた今風の様式となっているが、内陣部分は、元のお堂の内部をそのまま残して組込んである。文化財保存という面では、ある意味新しい考え方なのかも知れない。
 本尊阿弥陀如来三尊像は、脇侍は後世のものに変わっているが、透かし彫りの光背、蓮華座共当初のもので、丁寧な衣文線や意志的な面相は、鎌倉時代の正統仏師の手になると思われる仏像である。

 

 

●仙台博物館 11:40

 昼食は博物館内のレストラン。陸奥国分寺の仏像展開催中で、十二神将像と、毘沙門天、不動明王立像が展示されていた。また、東光寺の磨崖仏のレプリカがあった。

●竜宝寺 13:30

恵沢山宝珠院竜宝寺 真言宗 仙台市青葉区八幡 

 竜宝寺は、大崎八幡神社の別当寺である。大崎八幡神社は、八幡太郎義家が大崎、栗原、胆沢の三ヶ所に男山八幡を勧請し祀ったのが始まりといい、伊達政宗が仙台に入城した際に、これを合祀勧請し、仙台城鎮護の神社として、歴代藩主が手厚く保護した。龍宝寺は、伊達家累代の道場であり、伊達家につき従って、大崎八幡神社の別当寺として造営されたもので、仙台藩屈指の名刹であった。

○ 釈迦如来立像 寄木造 鎌倉時代 像高160.3cm

 京都嵯峨の清凉寺釈迦像を模した、いわゆる清凉寺式釈迦如来像である。京都嵯峨の清凉寺釈迦像は、東大寺僧ちょう(大の下に周)然が宋に渡り、印度伝来の像を仏師兄弟に模刻させたもので、その模像は、平安時代末から始まり鎌倉時代に盛んに作られている。この像は、もと栗原郡金成村の福王寺にあったものを、仙台藩4代藩主伊達綱村が龍宝寺に納めたものとされる。福王寺の前は金成村常福寺にあり、常福寺建立にあたり、京都の仏具商から、購入したもので、清凉寺の霊像と同木同作であると言い伝えられている。東北にもたらされた清凉寺式釈迦像の北限にあたる。
 衣の切金文様、両腿の衣文線の形式や、寄木の構造なども清凉寺像を忠実に模しており、鎌倉時代も早い頃の制作と考えられる。
 この仏像には、京三条の金売吉次、吉内、吉兀3兄弟の母が清水の観音さまのお告ではるばる東国に下り、藤太とめぐり会って砂金掘に成功し、長者屋敷を建てた時の仏心から福王寺に祀ったものという伝えもある。

 

 アポ無しの訪問となったが、4月8日及び祭礼しか御開扉しないとのことで拝観できず。
 本尊は、東北地方では数少ない清凉寺式釈迦如来像である。

 

●大崎八幡 14:00

大崎八幡神社 仙台市青葉区八幡4

伊達政宗が仙台城守護のために、米沢の成島八幡を勧請して、慶長6年(1604)から三年をかけて造営した。瑞厳寺とともに桃山文化の最高水準を示すものとして知られている。

◎ 大崎八幡宮本殿 入母屋造 桁行5間梁間3間 桃山時代

 慶長12年(1607)伊達政宗によって創建された。石の間造(権現造)の典型である。石の間は両下造、こけら葺で、正面に千鳥破風を、向拝には見事な軒唐破風をつけている。石の間の格天井には、多数の花や薬草が描かれている。
 装飾の題材には、天人や摩訶羅等の仏教的なもの、猫、蝶、ぼたんお組み合わせの中国風のものなどがみられる。内外とも漆塗り、胡粉彩色が施され、彫刻、金具で飾られ、建物総体の諧調と相まって絢爛たる雰囲気をかもし出して伊織おり、桃山建築の傑作である。
 「慶長拾二年丁未八月十二日造立」の棟札がある。

◎ 大崎八幡宮長床 入母屋造 桁行9間梁間3間 桃山時代

 屋根はこけら葺で、中央入口の上に軒唐破風をつけている。中央に通り土間があり、その両側の室は板敷の床となっている。内部には、彩色された絵馬を飾っている。
 別名割拝殿などとも呼ばれ、本殿の華やかさに比べて落ち着いた様相を呈している。社殿より少し遅れて創建されたもので、長床としては宮城県最古の遺構である。近年解体修理された。

