【行 程】 2011年7月22日〜8月1日
7月22日(金) 羽田空港→北京空港→西安(泊) 黄河上流域 石窟の旅 行程図 【その1】
≪はじめに≫ ここ数年、幸いにして中国の三大仏教石窟(敦煌莫高窟、雲岡石窟、龍門石窟)を見学する機会に恵まれたが、その奥深い魅力に嵌り込んでしまったようで、今年は懲りもせず三大石窟に加え五大石窟とも称せられる麦積山石窟、炳霊寺石窟の訪問を計画。 一昨年来同行のKさん、Iさんに、今回は中国経験豊富なSさんも加わり、4人で甘粛省東部を中心に点在するいくつかの仏教石窟を訪問する旅が実現することになった。 甘粛省といえば我々日本人は敦煌を連想するように中国のかなり奥地にあるとのイメージだが、同省の省都蘭州は地図で見ると意外にも中国のど真ん中、中国地図を回転させるとすれば回転軸の中心のような位置にあることがわかる。 いかに中国の奥地が深いかということでもある。 このエリアは中国では古来西域と中原を結ぶシルクロードの玄関口として栄え、早くから仏教が伝来、浸透した地域でもあった。 そのため、敦煌を始め仏教遺跡が今なお数多く残されていることは周知の通りで、今回我々は、そのうち西安と敦煌を結ぶエリアの東半分、現在の陝西省西部から甘粛省東部、寧夏回族自治区に跨がる地域の石窟を、西安を発着点にループ状に巡回する計画をたて、結果的に、五胡十六国時代(4〜5C)から唐代(7C)にかけて開鑿された計10ヶ所の石窟を見学することができたが、その内容は実に素晴らしいものがあった。 T.7月22日(金) 朝、Iさん、Sさんとともに羽田よりCA便にて北京へ向い、北京にて国内線に乗り換え夕刻西安に到着。空港で先に中国入りしていたKさんと合流し、4人で市内中心部のホテルへ向う。 U.7月23日(土) この日は列車にて最初の目的地麦積山のある天水まで移動する予定で、朝ホテルよりタクシーで西安駅へ向う。
日本の駅とは違って駅舎には切符を持つ人以外は入れないようになっており駅周辺は大勢の人々で混雑している。 駅右側の切符売り場を覘いてみると、窓口が20ヶ所位はあるがどの窓口も大行列でごった返している。 さすがに大都市の駅の雰囲気を実感。我々は事前にKさんが切符(指定券)を手配してくれていたおかげで難なく駅舎内へ入場。
人込みをかき分け4人で進んでいたところ不覚にも先を歩いていたKさんSさんの姿を見失ってしまう。 Iさんと二人で駅係員に切符を見せると2階だというので上がるがどこを探しても乗車予定の列車の待合室がない。 そのうち列車の発車予定時刻も近づいてくるので再度別の係員に聞いてみると今度は1階だという。 あわてて下へ降り、ようやく目指す待合室でKさんSさんと合流。二人とも我々の姿が見えず気をもんでいたようで初日から冷や汗をかく。 乗車予定の列車は泰州発蘭州行きの空調快速(急行)で、沿海部に程近い江蘇省の泰州より甘粛省蘭州まで2,000qを約26時間で走行する列車である。 そのうちホームへ入る改札が始まり、重い荷物を抱えて階段を上り下りし無事乗車。 ホームでは別の車線に「上海−拉薩(ラサ)」の看板を付けたモスグリーンの列車も停まっている。 西安から目指す天水までは所要時間3時間半の行程であるが、Kさんが軟臥というグリーン寝台の下段をとってくれていたおかげで足を伸ばしてくつろげる快適な列車の旅となる。 車両内は満席のようで隣の食堂車も人で一杯である。 乗り込んで間もなく女性車掌が検札に来て切符と引き換えにプラスチックのカードを手渡される。 切符は召し上げかと思えば、目的地天水に近づいた頃にまた車掌が来てカードと切符を再度交換することになる。 どういうシステムかよくわからないが、結果的には寝台で眠っていても降車前に教えてくれると理解すれば有難いことは有難い。 中国国内の移動はどこへ行くにも時間がかかるのが難点だが、さほど長時間でなければゆったりした時間が取れる列車の旅も悪くない。 