【その5】


 【行 程】 2011年7月22日〜8月1日

7月22日(金) 羽田空港→北京空港→西安(泊)
7月23日(土) 西安→天水(泊)
7月24日(日) 麦積山石窟→天水(泊)
7月25日(月) 大像山石窟→拉梢寺・水簾洞→武山(泊)
7月26日(火) 武山→蘭州(泊)
7月27日(水) 炳霊寺石窟→蘭州(泊)
7月28日(木) 蘭州→固原(泊)
7月29日(金) 須弥山石窟→王母宮石窟→南石窟寺→平涼(泊)
7月30日(土) 北石窟寺→彬県大仏寺→西安(泊)
7月31日(日) 西安(泊)
8月 1日(月) 西安空港→北京空港→羽田空港





黄河上流域 石窟の旅 行程図





【その6】



Z.7月28日(木)

中国入りして一週間、朝から胃腸の調子がよくない。

石窟見学は事実上この日が最後につき、大事をとって朝食も控えめにする。 この日のスケジュールは、川の北部慶陽市にある北石窟寺から陝西省彬県の大仏寺を見学し、夕刻までに西安市内のホテルへ入る予定である。
移動距離にすると300qは超えるものと思われる。

中国での移動は時間が全く読めないので、朝は早めの7時前に出発する。
途中、慶陽の石油化学基地の前の道路があまりにひどいぬかるみで進めないので、これを迂回しようやく10時半に北石窟寺門前に到着。

北石窟寺は麦積山、炳霊寺とともに出発前から期待していた石窟の一つで、できれば写真も撮りたかったが、受付で「石窟内も敷地内も写真撮影不可。
100元支払えば外の撮影のみ可」といわれ早々にギブアップ。



北石窟寺 正面門前より

北石窟寺は509年北魏宣武帝期に州刺史奚康生によって開鑿開始され、周辺に点在する小規模な石窟を含めシルクロード北路の重要な石窟の一つとして清代に至るまで造営、修繕が続けられてきたとのこと。

門前すぐ前の岩山には蜂の巣状に石窟、小龕が穿たれ、ほぼ正面にズングリした二体の天王像が立っている。
この両天王像の間の入口より中に入ったところが北魏代開鑿の第165窟である。


[165窟]

内部は驚くほどの巨大ドーム空間で、横幅22m、奥行16m、天井の高さは14mという。


参考図版:同 第165窟 壁に並ぶ仏像群
  壁の周囲には高さ8mの7体の大きな如来像が立ち、昨日みた南石窟寺第1窟とそっくりそのままといいたいところであるが、全くスケールが違う。
如来像の足元に立つと重量感に圧倒されそうである。
砂岩質の岩とはいえこれだけの物を掘り出すのにどれほどの労力と時間を要したか想像を絶するものがある。

造形状の特徴は、全般に大づくりで、個性的(やや田舎的)面貌、頭部過大のプロポーション、螺髪がなく、中国服の厚手の衣を重ね胸前に結び紐を2ヶ所あらわすところなど、南石窟寺の像とほとんど共通する。
なお、像の彩色は元代に塗り直されたものであるらしい。

南石窟寺とは、如来の間に菩薩を配し入口側壁面に交脚、椅坐の弥勒菩薩像を配するのもほぼ同様だが、ここで興味深いのが窟門両サイドの二体の像。



参考図版:同 入口左右に興味深い像が並ぶ

入口右(南)に騎象半跏の菩薩像、左(北)に三面四臂の阿修羅像が岩より彫り出されており、これは南石窟寺では見られなかったもの。
象に乗る菩薩といえば通常普賢菩薩であるが、普賢とすれば中国でも最も古い貴重な作例とのこと。

  
参考図版:同 騎象半跏像               参考図版:同 阿修羅像


ただし、昨年訪問した雲岡第9窟の明り窓にも騎象像があったがこれとの関係はどうであろうか。
一方の阿修羅像も頭部が著しく大きく体部も丸々としており、我々が知る興福寺や敦煌249窟の阿修羅像とは似ても似つかない像の形。
手に金剛杵を持ち、上にあげた左右二本の手は円盤状のものを持っているので、これは日、月をあらわすものか。
下半身は風化気味だが結跏趺坐しているようにみえる。
像としては大変に興味深いが、なぜ普賢菩薩と阿修羅が各々単独で入口に配されているのか(何か意味があるのであろうが)よくわからないところ。


[240窟]