□ 大崎八幡神社石鳥居 高さ5.7m 江戸時代

 寛文8年(1688)に完成したもので、明神鳥居の様式である。岩手県東磐井郡産の花崗岩を用いており、高さは地盤より笠木端まで5.7m。門の幅は、柱下部で柱心間5m、同じく柱上部で4.6mである。明治35年暴風のため樹木が倒れ鳥居が損傷したため、足固めを新しく設け修復した。県下では東照宮の石鳥居に次ぐ古いもので、形も優美である。

 

 本殿修理中のため覆いがしてあり見れず。拝殿である長床だけ見て終了。

 

●東光寺 14:40

岩切東光寺の磨崖仏 仙台市宮城野区岩切

 石造 鎌倉〜南北朝時代

 仙台郊外の岩切にある岩切城跡は、中世のこの地域の地頭であった留守氏の居城であり、その南辺に留守氏ゆかりの東光寺があり、磨崖仏が祭られている。主窟は凝灰岩にうがかれた高さ約2m、奥行約2.5m、幅約3.1mの横穴状の岩窟である。奥壁面、左右の壁面に計七体の尊像が半浮彫りにされている。風化が激しく、尊容も明瞭でないものが多いが、正面には、像高約150cmの薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、左壁には二体の菩薩立像と二体の坐像、右壁には菩薩立像と天部像が彫られている。境内には、鎌倉時代から南北朝時代の板碑が多くあることから、磨崖仏もその頃の制作と考えられる。

 

 境内の左手を登ったところに岩肌に岩窟を設けてある。メインの石窟の前には鉄の扉があるが、鍵はなく開くことが出来た。仙台博物館のレプリカとそっくり(という程、博物館のレプリカは良く出来ていた) 。摩滅がはげしく尊容は明瞭でない。左横の小窟に5尊あり。その他の大きな岩窟には光背の跡がかすかに残るのみ。

 

●陸奥国分寺跡 15:45

 聖武天皇の詔に基づき、天平末年頃までには建立されたものと考えられる。発掘調査により、南大門、中門、金堂、講堂、七重塔、僧坊、鐘楼、経蔵を備えた壮大な伽藍を持っていたことが確認されている。七重塔は、承平4年(934)の雷火により焼失したと伝えるが、九輪、水煙の破片も発見されている。その後、藤原三代の藤原秀衡により保護され、源頼朝の奥州攻めの際の兵火により堂宇を焼失したが、その後を任された千葉氏(国分氏)により保護され、室町時代に天台宗を真言宗に改宗して中興した。現在の薬師堂は、慶長12年(1607)に伊達政宗により、講堂跡に再建されたものである。

○ 陸奥国分寺薬師堂 入母屋造 宝五間 桃山時代

 伊達政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建したもので、慶長12年(1607)に竣工した。屋根は入母屋造、本瓦葺。宝五間、向拝をつけ廻縁をまわす。妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。
 大崎八幡宮社殿とともに、仙台市における桃山建築の双璧である。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。

□ 陸奥国分寺薬師仁王門 入母屋造 三間一戸 桃山時代

 建築年代は、慶長12年(1607)薬師堂造営と同時期とみられる。建物は単層、三間一戸、八脚門、本柱・支柱ともに円柱で、屋根は入母屋造、茅葺きである。木鼻類の彫刻は古式で、慶長時代の雄健な意匠が窺える。長い間、旧態を保持し続けた素朴な門であるが、屋根はたびたびの修理により、やや原形を失っている。

□ 十二神将立像 寄木造 彩色 鎌倉時代 像高:子神将104.5cm、丑神将104.2cm、寅神将107.9cm、卯神将107.6cm、辰神将103.9cm、巳神将110cm、午神将104.8cm、未神将103.6cm、申神将103.9cm、酉神将103.3cm、戌神将104.5cm、亥神将107.6cm

