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 【行 程】 2011年7月22日〜8月1日

7月22日(金) 羽田空港→北京空港→西安(泊)
7月23日(土) 西安→天水(泊)
7月24日(日) 麦積山石窟→天水(泊)
7月25日(月) 大像山石窟→拉梢寺・水簾洞→武山(泊)
7月26日(火) 武山→蘭州(泊)
7月27日(水) 炳霊寺石窟→蘭州(泊)
7月28日(木) 蘭州→固原(泊)
7月29日(金) 須弥山石窟→王母宮石窟→南石窟寺→平涼(泊)
7月30日(土) 北石窟寺→彬県大仏寺→西安(泊)
7月31日(日) 西安(泊)
8月 1日(月) 西安空港→北京空港→羽田空港





黄河上流域 石窟の旅 行程図





【その2】



東崖はここまでで、次に西崖の方に向う。

この辺りは遠くの山並みもよく見え眺めのよいところである。
ただ、地上70メートルの絶壁上の狭い桟道でもあり下を見ると足もすくむ。

  
東崖上部からの景色                         西崖全景      .


[135窟]

西崖の階段を下り、次に135窟の前に案内される。

ここは西崖三大窟の一つで西魏代に開鑿された特別窟。
見学料金もグループで400元と高めに設定されている。
女性ガイドに扉を開けてもらい内部へ入る。
ここまでで石窟内部へ入って見学するのは初めてである。
内部は暗いので懐中電灯を取り出す。補修中であろうかパイプを組み立てたフレームが窟いっぱいに置かれている。

奥行もあるが横に長い空間の中、すぐ目につくのが中央右寄りに立つ大きな仏三尊像。


参考図版:第135窟中尊
  麦積山では珍しい石刻の像である。
中尊は高さ2mを超える重量感のある像で、頭部は波状紋様の肉髻に僅かに微笑むような顔つき。
衣の襞も美しく簡潔にまとめられている。左右に立つ小ぶりの脇侍は、頭部は後世の補作とのことだがこれも精緻な彫りで少し腹部を突き出すような立姿。

ガイドの説明によると石の重量は台座まで一体で2トンもあるとか。
石質からみて明らかに外部より持ち込まれたものと思われるが、西崖の中でも最も高い位置にあるこの窟までどうやって持ち上げたのかと思う。

正壁及び左右壁にも多くの仏龕が開かれ塑像が配されているが、向って右側の壁に、思いがけず、感動の44窟中尊とよく似た如来像を発見する。
ややうつむいた細面の像で、右足の先を膝上に出す坐り方、衣の先を台座前面に懸ける姿と懸裳のフリル表現、立体表現が44窟中尊とほとんど同じである。
顔の表情、全体の雰囲気は44窟程の優雅さはないが、同一系統の工人の手になるものであろう。


[133窟]

更に規模の大きい特別窟が続く。
133窟は北魏晩期(6C前半)に開かれた麦積山を代表する窟で、万仏洞、碑洞とも称せられる。

入口はさほど大きくはないが、中へ入ると天井も高く大きな空間が広がっている。


参考図版:第133窟 釈迦と羅ご羅像
  まず目につくのが正面の仏立像と小さな弟子像の組み合わせ。
高さ3m位の大きな釈迦がやや前かがみになって右手を自分の子羅ご羅(らごら)の頭上にかざすように立っている。
珍しい情景だが造形的には明らかに後世(宋代)の作品。

そして、その前後左右に石碑が立ち並んでいる。

懐中電灯で一つ一つ見ていくが、このうち必見といわれているのが第10号と番号の付けられた造像碑。
表裏両面ともビッシリと彫刻されており、表の面には上中下3段に仏龕が配され、上段の龕には釈迦、多宝の二仏併坐像、中段には(左足を前に組む)交脚菩薩像、下段には1仏2菩薩の説法像が各々シャープな彫りであらわされている。
周囲には仏伝説話の諸場面が細かく刻され雲岡第6窟の仏伝レリーフも思い出しつつ見ていくが、中国でも芸術的価値の高い貴重な造像碑といわれるだけに彫りも精緻で素晴らしい。

