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 【行 程】 2011年7月22日〜8月1日

7月22日(金) 羽田空港→北京空港→西安(泊)
7月23日(土) 西安→天水(泊)
7月24日(日) 麦積山石窟→天水(泊)
7月25日(月) 大像山石窟→拉梢寺・水簾洞→武山(泊)
7月26日(火) 武山→蘭州(泊)
7月27日(水) 炳霊寺石窟→蘭州(泊)
7月28日(木) 蘭州→固原(泊)
7月29日(金) 須弥山石窟→王母宮石窟→南石窟寺→平涼(泊)
7月30日(土) 北石窟寺→彬県大仏寺→西安(泊)
7月31日(日) 西安(泊)
8月 1日(月) 西安空港→北京空港→羽田空港





黄河上流域 石窟の旅 行程図





【その4】



Y.7月27日(水)

前日に続きこの日も朝から晴天が広がる。

現地旅行社への支払上、朝一番に銀行に立ち寄り外貨両替を行った関係で、8時30分出発の予定が9時40分頃となってしまう。
中国では何かにつけ計画通りにはいかないものである。

炳霊寺石窟は蘭州の南西約100qの地にあり、まず陸路黄河上流の劉家峡ダムへ向い、そこでボートに乗り換え河を遡上するルートをとる必要があり、往復で丸一日がかりの行程である。

市街地を出て大きな石油化学コンビナートの横を通過し一般道を走ること約2時間で劉家峡ダムに到着。
劉家峡ダムは1974年黄河を堰き止めて治水と発電を目的に造られた巨大なダムで、長江の三峡ダムができるまでは中国一の発電量を誇ったという。
ここで昼食を済ませ、12時30分頃ダムサイトの船乗り場より高速ボートで炳霊寺へ向う。
ボートは7人乗りで、我々の他に同じく炳霊寺見学に来たホセというチリ人の男性が同乗。
彼はスペイン語の他に英語、中国語を話し、自己紹介によれば歴史学者のようである。

ボートは満々と水をたたえたダム湖を猛烈なスピードで走り出す。
水を叩くように疾走するので窓を開けていると水しぶきが凄い。

  
ダム湖を疾走するボート                ボートからの風景


湖の水はダムに近いところは青く澄んでいるが、上流に進むにつれ途中の支流(本流?)から土砂を含んだ濁水が流れ込み徐々に浅緑色に変ってくる。
湖の両サイドを見れば、低い山の連なりが次第に険しくなり、更に奥へ進むと茶褐色の岩肌も露わな、先が天に突き出たような奇岩、奇山の連続となってくる。


炳霊寺石窟 船着き場付近
  人影どころかおよそ生物が住めるような感じのない幻想的風景の中、蛇行した先の入江に船着き場が見え、ようやく炳霊寺へ到着したことを知る。

時間は午後1時30分。ダムより約55分の行程であった。

 
この辺りは海抜2,000mとのことで日差しは強烈で暑い!

夏の太陽が照りつける中、「さあこれから(見学)」と気合も入るがボートの運転手が1時間後に乗船してほしいという。
特別窟の見学も予定しており1時間では心許ないので1時間半の見学時間をとってもらう。

入口で入場料50元と特別窟見学料530元を支払う。
麦積山では特別窟はグループ単位での料金設定となっていたが、ここは一人当たりの設定で、特に炳霊寺目玉の第169・172窟は一人@300元と極めて高い。
足元を見られている感なきにしもあらずだが、ここまでくれば言い値通り支払う他ない。
入ろうとすると40歳代(?)の女性の売り子が寄ってきて石窟のガイドブックを売りつける。
見ると写真も豊富に入っているようである。
麦積山ではこの種ガイドブックが売られておらず残念に思っていたので「あとで」と制して入場する。


炳霊寺石窟は五胡十六国時代の西秦(385-431)の頃から造られ始め、北魏、北周、隋、唐代の造像、元、明代の修理・化粧を経て今日に至る。

中でも、天然の洞窟を利用して造られた第169窟は「西秦建弘元年」の墨書銘が残り、中国の石窟の中でも最古のものとして知られている。
この辺りは中国と西域を結ぶ古代シルクロードの通り道となっており、長安から天水を経由しこの地で黄河を渡り河西回廊に至るのがメインルートで、インドへの求法の旅で有名な法顕も399年頃この地西秦国に滞在していたらしい。
その頃、麦積山もともに僧達の禅観修行の場となっていたようで、ほぼ同じ時期に開鑿が始まったといわれている。


桟道を奥へ進む
  麦積山が塑像主体の石窟であるのに対し、炳霊寺では最初期の窟を除き石の彫像が中心となっている。


現地の女性ガイドに引率され川に沿って奥へ進むと、左手の崖に窟龕が並んでいるのが見え、ここから桟道沿いに番号が書かれた窟龕の見学が始まる。


[3窟]