 甲冑を着け、手に武器類を持つ神将形であるが、二体のみは裳のみを纏う仁王風に表されている。それぞれの表情や姿勢に変化があり、彩色が一部に残っている。十二支は江戸中期に補作されているが、地方作として、よく全像がまとまって残っている。 

□ 不動明王立像 木造 彩色 鎌倉時代 像高113cm

 両眼を見開き、左の下牙で上唇を噛み、右の上牙で下唇を噛む。弁髪を垂れ、額には皺を刻み、右手に剣、左手に絹索を持って岩座の上に立ち、火焔光背を背負う。

□ 毘沙門天立像 木造 彩色 鎌倉時代 像高113cm

 十二神将とともに、左右正面に日光、月光菩薩と併せるかたちで、不動明王と揃い配置されている。岩座に立ち、左手に宝塔を掲げ、右手に戟を持つ。小像ながら、風格を持ち、腹前の獅噛を丁寧に彫出している。

 

 茅葺の山門の奥に、礎石が残され、金堂の位置に薬師堂が建つ。

 

●陸奥国分寺16:00

金光明四天王護国山国分寺 真言宗 仙台市宮城野区木の下

 国分寺跡に隣接してコンクリート造りの本堂、多宝塔などが建てられている。デザイン専門学校も経営している様子。本尊は県に預けてあるとのことであった。

 

●陸奥国分尼寺

 前を通過するのみ

 

 夕飯は牛タン屋「利久」。仙台には、牛タンマップがあるほど牛タン屋が多く、ホテルのフロントのお嬢さんの推薦で予約して行ったが、我々が食べ始めた頃には、外に長い行列が出来、帰る時まで全く途切れなかった。仙台で一番人気の牛タン屋か?人気は、牛タン焼き(厚い)、生岩ガキ、牛タン角煮。うまい!

 

 8月25日 晴れ

●多賀城碑 9:15

 芭蕉が涙したと伝える壷の碑は覆堂の中。碑文は印刻してあるが薄くて読みにくい。
 ストロボを碑の真横から照らし、何とか撮影する。

 

●多賀城跡 9:00

 駐車場はあるが、道が狭くてマイクロは入れず。ボランティアのガイドさんがいたが時間が無いためパンフレットだけ頂く。南大門を再建したいとのことであったが、駐車場の整備が先ではなかろうか。
 駐車場から巾の広い石段が続き、登り切った所に広大な政庁跡が発掘保存され、公園化されている。
 最近の調査で、多賀城は軍事拠点というより、政府の官衛としての役割が強く、東北地方の国府として政治の中心であったとされているが、見通しのよい広々とした優雅な史跡を見る限り、砦のような緊張感は感じない。

 

●東北歴史博物館 9:40

 先史の遺物から、昭和40年代の駄菓子屋のセットまで展示されているが、仏教美術関係は、中尊寺金色堂の螺鈿の柱の模造や、華鬘、掛仏程度で、1Fだけのため30分足らずで見終わってしまう。

 

 塩竃港

 今後お土産を買う場所も余り無さそうなので、急遽予定を変更し、塩竃に立ち寄ることにした。松島迄の観光船が出る、マリンゲート塩竃でおみやげと昼食。私は食欲がなく、おにぎり半分を食べただけだが、会長が食べた刺身定食は新鮮で美味しかったそうだ。 12:30出発

 

●富沢磨崖仏 13:30

富沢磨崖仏 柴田郡柴田町富沢

凝灰石の岩盤にいくつかの横穴状の龕を掘り丸彫りの石仏を安置したり、壁面に直接仏像を高浮彫りにしている。いずれも鎌倉時代から江戸時代にかけて彫刻された丸彫の石像や磨崖仏である。中でも、「富沢の大仏」と呼ばれる丈六の磨崖仏が名高い。

□ 富沢磨崖仏 石造 鎌倉時代

 阿弥陀如来坐像は、高浮彫りの像高2.4mの堂々たる像で、定印を結び、蓮華座に坐す。右壁面の銘文により嘉元4年(1306)に、恵一坊、藤五郎によって亡き父の供養のために造立されたことが判る。
 虚空蔵菩薩像とされる4体の丸彫りの坐像は、像高 56〜66cmで、二体は地蔵菩薩、二体は僧形である。二仏の背面の銘文から、永仁2年(1294)の造立であり、この石仏群の中で最も古い年記を示している。   