その他、窟内左右、正面奥の壁面には多数の龕が開かれ各々に興味深い。
特に関心を惹かれたのが、向って左側の第1龕、第3龕の如来坐像。顔つき、体つきは所謂“秀骨清像”といわれる北魏の典型的な痩身の如来像であるが、独特の裳懸座が注目される。
上から羽織る袈裟の先が台座前面で大きく3つに分かれて垂れ、足を覆い隠す形式で、特に第3龕の如来は台座に垂れた袈裟の内側に縦じま模様の襞があらわされ、なかなか装飾的である。



参考図版:第133窟第3龕



[142窟]


第142窟入口
 
142窟は133窟から桟道を中央寄りに進んだ行き止まりのところに入口がある。


ここも北魏代後半に造られた窟である。桟道から3〜4段木の階段を上って窟内に入ることになるが、ガイドから入口も内部も小さいので一人ずつ交代で見学してほしいといわれる。


中へ入ると、正面に1仏2菩薩2弟子像、向って右の壁に仏坐像、左に交脚菩薩像と、三壁三尊、三世仏形式の窟で、三尊とも面長で首が長いよく似た造像。

参考図版:同 正壁中尊像
  この中尊釈迦像も裳の先が台座前面に懸っており、先程の133窟では袈裟の先端が3つに分かれていたのに対し、ここでは4つに分かれて垂下している。
弥勒と思われる交脚菩薩も、顔つきや体前部にX字状に懸かる天衣の形など133窟でみた交脚像とよく似ており、何となく133窟との繋がりが感じられる。

ガイドによると、この窟は影塑と呼ばれる型取りされた小さな仏、菩薩、弟子、供養者像が多数壁に張り付けられているのが特徴とのことで、確かに主尊、脇侍の両側の壁いっぱいに配されている。
中には供養者像であろうか、天井にまで貼り付けられ上半身が浮き出ている。

また、正壁左右の隅に象と牛の頭があらわされ周囲の小像とともに説話のようなものが表現されているらしいが、意味するところはよくわからない。

この窟は全般に保存状態良好で小窟にもかかわらず意外に内容豊富で興味深いが、一人で時間をかけすぎてもいけないので次の人と交代する。


[98窟]

第98窟 西崖大仏
 
西崖の大仏は東崖の大仏より少し小さいが、それでも高さ14mという大きさである。


もとは北魏代に造られた石胎泥塑像だが、後世、特に宋代の大規模修復により北魏の面影はほとんど失われている。


両側にあるはずの脇侍像も向って右の脇侍が損壊し左の1体が残るのみ。ガイドの説明では阿弥陀三尊とのことであるが、当初から阿弥陀であったかはやや疑問であろう。



[123窟]

大仏の反対側へ回り込み、すぐ右横に大仏頭部の螺髪がよく見えるところまで移動する。

ここにあるのが、可憐な童子・童女像があることで知られる西魏代の123窟。

入口は先程の142窟より更に小さく人一人が屈みこんでようやく入れる大きさである。
内部も2.5m四方くらいの小じんまりした窟で、正面、左右の壁にほっそりしたなで肩姿の仏、菩薩が坐っている。
ガイドの説明によれば、正面が釈迦で左右に文殊菩薩と維摩居士が向かい合って坐っている場面をあらわすという。
向って右が維摩居士らしいが、我々がイメージする病身の老人とは似ても似つかぬ若く元気そうな像である。


    
参考図版:第123窟童子像                 参考図版:同 童女像


目当ての童子・童女像は文殊・維摩の入口寄りに静かに立っていた。
少数民族のものと思われる清楚な服装で、顔立ちからも可愛らしい子供の雰囲気が感じられる。
近代の彫刻作品といわれても通用しそうな素朴な塑像でさすがに賞賛されるだけのことはある。
44窟の如来像といい123窟のこの像といい、西魏代の人間的かつ洗練された造形には感心させられる。
仏教石窟では他に類を見ないものであろう。


[121窟]

123窟より少し早い北魏後半期に開かれた窟で、西崖ではもう一つの注目窟。

内部はここも2〜2.5m四方くらいの大きさ。

ここでの注目は正壁左右の隅に立つ各2体一組の脇侍像。脇侍菩薩と比丘(尼)のセットかと思うが、その姿は例えていえば宮殿内の女官らがお互い親しげに寄り添い何やらヒソヒソ話をしている風で、およそ厳粛な仏の前でこのような像はまず見かけない。