途中駅の宝鶏を過ぎると景色は一変、山岳地帯に入りトンネルも急に増えてくる。 午後3時前に天水の駅に到着。 改札を出たところで、今回の旅行に同行してくれる現地日本語ガイドが運転手とともに待っていてくれた。 日本語ガイドはDさんという40才代の男性で、この日より8日間の長いお付き合いである。 駅は街の中心部から離れた場所にあるので、チャーター車に乗り込み天水市内のホテルに向うが、彼らは予定のホテルの場所を把握しておらず、市内をウロウロし尋ね尋ねてようやくホテルに到着。初っ端からどうも印象が悪い。 地図を用意しているわけでもなく、結局ガイド最終日までこの調子が続き、最後は、これが中国の常識かとこちらも半ば諦めの境地?に至る。 さて、天水は西安の西へ約300q、西安と蘭州のほぼ中間点にある甘粛省第2の都市。 街の中心部は西安のような喧騒感もなく比較的落ち着いた地方都市という印象。 天水周辺は古代秦王朝発祥の地で古くから秦州と呼ばれるところで、中華民族の神話上の始祖伏羲の生まれ故郷ともいわれている。 また、ガイドの説明によれば、天水という名の通り水がきれいで美人が多いことでも有名とか。 我々は、夕刻の空き時間を利用して「伏羲廟」の観光を済ませておくこととする。 明日は、いよいよ今回の旅行のメインの一つ、麦積山石窟の見学である。 V.7月24日(日) 麦積山石窟は天水の東南45qの山中にあり、五胡十六国の一つ後秦の時代(384−417)に創建され、現存する窟龕は194。 石質が礫岩層でもろく彫刻には適さないので内部の仏像は圧倒的に塑像が多いようである。 石窟のほとんどは唐代以前に開かれ、以後新たな開窟はなかったようだが、清代に至るまで1,000年以上に亘り維持、修繕が行われてきたとのこと。 ホテルを朝8時30分に出発。天候は曇り。 雨の心配はないようで一安心。約1時間で現地の駐車場に到着するが、麦を積んだような特徴的な形状の山はかなり先に見えるので石窟まではまだ随分距離がありそうである。 ここから石窟入口まで2qの登り道があるらしく、歩いて登る人は別として観光客は往復15元出して電動カートを使わざるをえないようになっている。 昨年の雲岡石窟訪問の際でも駐車場から入口までカートに乗ったことを思い出す。 カートの到着地点から更にダラダラ坂を上っていくが、この辺りまで来れば、坂の途中から空に突き出たような褐色の断崖とその中央の摩崖大仏がよく見えようやく来たことを実感。 麦積山は過去、崖の中央部が地震により崩壊したため現在は東崖と西崖に分断されているが、西崖下から東崖へ回り込むように坂道をのぼり石窟入口前広場に到着する。
窓口前の看板には見学可能な窟と料金が中国語、英語、日本語、韓国語で書かれている。我々は9ヶ所の見学を希望しKさんに手続きをお願いするが、窓口の女性が要領を得ずやたら時間がかかる。 手続きが終わりさて出発と思いきや、今度は事務所の奥からマネージャーらしき女性が出てきて、申し込んだ9窟のうち3窟(第62、78,127窟)は修復中で見学不可という。 78窟は同時代の74窟に切り替えOKとのことにつき再度手続きをやり直すことになるが、なんとも事務所内の連携が悪い。 案内してくれる女性ガイドが石窟の鍵を揃える間更に待たされ、結局見学スタートは11時半と予想外に遅れることになった。 この前後から空の雲行きが怪しくなり雨粒が落ちてきた。 あらためて間近に麦積山を眺めてみると確かに形状の変わった山である。 目の前に東側の絶壁がそびえ、壁面に蜂の巣のように穿たれた無数の石窟とそれらを連絡する桟道や階段がつづら折りのようになって見える。 いよいよ解説の女性ガイドと日本語ガイドのDさんとともに見学スタートである。 心配した雨はパラパラ程度で見学に支障はなさそうである。 まず東崖より階段を昇り始める。 [44窟] 最初に案内されたのは、なんと西魏代(535-557)開鑿の特別窟、第44窟であった。 “なんと”というのは、44窟は麦積山を代表する目玉の窟の一つで旅行前からここの如来像との対面を楽しみにしていたものであるが、これがいきなりとは思いもよらず。崖に取り付けられた扉が開かれると龕内よりガイドブック等で見慣れた見目麗しい仏像の姿が眼前に現れた。 一同、期せずして感嘆の声。 前座に真打ちというか、相撲でいうと取り組みが始まった途端いきなり大関クラスが出てきたようなものである。 桟道から直に拝する奥行の浅い龕で、見るからに過去、窟の前部が崩壊し後ろにあった像が前面に出てきた様子が見て取れる。