 六地蔵像はいずれも70cm程の丸彫りの像であり、壁面の銘文には徳治2年(1307)の銘がある。これらの石仏群は鎌倉後期の磨崖仏の基準となる貴重なものである。

 

 田んぼの中を走るが、農道が拡張したり、新しい道路が出来ていたりで最新の地図もあてにならず、やっとの思いで辿り着いた。一番大きな中尊は岩を半肉彫りに掘り出したものであるが、覆堂の中に安置されており、格子戸越しの拝観となる。大きな螺髪に目鼻立ちを大きく表した、堂々たる如来像である。
 覆堂の左側の岩肌を彫り窪めた所に、6体の丸彫り像が安置されている。こちらの方は、簡単なフェンスがあるだけで、中に入ることが出来る。目鼻立ち、衣文などは摩滅しており、表面に苔も生えるなど尊容も明確ではない。

 

●円龍寺 14:00

円龍寺 曹洞宗 柴田郡柴田町入間田

□ 薬師如来立像 一木造 彩色 室町時代 像高:薬師如来 79.4cm、十二神将 約37.9cm

 薬師如来立像は両手先、右肩先、両足先が欠けているが、その童顔ともいえる表情や、素直な身体の表わしかたに特色がある。寺の後山にあったという目連寺薬師堂の本尊で、明治41年に円龍寺に移された。眷属の十二神将の墨書銘から室町時代の制作と考えられる。

□ 十二神将立像 一木造 彩色 室町時代 像高 約38cm

 40cm足らずの小像で、地方的な素朴な像である。うち二体は、阿形・吽形の仁王像の姿に表されている。吽形の像の背面に「応永十二年(1415)八月一日権律師秀竜」と墨書銘があり、本尊を含め、この頃の制作と考えられる。

 

 像を見るのもそこそこに庫裏によばれ、写真をプリンターで打ち出したものを頂き、スイカまでご馳走になった。近年建立された立派な本堂と鐘楼が明るい境内に眩しい。
 やや小さ目の収蔵庫に、指定文化財が安置されている。中尊は、両手先を失うものの、浅く丁寧な衣文線が美しい薬師如来立像。やや上を向いた面相や目鼻立ちも素朴で愛らしい。十二神将像は30cm足らずの小像であるが、いずれも表情豊かである。
 朝鮮半島の夫婦がここに住んでいたという伝説があり、それをかたどったいう木の人形と、リアルな裸像のズイキの人形もお堂の中に安置されている。

 

 

●大光院 15:30

妙高山大光院 真言宗 柴田郡柴田町本船迫(ほんふなばさま)

 柴田氏の菩提寺で、松尾芭蕉が訪れたという言伝えがある。

□ 阿弥陀如来坐像 鉄造 鎌倉時代 文永三年(1266) 像高82.lcm

 もと大日如来、阿悶如来、宝生如来、無量寿如来および不空成就如来の五智如来の仏像が鋳造されたと伝えられており、大日如来を除く4体とも考えられるが、尊容はすべて定印の阿弥陀如来である。頭部から体部側面にバリがあり、砂型の合せ型による鋳造と考えられる。このため、衣文線や表情も明瞭ではないが、切れ長の目と小振りな口元が優しい。
 三体の胸部にそれぞれ銘文が陽鋳されており、これから、鎌倉時代中期の文永3年(1266)船迫地区立石長者の建立であることが判る。古来、村に変事があると鉄仏に汗をかくので、土地の人は発汗阿弥陀と呼んでいる。

 

 住職は居られず、若い息子が鍵を開けてくれる。4体とも赤いずきんとよだれ掛けをかけており、残念。最初5体鋳造したが、1体は身代りに池に沈められ今は4体しか残っていないという。
 いずれも鉄仏で、鉄仏独特の茫洋さが見られる。

 