    
参考図版:第121窟脇侍像                 参考図版:同 脇侍像


何かの解説書で、二組の像はもともと各々独立して立っていたが脇侍菩薩の支えが外れ隣の比丘、比丘尼の側に傾いた、との記述を読んだ記憶もあるが、それにしても両者の仕草と表情を見ているると、もともとそういう情景を想定して製作したかのようである。
麦積山の仏像といえば44窟の如来ととともに是非見たかった像の一つであったが、想像していたより小さい像(1mちょっと位?)でやや意外な感じを受ける。

123窟の内部も狭かったがこの窟はさらに狭く、現地ガイド、日本語ガイドと3人で入ればほとんど身動きが取れない。

入口左右にも天王像、力士像があり、位置を変える場合でも像のどれかに当たらないよう大変に気を遣う。
注目窟であるだけに人気も高いと思うが、いつの日か貴重な像が意図せざる損壊に繋がらぬか気になった。
といって入口外からの拝観に制限されぬことを願うが・・・。
それはともかく、麦積山は古来僧達の禅観修行の場であったといわれるだけに、このような小さな窟は僧が一人籠り仏菩薩を観想する格好の場となったのであろう。

余談ながら、ここの中尊の上半身は宋代の重塑で顔面の肌が滑らかなところをみて、中国語の堪能なKさんが女性ガイドに
「天水は美人の地というが貴女もこの中尊も美しい」
というと、それまで体調悪そうにみえたガイドが大変喜び急に愛想がよくなったのは麦積山での印象的一コマであった。


[74窟]

特別窟としては最後になったが、ここは麦積山に残る最古の窟の一つである。

麦積山は当初五胡十六国時代に崖の中央部分で開鑿が始まったと考えられているが、何度かの地震で中央部分が崩落した中で、残された北魏前期(5C後半)の74、78窟等が最古の石窟といわれている。
我々はこのうち保存状態の比較的良好な78窟の見学を希望したが、前記の通り修復中とのことで代わりに74窟を見学することにしたもの。

崖面に取り付けられた大きな扉が開かれると、三壁各々に高さ3m位の大きな如来坐像が配され、正面両サイドに脇侍菩薩が立つ。


第74窟
  像を見ただけで直感的に初期窟の雰囲気を漂わせるが、残念なことに肝心の中尊の頭部が後世(清代)の補作で、しかも出来が良くないのでやや印象を損ねている。
ただ、それを除けば重厚な堂々とした体躯の像ばかりで、ここまで見てきた仏像とは明らかに感じが違う。

如来像は中国服ではなく内衣の上から偏袒右肩に衣をつけ、衣の表現も整形した上から陰刻線で浅く筋をつける、簡素だが特徴的な造形。
偏袒右肩は右肩にも衣をかける涼州式偏袒右肩で、向って左壁の如来はその衣が右手の先辺りまで懸かっている。
中尊の脇に立つ菩薩像は比較的よく保存され、西域風の顔つきで長髪を両肩に垂らし、裸の上半身に胸飾、腕に臂釧、腕釧をつけ、下半身は衣が体に張り付いて脚の線があらわされるスラリとした立ち姿。
プロポーションの良い、インド、西域風の様式をよく伝える魅力的な像である。

ただ残念ながら窟全体は保存状態が良いとはいえない。
各所に破損が目立ち、特に左右の如来坐像の下部、膝組みと台座部分に大きく穴が開いており、図らずも塑像の内部が垣間見える。
割れた穴から覗いてみると、像の中心には太い木芯が立てられ塑土が盛りつけられている。
塑土の断面からは藁や竹(葦?)の茎のような植物繊維がみえるので、これらを混ぜて粗々に造形しその上からきめ細かい土で仕上げていったものと思われる。

細部はともかくこの窟は、大ぶりで雄壮な如来像や西域風の菩薩像等、全般に雲岡前期の像と通じるところが多いように思われる。
おそらくほぼ同じ時期、感覚的には曇曜5窟の若干後くらいの造像か。


74窟の見学を終え62窟の前を通り階段を下りていく。

62窟は北周期の個性的な窟として事前にマークしていたが修復中で見学かなわず残念。
ここから先に見学できる窟はなく西崖下の地上に至る。


時間は午後2時50分頃で、一巡するのに3時間余りを要したことになる。
思えば我々は昼食もとらずトイレにも行かず、ひたすら見学に没頭していたことになる。
尤も崖にトイレなぞなかったが・・・。


この頃には青空も広がり夏の日差しが照りつける。
出口の食堂で遅い昼食をとり天水市内へ戻ることになる。


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