唐代の窟。
方形の窟中央に寺院建築を模した石塔が立ち、向って左の壁龕内に椅像を中尊とする五尊像が、上部の小龕に七尊像が配されている。
正面の壁にチベット密教風の絵がみえるが、これは明代に描かれたものとのこと。



第4窟内部
  [4窟]

ここも唐代の窟で、正面に仏椅座像と二弟子の三尊像。

椅坐像は右手を膝に置き左手で鉢のようなものを持っている。
ここの像は頭が比較的小さくプロポーションが良い。

盛唐期の像であろうか。



[6窟]

正面に仏坐像が1体。
さざ波のような衣文線の衣を通肩につけ、低く平らな肉髻に頬の膨らんだ丸顔、オチョボ口の変わった感じの像である。
ここは北周期の窟とのことだが、麦積山でも見かけなかったやや個性的な像で印象に残る。


[17窟以降]

桟道横の壁面上下に、縦、横2〜3mの間口を開いた唐代の窟龕が所狭しと並んでいる。

  
桟道脇の仏龕


  
桟道脇の仏龕


龕内中尊は坐仏か左手に鉢を持つ椅坐像が多く、ほとんどが1仏2弟子2菩薩の五尊像または2天王が加わった七尊像。
龍門でもよくみられる特に唐代の典型的な配置であるが、日本では中尊の左右に二弟子を配する例はほとんど見かけない。
唐代の仏教を受容した筈の日本にないのはどういう訳であろうか。
また、これら龕内の壁面には草花、樹木、流雲等が鮮やかな色彩で描かれ唐代の華やかな雰囲気が感じられ一様に美しい。



第125窟 二仏併坐像
  [125窟]

その先、桟道より一段低くなったところの龕内に、痩身で少しエラが張ったような北魏期特有の顔つきをした二仏併坐像があった。

外部に露出する龕でもあり二仏の膝から下が風化しかかっているのが惜しい。



[126窟]

ここから北魏代開鑿の特別窟が三つ続く。

チケットを見せて扉の鍵を開けてもらう。
内部へ入ると、暗く冷んやりとした空気の中、正面に像高2〜3mほどの釈迦、多宝二仏併坐像が左右に菩薩を従え懐中電灯の光に照らし出される。
まさしく北魏仏との対面である。


参考図版:第126窟正壁の二仏併坐像
  向って右側の多宝仏が左の釈迦に(宝塔に招き入れるかのように)手を差し伸べる姿があらわされている。
内部の広さは3〜4m四方で、左(南)、右(北)の壁には各々仏坐像と二菩薩、交脚菩薩と二菩薩が配され、三世仏を主題とする三壁三尊形式の造像。

中尊はいずれも2m位の高さで、漢民族式の衣を身に付けた北魏期の典型的“秀骨清像”。
正面の釈迦、多宝の服装は衣の襟が立っているのでわかりやすいが、内衣の上に2枚の衣を羽織っているようである。
ともに右足先を衣の外に出し台座にかかる衣褶は外に広がって円弧を重ねたような装飾的な表現となっている。
右足の先を衣の外に出すのは麦積山でも北魏窟、西魏窟でもみられたが、ここの垂下した衣の先の装飾表現は法隆寺釈迦三尊像の裳懸座を連想させる。

右側の壁の交脚菩薩も中国風の像で、頭に烏帽子のような冠を被る宮廷役人風にあらわされ、クロスした脚は地面につかず宙に浮いているようであり、何よりも中国服に交脚は似合わない。
仏の衣、光背部、周囲の壁面には濃緑系の彩色が残っているが、全般に窟内は黒くクスんでおり、天井のレリーフや壁画もあるようだかよくわからない。


[128窟]

釈迦、多宝の二仏を主尊とし左右壁にも三仏を配する構成は126窟と同じ。
ただし、右壁は交脚像ではなく坐仏となっている。

規模、内容、造形とも126窟とほとんど変わらないが、どういうわけか内部の傷みが激しい。
126窟にみられなかったところでは、窟内入口上部のレリーフ。
七体の如来像が横一列に並びその右端に半跏思惟像と供養者の像がみえ、過去七仏との説明がある。
そのすぐ上段にほぼ同じ大きさの六体の坐仏が並んでいるのでこれは何かと質問するが、ガイドもよくわからないとのこと。


[132窟]