●福応寺

□ 毘沙門天三尊像 木造 鎌倉時代 像高:毘沙門天立像84.7cm、吉祥天立像48.0cm、善膩師童子立像39.1cm

 本三尊像は、毘沙門天立像上腕部の獅噛や吉祥天立像の髻を覆う薄物の表現など細部まで丁寧にあらわされている。毘沙門立像の緊張感ある姿など、三躯共に的確な彫刻技術がみてとれる。本像は運慶作と伝えられるが、毘沙門天像の表情に誇張が見られることから鎌倉時代後期の慶派仏師の作と推定される。本三尊はもとは石川荘(福島県石川郡石川町)に祀られていたが、桃山時代に現在の地に移されたといわれている。

 秘仏のため拝観叶わず

 

 夕食は近所に最近出来たという「大伊豆」で、刺身、天麸羅、酢の物等の盛り合わせを頼んだが、会長に言わせると、昼の鮪の方がよっぽと美味しかったとのこと。店の人に魚をどこから仕入れているのか聞いても、仲介人に任せているので、どこの魚か解らないと言っていたそうだ。

 

 8月26日 晴れ

●自照院 8:45

自照院 曹洞宗 角田市桜

 千手観音坐像 木造 玉眼 鎌倉時代後期 像高99.8cm 

知性的な視線をもった洗練された像である。頭上の髻の結び方など個性的である。

 

 本尊と八部衆像は、3m以上の高い須弥壇の上に安置されており見上げるような位置になる。脚立を拝借して写真を撮らせて頂く。
 本尊は、珍しい坐像の千手観音像である。左右に配置した42臂のバランスもよく、破綻のない像容や理知的なきりりとした面相は正統な仏師の手になるものと考えられる。全身の金箔もよく残っている。

 

 

●称念寺 9:30

国平山称念寺 浄土宗 角田市枝野大字島大和橋

 室町時代、文明年間(1469〜14861)武州荏原の目黒源兵衛国平がこの地に居館を移し、その子の石見守資平が父の供養のために建立した寺で、磐城・専称寺の良運上人が開山と伝える。
 本尊の阿弥陀如来像は、運慶の長男湛慶作で、本山から賜ったと伝えている。

□ 阿弥陀如来坐像 寄木造 漆箔 鎌倉時代 像高50cm

 寄木造の膝上で定印を結んだ坐像で、眼は彫り出している。螺髪は刻み出しで、彫りは浅く流麗で、平安期の特徴をもつが、小像ながらよくまとまっており、意思的な面相や、頭部を割首にする点など、鎌倉初期の制作と考えられる。湛慶作であるかはともかく、中央の仏師の手になることを十分にうかがえる像である。

 

 事前連絡出来ずアポ無し訪問となった。取り合えず拝観許可となったが、会長が「いい仏様ですね」と言った所、「何が良いんですか?」と詰問され、「美しくて」と答えると、突然、「美しいなどというような美術品的な見方をする人には見せませんよ。先日も神奈川の団体から申し込みがありましたが断りました」と怒られた。「まず焼香をして、20分位拝んで下さい。それから自由に」と言って庫理に戻ってしまった。会長が代表で写真を撮りそそくさと退散することにした。
 帰りがけにお礼を渡し、会長が芝中、高(称念寺の所属する浄土宗の大本山、芝・増上寺の経営する学校)の卒業で、増上寺の高僧とも親しい事をお話すると、「先輩に対し失礼な事を言い申し訳ない」と態度が急変したとのこと。
 本尊阿弥陀如来像坐像は、藤原時代の正統の様式を伝えるもので、鎌倉も早い時期の制作と考えられる優美な像である。

 

●高蔵寺 10:30

勝楽山高蔵寺 真言宗 角田市高倉寺前 

 平安初期、弘仁10年(819)、徳一上人の開山と伝える。冶承元年(1177)、藤原三代秀衡の妻女等により、今に残る阿弥陀堂が建立された。このとき、藤原清衡の一族としてこの地の支配を任された安部氏が、小旦那として建立に関与していたことが知られている。藤原清衡の養女徳姫が建立した福島・願成寺の白水阿弥陀堂と共に、平泉の金色堂の影響を受けた阿弥陀堂の遺構として貴重である。