頭には渦紋模様の高い肉髻を乗せ切れ長の目をやや下に伏せ口元に静かな微笑みを浮かべる端正な顔立ちの像が右足を少し前に出して坐っている。 内衣と外衣の一部には緑色系の彩色が残っており、全体的になんともいえない柔らかい温かみを感じさせる像である。 人によって感じ方は様々であろうが、内面から滲み出る優しさ、一種の母性表現のようなものが感じられる。 観音の中に女性的な像はさほど珍しくはないが、如来でここまで女性の優しさを醸し出す像はないのではないかと思う。 この像を見て「東洋のモナリザ」と称したのは日本人であるらしいが、“さもありなん”である。 「東洋のモナリザ」といえば、カンボジア・アンコールワット遺跡群のバンテアイスレイ寺院の優美な女神像を思い起こす人も多いと思うが、双方を見た感じでいえば、ともに突出した美しさで甲乙つけ難いものの、外部表現と内面表現が渾然一体となった洗練された造形という意味では遥かにこちらの方が上であろう。 尤も、寺院の守り神と慈悲の心で人々を導く仏の像との差と考えればやむをえぬことではあるが。 もう一つ、この像の素晴らしいのは懸裳の表現である。 両肩から羽織った袈裟の先端が台座の前面を覆う、いわゆる裳懸座をあらわすが、台座にかかる懸裳は微妙な丸みが付けられており、質感、立体感を感じさせる見事な造形表現となっている。 加えて、重ねられた懸裳の中の一枚の裾先端部にフリル状の襞が表現されており、初めてみる“裳懸座のフリル表現”に強く興味を惹かれる。 これらを詳細にみると台座にかかる懸裳は3枚の衣が重なって表現されているように見えるがよくわからないところもあるので、女性ガイドにこの点を質問するが、ガイドも困惑の体で要領を得ない回答。 おそらくこんな変な質問をする観光客はいないのであろうと、こちらも反省?自覚する。 ともあれ、この像は細かいところまで手を抜かず的確な身体表現と気品あふれる見事な造形で、一同感動。相当な技術を持つ工人(仏師)の作であろう。 誰もが魅きつけられるのもうなずけるところ。 [43窟] 44窟の隣に間口の広い、比較的大きな窟がある。 もと西魏の皇后の墓陵として作られた窟とのことで、三間幅の入口上部に鴟尾のついた瓦屋根のレリーフが残っている。 これが43窟で、特別窟の一つとして関心はあったが、内部の像はすべて宋代に作り直されたということでありパスしたもの。 通りすがりに内部を覗くと、扉の網越しでやや見づらいが、左右に力士、中央に三尊のなかなか出来のよさそうな像が並んでいるのがみえる。 [37窟] 37窟は一般窟として常時開放されている。 窟内には、主尊、仏椅坐像と向って左に1体の脇侍菩薩が立つ。 右側の像は失われたのであろう。この脇侍菩薩は両手を胸に当て交差させており、一見マリア像を思わせるような自然な祈りの姿で、仏像としては珍しい。 隋代開鑿の窟であるようだが、中尊は後世、おそらく宋代に手直しされたものか。 [13窟] 階段を上っていくと、東崖のシンボルである巨大な椅坐大仏と脇侍の三尊像が崖に貼り付けられたように並んでいるのが見える。