参考図版:第132窟交脚像
 
ここもほとんど同規模、同構成の窟だが、向って右側面には126窟同様交脚菩薩が彫られている。

注目されるのは、クロスしたその足元を小さい力士が腰を浮かし踏ん張って両手で支えているところ。

この形は地天女に支えられる兜跋毘沙門天独特のものかと思っていたが、このような交脚菩薩を支える像を見るのは初めてである。

また、ここでは窟内入り口上部に仏涅槃像が中尊に向かい合うように横たわっている。


126、128、132の三窟は、ほぼ同じ時期に統一したプランのもとに造られたことは明らかであろう。

126窟の外壁に北魏延昌2年(513年)の造像銘記があるので年代がわかるが、各像とも北魏後期の特徴をあらわす。
雲岡〜龍門石窟でも見られる通り、孝文帝の漢化政策に伴う仏像の漢民族化が中央で進みこの流れが辺境の炳霊寺にまで及んだことがわかる。

これらの造像様式が日本の飛鳥仏に大きく影響与えたことはよく知られるが、中でもこの132窟南壁(向って左)中尊の裳懸座は法隆寺釈迦三尊の独特の裳懸座にそっくりである。

    
参考図版:第132窟 南壁中尊                 参考図版:法隆寺釈迦三尊像


法隆寺像の台座にかかる裳は、肩から羽織った上衣の裾とその下のもう一枚の裳裾が、品字形紋様で、左右対称に鰭状に外に突き出るような形で装飾的にあらわされているが、この南壁中尊のものも(線刻のシャープさ等違いはあるが)ほとんど同様のデザイン表現といってよい。
像全体のイメージはやや違うものの、他にも細面の顔や体つき、襟を立てた厚手の法衣、施無畏・与願印、左手の刀印等共通点も少なくない。
法隆寺像の源流としては真っ先に龍門石窟賓陽中洞の如来がいわれるが、以前よりやや違和感を感じていたところ、今回この像に対面し特に裳懸座の類似性を強く感じた次第。
写真に収めたかったが撮影禁止が残念。


この先に炳霊寺の大仏(171窟)があるが、修理中とのことで崖面全体にグリーンのネットがかけられている。
ガイドの説明によれば、高さ27m、上半身石造、下半身泥塑の弥勒椅坐像で、北宋代の書碑に唐代803年に造られた記録が残されているとのこと。
全体像が見えないのは残念だがあきらめる他ない。

   
補修中の大仏と左右の第169,172窟                 参考図版:171窟 炳霊寺大仏


[169窟]

大仏の頭部左上に目を転じると大きな洞窟の穴がポッカリ開いており、これが炳霊寺石窟の白眉ともいうべき第169窟である。


第169窟 昇り階段
  地上から約45mの高所にある自然洞で、下から木製の階段がジグザグ状に上へ伸びている。
ここは炳霊寺の中でも、規模最大、内容の豊富さに加え、何よりも最も早い時代の造像、壁画が残ることで有名な窟。
近接する172窟とともに見学に一人300元を要する特別窟だが、ここを見ないと炳霊寺へ来た意味がないといわれる窟である。
ガイドに案内され梯子のような階段を昇っていくが、階段は狭く傾斜もきついので両手で手すりをしっかり持っていないと危なっかしい。
所々に鳥の糞らしきものも付いているのでこれを避けつつ最上部に至る。

さて、169窟は前記の通り「西秦建弘元年」の題記が残されている。
これは西暦420年に当たり中国の石窟では最も古いものとして知られている。
炳霊寺石窟の開鑿自体は4C末西秦の時代といわれているのに対し、敦煌は4C半ば(366年)と敦煌の方が早いようであるが年代のわかっている窟で最も古いのは第285窟の538年と100年以上の差がある。
また、雲岡石窟の開鑿(460年)と比べても40年遡ることになる。

ここは天然の洞窟で、洞内の高さ15〜20m、幅は20〜30mはあろうか、左右に180度以上のワイドな広がりを持つ大きな空間。
そして洞窟内の正面、左右の壁上下にいくつもの仏龕、レリ−フ、壁画が点在しているが、相互に関連を持って計画的に造られたものではなさそうである。
従って、造られた時期もバラバラということであろう。
仏像で目につくのは炳霊寺としては数少ない塑像の群像である。
像を区別するため位置によって各々に番号が付けられているが、何はともあれ、向って右側、少し高いところにある西秦題記のある仏龕周辺へ足を運ぶ。



参考図版:第169窟 題記周辺の諸仏龕


第6号龕は「無量寿仏」と記された仏坐像と脇侍菩薩が立つ塑土の三尊像。

参考図版:第169窟 6号龕
 

中尊は、亀甲紋様のような彩色が残る内衣の上から涼州式偏袒右肩に衣をつけるが、右肩にかかる衣は右手に袖を通したかのように肘の先まで伸びており、麦積山74窟でも同様の像があったことを思い出す。


脇侍菩薩が可憐な表情を見せるのに対し中尊の顔つきは切れ長の目を大きく開きややいかつい感じを与えるが、双眼鏡でよくみると素朴ながらなかなか見事な造形で威厳も感じさせる。