○ 高蔵寺阿弥陀堂 方形造 方3間 平安時代末期

 治承元年(1177)頃の建立と伝えられ、平安時代に流行した浄土信仰に伴って建立されたもので、本県最古の建築である。方3間、低い廻縁(まわりえん)をめぐらした宝形(ほうぎょう)造、茅葺の素木(しらき)造で、巨大な円柱に単純な舟肘木(ふなひじき)をのせる一軒(ひとのき)の簡潔な架構で、装飾を加えない単純素朴な姿である。「再奥貞享四丁卯年四月吉祥」と「再奥享保十七壬子年十月吉祥日」の棟札がある。

○ 阿弥陀如来坐像 寄木造 漆箔 平安時代末期 像高272.7cm

 高蔵寺阿弥陀堂の本尊で、寄木造に漆箔を施した丈六の巨像である。治承元年(1177)に建った堂の本尊として、翌2年に作られたものと考えられている。当時上流階級で盛んに仏像を造ることが行われたが、これも鎮守府将軍の藤原秀衡と妻が造らせたと伝えられている。後世のものと思われる厚い漆が像容を損ねているが惜しまれるが、偉容には圧倒される。面相は、眉目が切れ長く豊麗である。この像の表情や衣の襞の表わし方は、それまでの優美な感じから、鎌倉時代の強さに変ろうとする時代の作風を示している。透かし彫りの飛雲文が美しい光背も当初のものと考えられる。

阿弥陀如来坐像 寄木造 漆箔 平安時代末期 像高270cm

 高蔵寺阿弥陀堂の本尊の脇に安置される、本尊とほぼ同じ大きさの丈六仏である。右肩部を失うなど破損が激しいものの、木の寄せ方は平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像に代表される、純粋な定朝様を踏襲している。円満具足の面相や、像容も藤原彫刻の特徴をよく示しており、あるいはこの像が当初の本尊であったのかもしれない。
 この他、丈六仏のものと思われる掌も二つあり、往時の隆盛が想像される。

菩薩形像二体 一木造 平安時代 像高90cm

 共に頭部、背板を失うが、体部中央で割り剥いで内刳を行う。体躯は量感を持つが、彫りは粗く、衣文線も簡略化されている。一体は僧形であり、地蔵菩薩像と考えられる。

 

 今回の旅行の目玉である高蔵寺は、本堂の萱葺き屋根の葺き替えを今日から始めるため、足場の組立が始まっていた。工事期間は約1ヶ月。職人さんは宮城県の人だが、鎌倉の円覚寺のお堂も葺き替えたとのこと。まだ20代と思われる若い棒心に聞いたところ、萱は約30年で駄目になるが、手入れを行なっていれば、半永久的にもつとのことであった。
 60代と思われる副住職は、自照院のご住職の話では、元校長先生で歴史の大家であるそうだが、さすがにお話は噛んで含めるような説明であった。
 阿弥陀堂は、写真で見るよりは、大き目のお堂であったが、入るなり内陣一杯に鎮座する丈六の本尊阿弥陀如来坐像に圧倒される。光背は天井を突き破らんばかりである。側面感は、後世の削り直しもあってか面相、体躯ともやや量感に乏しく、盛期の藤原仏とは少しかけ離れているが、正面感は堂々としたものである。
 本尊の右側に安置される同じく丈六の阿弥陀如来坐像は、破損仏ながら円満具足の面相や寄木の木割など、本尊に比べより藤原盛期の形式に近く、本像が本来の本尊であったのではないかとも思わせる。
 堂の左奥に置かれた菩薩形像二体は、頭部及び片腕、背板などを失い、彫りは粗く、衣文線も簡略化されているが、量感のある平安時代の像である。一体は僧形であり、地蔵菩薩像あるいは当地に関係のある高僧(徳一又は慈覚大師)の像であるとされる。

    

 最後に阿弥陀堂の前で記念写真を撮って今年の旅行もピリオドとなった。
 12:00出発

白川IC付近の温緬(ユーメン)屋で白川名物温緬を食べる。見た目よりもお腹にこたえる。

白川IC 13:00
那須PA 14:35
大宮PA 16:30
川口IC 16:40
東京駅 18:15

 来年の再会を誓い流れ解散。運転手さんは、これから一般道を通って郡山まで帰社するとのこと。どうぞお気を付けて。

 