240窟は北周代に開かれた5m四方くらいの方窟。

正面に釈迦が坐し、両側に脇侍菩薩が立つ釈迦三尊像。
向って右側の壁に弥勒三尊、左側には薬師三尊の三壁三尊構成。
中央の釈迦は頭部のみ北周代で首から下は明代修復、脇侍菩薩は清代修復と説明されるが、どこがどうかはよくわからない。
薬師といわれた像も後代のものであろうが、
「右手に持つ小さい棒で左手の椀(薬椀?)を叩くような格好をしている」
と須弥山第1窟の薬師像と似たような説明を受ける。


[222窟]

北石窟寺の石窟の7割は唐代の窟であるらしいが、ここは唐代、初唐期の窟。長方形、伏斗式天井の洞内正面に像高4mの弥勒椅坐像、両脇に2弟子、2菩薩が立つ。

いずれも頭部が大きい特有の造形。
中尊はタレ目で何やら難しそうな顔つき。
左右側壁には阿弥陀五尊か七尊の小仏龕が上下4層に並び、全体で浄土の情景をあらわすものとのこと。

できればゆっくり見たいところであるが時間も限られているので、主要窟を一通り見たところで切り上げ、次の彬県大仏寺へと向う。


甘粛省慶陽から陝西省へは一般道での省越えとなるので道路付けがよくないとは思っていたが、実際行ってみると生半可なものではなかった。
省境近辺の峠はひどいデコボコ道で、車のサスペンションもよくないので乗り心地は最悪。
途中、車も越えられない大きなマウンドのようなところでは全員降車してようやく越えることができたほどである。
道中揺られっ放しで難渋したが、およそ3時間半でようやく彬県大仏寺に到着する。


彬県大仏寺はもともと唐の太宗李世民が628年に建立した寺院で、岩山の断崖に100を越える洞窟が並んでいる。

石窟、造像は主に唐初から唐文宗期までの約200年間に造営されたとのことで、その中心部に大仏が鎮座することから大仏寺と呼ばれている。
この地域は西安、咸陽にも近いためか観光客も数多い。


[大仏洞]

門を入ると正面に広場がありその奥の崖手前に五層の大きな楼閣がそびえ、スケールの大きさを感じさせる寺院である。



大仏寺正面 大仏洞楼閣

この楼閣の第2層のアーチ門を通って行くと、いきなり大仏の頭部が真正面に現れビックリさせられる。
窟の内部は半円筒形のような形状の洞窟になっており、上から見下ろすような視線になるが、中央に像高20mの阿弥陀坐像、左右に高さ18mの二体の菩薩像が立つ。


大仏寺 阿弥陀大仏
  いずれも石胎塑像のようであるが、ともかくデカイ!。
阿弥陀仏は濃い眉に大きな目で正面を見据えエラが張るようないかつい感じの顔つき。
唐代早い時期の作といわれるが、相当後代の修理も入っているのであろう。
螺髪をつけた頭部は青く塗られ顔や体部も彩色が施されている。
対する両脇の観音、勢至菩薩像は頭冠をつけ、穏やかな表情でややうつむき加減に立っている。

目をひくのが大仏光背のレリーフ。
唐草文様の頭光の外周に七仏、火炎紋、その外側に多数の伎楽天、飛天らが舞う見事なもの。
脇侍菩薩の光背もなかなか精緻で見応えがあるが、距離が遠いのが難点。洞内壁面には他にも多くの小龕、千仏表現もみられ、窟全体で西方極楽世界をイメージするものであろう。


[千仏洞]

千仏洞は大仏洞の向って左(東側)にある。


千仏洞入口
  天井はさほど高くないが、大きな中心柱のような壁を周囲の壁が取り囲む構造のようで、千仏洞という名の通り洞内に沢山の仏龕、仏像が彫り出されている。
中心柱正面の壁、上下二段の諸像は上が塑像で下が石彫とのことだが、上段中央の弥勒椅坐像が脇侍仏も含めて仏らしくなく違和感を感じていたところ、ガイドの説明で当初唐代のものを明代に修復する際道教風に手直しされたことがわかる。

