辺境の仏たち

高見 徹

 

第十話  岩手・松川二十五菩薩堂の藤原仏

   
 松川の街の中心地に近い旧小学校の校庭の脇に収蔵庫が建つ。小学校は門柱に「元松川小学校」とあるが、最近閉校になったばかりらしく、体育館や校庭の遊具などはそのままの形で残され町の公民館として利用されている。

  江戸時代の古文書『仙台封内名蹟志』に、松川にあった大飛閣の上棟文に、御奈良天皇の天文11年(1542)に、奥州惣奉行葛西氏の重臣横沢重持により再 建され、堂内には二十五菩薩が安置されていたが、昔の御堂は無くなり仏像や上棟文は村の民家にある、と記されているが、それ以前の由来は不明である。
 現在の二十五菩薩堂は、江戸末期に再建されたもので、昭和9年に現在地に移されたという。

  コンクリート造の収蔵庫は、昭和44年に建立されたもので、収蔵庫の中は正面と左右の三面がコの字型にガラスで仕切られた棚が造られている。正面に等身大 の阿弥陀如来坐像が安置され、その回りは全て二十五菩薩像のうち二十四体の菩薩像や飛天で埋め尽くされている。二十四体の菩薩像は、全て頭部を失ってお り、剥ぎ目も緩み、朽損も激しく、両腕を失なって残欠に近い状態になった像も多い。
  しかし、一体一体を見ると胸元に表わされた花の文様の飾りや裳裾の文様など精緻で、優美でしなやかで体躯を持っている。特に坐像は片膝を崩し腰を捻った自 由奔放な姿態を見事に表現している。ややのけぞって身体を休めているのであろうか、膝やすねに纏わり付く裳の表現も心憎いばかりだ。
 しばらくの間、頭や手足が無いことを忘れて見とれてしまうような美しさである。
 細かく見ると、木彫の表面に薄く乾漆を置いて細かい麻布を貼り、その上に漆箔を施したあとが所々に見られる。

 西洋では頭部や手足などを失った彫刻をトルソと称し、失なわれた部分の想像力をかきたてるが故にその美的効果が高められるとも言われ、自らギリシア彫刻の断片に魅力を深く感じとっていた彫刻家ロダンは、意識的にトルソの彫刻を制作したという。
 奈良・唐招提寺に伝わる如来立像は東洋のトルソと称されるが、松川の二十五菩薩像もそれを凌ぐ仏像群と言えよう。

  ガラス扉の下部は収納棚になっており、その中には、夥しい数の仏像の手足や頭体部、蓮弁・台座等の部品等、それに混じって仏像の頭体の断片などが並べられ ている。二十五菩薩像に付帯する部品以外にも多くの仏像の残欠が見られる。そのまま組合せても何体かの仏像が復元出来るのではないかと思うほどだ。
 これだけのパーツを保管し後世に大切に残してきたのには、人並みならぬ苦労があったものと思われる。

 収蔵庫の裏手には、二十五菩薩堂のささやかな小堂が草むらに囲まれて建っている。
 二十五菩薩像は、かつて村人が大雨の翌日、川に流されていたのを丁寧に拾い集め、このお堂に収めたとも伝えられるが、長年にわたりこの小さなお堂に残され護られてきたのかと思うと、その努力と苦労に心打たれる思いがする。
  これらの像は一説には、松川が陸奥の金の出荷場として重要な位置にあり、この地を治めた平泉藤原氏の一族が建立したとも言われるが、東北の他の尊像とは一 線を画す洗練された藤原盛期の本格的な造像であることから見て、都から来た一流の仏師によって制作されたことは間違いなく、平泉文化の中心をなす寺院に安 置されていたものが、後世松川に伝わったと考えるのが自然ではないかと思われる。

 

 

二十五菩薩像

  飛天   

 

 松川二十五菩薩堂 岩手県一関市東山町松川字町裏の上  JR陸中松川駅または岩ノ下駅からバス松川公民館下車

 


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