 (所感) 

 今回の旅行では、双林寺に始まる平安初期彫刻の流れと、平泉文化の流れを汲む高蔵寺の諸像を中心に宮城県の仏像を拝観した。

 宮城県には、平安初期に遡る作例は少なく、僅かに双林寺の諸像が挙げられるに過ぎない。双林寺の諸像、特に薬師如来坐像は、岩手黒石寺薬師如来坐像、福島勝常寺薬師如来坐像に代表される、東北の平安初期彫刻の系譜に連なる像である。確かに面相や肩、胸は驚くような厚みを持ち、量感があるが、正面観は意外と細身で、浅く細かい衣文線などからも、平安初期から進んだ様式が感じられる。四天王像二体や地蔵菩薩立像も、福島勝常寺の諸像に通じるものがある。

 藤原時代の作例として、高蔵寺の本尊でない方の阿弥陀如来坐像は正統の藤原様式を伝える像として注目される。この寺の開基が藤原秀衡の妻であることから、白水阿弥陀堂と同様、平泉に招いた京都仏師が直接造像した可能性も高い。このほか、称念寺の阿弥陀如来坐像がやや時代が下るものの、正統な藤原様を示している。それ以外では、平泉地方以外では、藤原時代の早い時期の造像と考えられる像は少ない。

 藤原時代後期から鎌倉時代にかけての遺品は多く、この中にはやはり、東北地方の本来の仏像の系譜に連なるものと、中央様式を伝えるものが混在している。花山寺の不動三尊像は、両目を見開き、牙を下に向けて出すなど古い形式を示す像である。円龍寺の薬師如来立像は、やや上方を向いた面相が優しく素朴な像であり、眷属の十二神将像と共に親しみをおぼえる像である。これらの像は、和様化が一段と進んだ藤原様式を示すが、造形は地方的であり、平泉文化の影響を受けない、本来の東北彫刻の系譜にかかるものである。平泉と同じ時代に制作された像でありながら、独自の様式を保っている事がわかる。

 高蔵寺の本尊阿弥陀如来坐像は、定朝様を伝え、蓮華座、台座とも完備した丈六仏で、藤原三代の祈願になる大寺ならではの遺品であり、側面観や面相などに鎌倉時代の萌芽を感じさせるが、中央の籐末鎌初の像と比べると、やや迫力に欠けることは否めない。

 鎌倉時代から室町時代にかけての像では、中央の様式を伝えると考えられる像も多い。安国寺の阿弥陀如来坐像、自照院の千手観音坐像は、中央様式の片鱗を伝えるもので、また、福応寺の毘沙門天三尊像は、慶派の流れを汲む優作である。福応寺の毘沙門天三尊像は、もと、福島県石川郡石川町にあり、桃山時代に現在の地に移されたといわれる。

 金色堂に代表される、平泉の藤原文化は、奥州藤原氏が中央の文化と全く同じ物を造ろうとし、京都から直接呼び寄せた仏師集団により制作されたもので、それまでの東北文化の歴史とは、隔絶した文化として誕生した。そして藤原氏の滅亡と共に歴史の表舞台から消えてしまったと考えられている。

 宮城県の一部に中央風の様式をもつ仏像が存在することは、平泉に派遣された仏師のうち、藤原氏滅亡の後も当地に残り造像を続けた仏師集団が存在し、彼らによって造られたことも想定される。しかしながら、地理的な要因から見て、平泉以前からの様式の像が宮城県の北部、すなわち平泉に最も近い地方に存在し、逆に中央風の像が南部に多く存在し、福島県を含めた南からの影響が見られることから、平泉文化は、白水や、高蔵寺などの拠点には直接的に影響を及ぼしたものの、それらの及ぼした影響は広がりを見せず、中央からの関東を通じて流入した文化の伝播の流れに溶け込んでしまったと考えるのが妥当ではないかと思われる。


inserted by FC2 system