暗い洞内を奥へ進んでいくと、両側に2m位の仏像が立ち並び一つ一つ懐中電灯で照らしていくが、惜しいことに顔(面部)はほとんどの像が毀損している。


千仏洞・優美な盛唐期の三尊像
  唐の16代武宗の代(845年、会昌の廃仏時)に破壊されたとのことで、残念ではあるが、これらの像の造形には目を見張るものがある。

どの像も流麗な衣文線に、腰高でスラリとした立ち姿、かつ体の動勢も感じられ優美この上ない。

まさに盛唐期の典型的な造像を実感する。

左手で衣を持つガンダーラ風通肩姿の東壁の如来立像も美しいが、なかでも体をS字状にくねらせ腹を突き出す女性的とも思える西壁の脇侍菩薩像は感動もの。
ここでは、爛熟した盛唐期の自由奔放な造形を堪能することができた。


[羅漢洞]

次に案内されたのが大仏洞右(西)の羅漢洞である。

時代的には大仏洞、千仏洞より少し遅れ、唐代後半から宋代にかけての造像が多いとのこと。

主尊は、(頭部を欠失した)釈迦像を中心に両脇に弟子、菩薩、天王、力士が立つ。


羅漢洞 騎獅文殊像
  注目は東側入口近くにある騎獅文殊像である。
北石窟寺の騎象普賢も単独像であったが、こちらも単独であらわされている。
高さ2m位の石像で、丸々と太った獅子の上の蓮台上に文殊菩薩が坐し、獅子の横には従者、崑崙奴があらわされている。
唐代宗期の題記(777年)のある貴重な像だが、獅子の顔面がやや毀損しているのが惜しい。
この窟は他に仏像、仏龕も多いが、千仏洞を見たあとだけに他に目をひく像もない。
また、羅漢洞というが羅漢像がほとんど見られないのは不思議といえば不思議。


これにて予定の石窟見学を終了し西安に向け大仏寺を出発。

高速に入り夜8時少し前であったか西安のホテルに到着する。
日中の天候はまずまずであったが夜になって雨が降り始める。

帰国は明後日であるが、石窟見学が無事終了したのでここからはさほど天候を気にすることもない。



].7月31日〜8月1日


7月31日は、終日雨の中、兵馬俑博物館、陝西省歴史博物館を見学。


翌8月1日に帰国の途に就く。



≪雑感≫

取りとめもなく綴ってきたが、あまりにも数多くの石窟を訪れたので頭の整理を兼ねてそれらを時代順に並べてみると概略以下のようになる。





こうやってみてみると、中国で最も古いといわれる西秦代の仏像が残る炳霊寺を筆頭に、これに続く北魏代に創建ないし造像された石窟が目立つ。

西秦はトルコ系鮮卑族の国で、北魏も同じ鮮卑族拓跋氏が建てた国。
西秦が炳霊寺を創建し、北魏が雲岡、龍門を開鑿、同時に敦煌、炳霊寺、麦積山等でも数多くの仏教遺産を残してきたことで、あらためて「中国の代表的石窟はほとんどが鮮卑族の所産」ということに気づかされる。


最後に、今回訪問した石窟について、自分なりのまとめとして中国仏教造像の流れの中での特質を考えてみたい。

【1】西秦建弘元年(420年)の題記を持つ炳霊寺169窟の仏像は、薄い衣の下から体の線や両脚の膨らみがあらわされ、西域伝来のインド・ガンダーラ風が色濃い。


【2】麦積山も5C前半の開鑿といわれ当初は西方の影響を受けた造像が行われたと思われるが、唐開元22年(734年)の大地震で崖面の中間が崩れたことにより現存する最も古い像は北魏代初期のもの。

今回見学した中では74窟がそれで、素朴な造形ながら丸みのある顔、目が大きく、広い額から真っ直ぐに通る鼻筋、右肩にもかかる偏袒右肩、胸を張った堂々とした体躯の像は雲岡曇曜5窟の像と共通のもので、ほぼ近い時期の造像と思われる。

また、偏袒右肩の中には、炳霊寺169窟でもみられた右肩から肘の先までを袈裟の一部で覆う変則的な偏袒右肩スタイルの像もあり、西秦代の延長線上の造形も感じられる。


【3】西方から伝来したこれら「涼州様式」が北魏皇帝による強制移住政策等により中原にもたらされ雲岡造営に繋がったことはよく知られているが、“雲岡第一の偉観”といわれる第6窟をモデルに造られたのが王母宮石窟であり、須弥山石窟の初期窟も同じ太和年間(477-499)に開鑿されたといわれている。

麦積山、炳霊寺が長安―涼州を結ぶ中国シルクロードのメインルートにあるのに対し、王母宮、須弥山は現在の寧夏自治区を経由して双方に至る北辺のルート上にある。
造像様式については、それまでの西から東への流れとは逆に、この頃には東(中原)から当地域へ波及したものと思われる。