石胎塑像という造り方で、大まかに岩を削った上から泥塑で仕上げられたものとのこと。 当初、隋代に造像されたが唐代の地震で損壊したようで、ガイドの説明によれば、宋代修復時顔面内部にお椀や経典が埋め込まれていることがわかったという。 壁面の横から見るので正面観は分かりづらいが、中尊は頬の膨らんだやや腫れぼったい顔つきで、下半身の椅坐部分は膝頭の泥塑が剥がれて芯木を嵌め込んでいた四角い穴が露出しているところが見える。 この像をガイドが釈迦仏と説明するので弥勒の可能性につき質問するが、釈迦と否定される。 いずれにしても登るのも困難な断崖にこんな大きなものをよく造ったものである。 中七仏閣と呼ばれる7つの龕が並ぶ通路(9窟)、高さ7〜80p位の沢山の仏坐像が整然と並ぶ千仏廊(3窟)を経て階段を上っていくと大きく開放的な石窟の前に出る。 [4窟] これが北周代(557-581)に造立された上七仏閣で、もと間口七間の大きな楼閣を模した構造の、麦積山で最も大きく荘麗といわれる石窟である。 ここは一般見学ルートの見所の一つとなっており多くの観光客が詰めかけている。 我々観光客が通る前廊の外側の柵のあたりに高さ8mの巨大な八角柱が何本も立っていたらしいが、現在は左右各1本が残るだけであとは残念ながら失われている。
前廊内側には過去七仏をあらわす七つの大きな仏龕が開かれ、龕内には各々1仏2弟子4菩薩または1仏6菩薩が並んでいるが開窟当時の像ではないようである。 左右両端には像高4〜5mの阿吽の力士像が力感たっぷりに立ち、その上部の龕内に維摩と文殊が対坐する形。力士像は上半身裸でやや誇張気味の筋肉表現は鎌倉期の金剛力士を思わせ、維摩像は東大寺五重塔塔本塑像の維摩を思い出させるような姿である。 注目されるのは、7つの龕と龕の間の前壁に彫られている護法神のレリーフ。
後代の補修はあるようだが北周造立当時の面影を残す貴重な像とのことで興味深い。 また、窟龕上部の壁面及び天井の一部に北周代の壁画が残されており、これも見所となっている。 彩色もよく残り楽器を手に持つ飛天らが空中を舞う様子も描かれている。 この窟は一般に「散花楼」と呼ばれるように、こういう飛天群を見ているだけで空から音曲、花びらが雪の如く降ってくるイメージが感じられる。 これらの壁画は窟龕入口上部のかなり高いところにあるので前廊の柵に寄りかかって写真を撮るが、何しろ地上70mの絶壁上の柵である。 落ちようものなら真っ逆さまで危なっかしいことこの上ない。 ここ麦積山では原則撮影禁止のようだが特別窟以外は自由に撮影でき咎められることもない。 この上七仏閣は東崖大仏の更に上部にある、麦積山の中でも最高の位置にある最大かつ華麗な石窟である。 当時の建築、彫刻、絵画の最先端の技術を駆使して造られたものであろうし、それらをかかる絶壁上に表現するのも相当の苦労があったことであろう。 造立当時を想像するに、断崖というよりむしろ空中に浮かぶが如き姿はどんなに素晴らしかったか。 中国にも数多い石窟の中でも白眉といえるものではなかったか、感嘆しつつ窟を後にする。 [5窟] 4窟前廊の吽形力士像の左側にトンネル状の通路があり、これを抜けたところが第5窟である。 隋代に造られた4窟同様の宮殿風崖閣で、やはり前面は崩壊しているようである。 4窟ほど大きくはないが、ここもテラス状の前廊があり内側に三つの大きな龕が開かれている。 4窟が7つの龕で過去七仏を主題とするものならば、ここは3つの龕で三世仏をあらわすものか。
ガッシリとした豊満な体つきで、後代の補修も入っているようだが隋、唐代の風格も感じられる。 中央龕の向かって右側前廊には顎鬚を蓄えた甲冑姿の天王像1体が牛の背に立っている。 高さ4〜5mの大きな像で明代の重修を経て現在に至るものとのこと。 牛に乗る守護神像といえば昨年訪れた雲岡第8窟でもインドのシヴァ神がヴィシュヌ神と対になってあらわされていたが、この像もその流れを汲むものであろう。 おそらく窟の反対側(向かって左側)には金翅鳥に乗ったヴィシュヌ神のような天王像があったのではないかと推測される。
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