6号の隣、やや下には胸前で衣を持つ高さ1m位の三体の仏立像が各々光背を背に並び(9号)、その右上に高さ2〜3mの1体の大きな如来像が立っている(7号)。


参考図版:第169窟 7号龕
  いずれも衣を体に密着させ足を開いて立つ塑像であるが、7号如来像の存在感は際立っている。

この像の向って左には(破損して原形をとどめないが)同様な立像のものと思われる左手だけが残されているので、もとは9号同様三体の如来が並んでいたのであろう。

さて、残された7号の1体は炳霊寺を代表する如来像として有名である。

量感のある体躯が通肩の衣を通してあらわされ、衣には浅い陰刻線でほぼ等間隔に衣紋があらわされるなど、インドのグプタ期マトゥラー仏を連想させるような造形で誠に興味深い。

是非ともカメラに収めたかったが、内部の写真撮影は禁止。特別窟の中でもここは特に警戒厳重で係員の監視も厳しいので、瞼に収める他ない。

向って左側の側面(南壁)にもいくつか興味深い龕がある。



参考図版:第169窟 南壁の諸仏龕


下の段の中国では珍しい胸骨露わな釈迦苦行像(20号)、上部にある5体の仏坐像(23号)がそれで、特に23号の像に関心を惹かれる。


参考図版:第169窟 上23号,下22号龕
  かなり高い位置にあるので窟内に置かれている木の梯子段を昇り近づこうとするが充分固定されていないので危ない。
やや遠い位置からとなるが、5体の像のうち破損の少ない右側の2体は、禅定印の如来像で通肩の衣や光背に朱の彩色が施され美しい上、ハリのある顔、切れ長の目、ガンダーラ仏のように額から真っ直ぐに通る鼻筋、優しげな口元など、大変に魅力的な像である。

どこをみても西方の匂いの強い像ばかりでゆっくりみたいところであるが、時間もないので、最後に北壁7号龕下部に描かれた彩色鮮やかな壁画を見学。

仏説法図を中心に飛天、供養者、高僧、なかには法顕の姿もみられ、敦煌壁画のように隈取りがない分変色も少ないようで、もとの絵が大変良く残されていることに驚く。
中国に残された古い壁画として見応えがあるが、ガイドに時間がないとせかされ後ろ髪をひかれる思いで、もう一つの特別窟172窟へ向う。


[172窟]

172窟は169窟から弥勒大仏の頭の上を横切った先にある。ここも天然の洞窟であるが169窟ほど大きい窟ではない。



参考図版: 第172窟の三尊像


172窟は北朝末期に開かれた窟とのことで、切り立った崖の奥、上部に仏菩薩三尊、下部に5体の仏立像が並ぶがいずれも近づけない位置にある。
時代的には上部の三尊像が北魏代、下の五尊像は北周代のものとのこと。
窟中央部には木製の小さな仏堂のようなものが置かれ内部に北周期の仏像が収容されているようだが暗くてよくみえない。
炳霊寺目玉の169窟を見た後でもあり、これという気が入りそうな像も目につかず、時間切れということもあり再度169窟へ戻り階段を下る。


時間は既に3時過ぎ。

炳霊寺はさすがに観光客も少ないが、更に人影がまばらになった中、往路で見てきた仏龕を再鑑賞しつつ来た道を引き返す。
帰りに炳霊寺のガイドブックを買いたいと思っていたところ、果たして出口の外に入場前に寄ってきた売り子が待ち構えていた。
当方をしっかりマークしていたようである。
彼女の手持ちの籠の中の写真集が気に入ったので値段を聞くと200元という。
確かに本の定価欄には200元と表示されているがシール貼りである。
交渉の末90元で購入したが、あとでシールを剥がすと下には「80元」の印刷表示。
少し高く買ったようだが10元は炎天下で待っていた彼女の手間賃、この日の生活費(の一部)かと思い直し妙に納得。

帰りのボートに乗り込んだのは3時半頃につき約2時間の見学であった。
あっという間の2時間で、欲をいえば169窟は1時間位かけてじっくり見たいところであったが、往復するのも大変な奥地の石窟であり、限られた時間の中で特別窟もすべて見ることができたのでよしとすべきか。

ボートでは往きに同乗のホセも我々の帰りを待ってくれていたようで、また同じメンバーで湖を走り帰途に就く。
ホセの予定を聞くと、炳霊寺の後は我々同様寧夏回族自治区の須弥山石窟へ行くとのことで、袖摺り合うも多少の縁でできれば一緒に行動してもとは思ったが、車の定員もあり残念ながら実現せず。


蘭州のホテルへ戻ったのは夜7時近く。

往復で9時間はかかったことになり、まさに一日がかりの見学であった。
日中は好天であったがこの頃より雨が降り出す。


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