【4】如来の着衣は雲岡第6窟の一部造像を皮切りにそれまでの西方式の通肩ないし偏袒右肩から中国服への変化が出てくることになるが、(今回須弥山では北魏窟は見学できなかったが)王母宮では如来は一様に中国服を身に着けていた。

6Cに入り龍門石窟が開かれ全盛期になると、仏像は漢民族風の褒衣博帯、痩身の秀骨清像へと変化しこの影響が遠く炳霊寺(126,128,132窟)にも及んだ。

また北辺ルートでも北魏の武将による発願で北石窟寺、南石窟寺の大石窟が開かれたが、ここでの仏像はやや地方色豊かな独特の造形を示すのが特徴。


【5】この時期、比較的中央に近い麦積山では大型窟が開かれ、133窟に代表される優美な造像が行われた。
この傾向は続く西魏代に更に発展し、ある意味龍門とは異なる多彩で魅力的な造形が花開いた。

その一つの例が133、135、44窟等でみられた装飾的な裳懸座の表現で、衣の裾を台座に長く垂らし先端を丸く立体的にあらわしたり袈裟の内外にフリルや縞を表現するなど、衣褶による装飾的効果を最大限高める工夫がなされている。

工人(仏師)の強い意志を感じるが、これは仏像が体の線を意識する古い時代の造形から厚い中国服で体部が隠された結果、関心が衣の表現に向ったことを意味するものか。

ただ、志向したのは衣の表現だけではなかったように思われる。
特に西魏代の“東洋のモナリザ”44窟の如来坐像、123窟の童子・童女像などの繊細、優美な造像表現は、“仏像”を超越したかのような格調高い完成された美しさが感じられる。
このような「形式美」に「内面美」が加わった見事な造形は一体どこから来たものであろうか。


【6】麦積山では次の北周期にも絶壁上に「散花楼」と呼ばれる荘麗な上七仏閣が造られ絶頂期を迎えた感があるが、この時期は北辺ルートでも須弥山51窟、拉梢寺のレリーフ等、大型の造像が行われ、仏教信仰が着実に広まっていったことが想像される。


【7】今回の石窟見学では多くの大仏との対面も特筆されるが、これら大仏はこの頃から隋・唐代にかけて数多く造立されたことがわかる。






これらは仏教の庶民層への浸透と軌を一にするものと思われるが、意外に弥勒像が多いことがわかる。

勝手な推論だが弥勒は我々が考えるように56億7千万年後にこの世に現れ人々を救済する存在というより、当時の中国では(死後も含め)身近に救済してくれる存在として信じられていたのではあるまいか。
いずれにしてもこのように巨大なものを山崖に造立する労力、技術、財力、そして苦労、苦難は並大抵のものではなかった筈である。
石窟の諸仏も含めこれらが千数百年間天災や破仏の嵐を乗り越え、現代にまで継承されてきたことは感慨に堪えないものがある。



≪最後に≫

敦煌、雲岡、龍門、麦積山、炳霊寺の五大石窟訪問は永年の夢であった。

今回幸いにしてその夢がかなえられ中国石窟の全体像がおぼろげながらも実感できたことで、今後日本、あるいはインド、中央アジアの仏像を見る上での視座のようなものが自分なりに得られたように思われる。

海外への旅行は常に危険と隣り合わせではあるが、中国は、我々日本人からすれば日中の微妙な政治上の関係のみならず、現地でも治安、衛生、交通事情等々懸念も少なからぬところである。
交通といえば、今回旅行中偶々であるが、予て日本の技術供与を巡り争点になっていた中国版新幹線車両衝突事故のニュースがあったが、これはまさに我々が西安―天水間の列車を利用した日の出来事であった。
今回は、メジャーな観光ルートから外れた不案内な地への旅行であったが、幸いにもほぼ当初のスケジュール通り目的地を巡回することができ、そして何よりも4人全員無事に旅を終えることができた。

また、ここ数年の旅行を通し、現代中国の着実な経済発展とその負の側面、中国人のモノの考え方等を肌で感じる貴重な機会ともなった。
旅行の企画から現地での折衝に至るまで全面的に面倒を見ていただいたKさんをはじめ、同行のIさん,Sさんにも感謝せずにはいられない。

心よりお礼申し上げる。

(了)


【その5】

 


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