近江湖南仏像旅行道中記
  (平成21年8月27日〜30日)

朝田 純一 

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第 四日目

 〜行程〜

8月27日(木) :JR近江八幡駅集合 → 願成就寺(近江八幡市)→ 石馬寺(東近江市)
         → 梵釈寺(東近江市)→ 長寿寺(湖南市東寺) 近江八幡泊

8月28日(金) :東方寺(栗東市) → 橘堂(草津市)→ 金勝寺(栗東市)
         → 金胎寺(栗東市)→ 栗東歴史博物館(栗東市)
          → 常楽寺(湖南市西寺) 水口泊

8月29日(土) :櫟野寺(甲賀市甲賀町) → 大岡寺(甲賀市甲賀町)→ 正福寺(湖南市)
         → 願成寺(甲賀市)→ 西栄寺(甲賀市) 水口泊

8月30日(日) :阿弥陀寺(甲賀市) → 飯道寺(甲賀市)→ 少菩提寺址(湖南市)
         → 善水寺(湖南市)→ JR米原駅解散


 8月30日(第4日)

■阿弥陀寺(あみだじ)  甲賀市甲賀町櫟野1173

光明山阿弥陀寺 黒谷浄土宗
 詳細は不明であるが、櫟野寺塔頭七坊の一つと伝えられている。江戸時代に再興され現宗に変わった。

●阿弥陀如来坐像 重文 木造 素地  109.1cm 平安時代 10C
 頭体を通して一木より彫成、量感・衣文など古様である。定印阿弥陀の古像。
●聖観音立像 重文 一木造 漆箔 103.7cm 平安時代 10C?
 内刳り無し。髪は左右に分けた独特のもので、下ぶくれの顔。衣文の折り返し部は扁平な感じを与えるが、自由な衣文線を刻んでいる。当地方菩薩像中では異 色な表現が見られ、10Cとする説がある。
●薬師如来立像 県指定 一木造 100.4cm 平安時代 10C
 頭部の形、頬張りの豊かな面相、一木造り重厚な体躯などから。10Cの制作と見られている。

 今朝のスタートも、昨日と同じ紫香楽方面から。
 朝一番の到着は、阿弥陀寺。
 「浄土宗・阿弥陀寺」と刻まれた立派な石碑が眼に入ってきた。境内にはお堂が一つだけ建つごく普通のお寺。
 昨日来た櫟野寺のすぐ傍だ、歩いて2〜300mほど。
 昨日、ここも一緒に来ればよかったのにと思ったが、ご住職のご都合が会わなかったとのこと。


 早速、ご拝観。
 金色に荘厳されたお堂の中心に、阿弥陀如来の古像が祀られている。
 古色がつきずいぶん黒くなっているが、素木の仏像。
 にぎやかな金色の荘厳のなかに祀られているのは、ちょっと似合わない。
 ボリューム感もたっぷりで、お顔にも衣にもノミ痕が残っている。衣文の彫技にも荒さがある。 螺髪も刻み出しだ。
 表情にも、厳しいものがある。
 平安前期仏の特有の、森厳さ、量感、荒い彫成という要素をそれなりに備えている。
 しかし、少々時代が下るのだろうか、そのなかにも若干の穏やかさが見受けられる。
「地方色のある、平安前〜中期の素木彫成の阿弥陀坐像」
 そんなまとめになるのだろう。

 天台素木像の系譜を思わせる、なかなか魅力ある古像だ。

 
阿弥陀寺 阿弥陀如来坐像

 この阿弥陀寺は、櫟野寺の塔頭としての草創と伝わる寺。
 そして、この地は比叡山・天台の杣山として、最澄のテリトリーであった。
 櫟野寺の十一面観音も霊木彫成の仏像と考えられているが、この阿弥陀寺の如来坐像も霊木像であったのではないだろうか?
 櫟野寺像よりも制作時期は古いし、素木、ノミ痕、荒削りといった彫成や、この杣山の地で彫られた地方色像といったことを考え併せると、そのように思えて くる。

 他にも10世紀の制作と見られている聖観音像、薬師如来立像が、本堂内に安置されている。
 おとなしい感じの造りだが、なかなか古様な仏像であった。
 
阿弥陀寺 薬師如来立像      阿弥陀寺 聖観音立像
   
■飯道寺(はんどうじ)  甲賀市水口町三大寺1019

金寄山飯道寺 天台宗
 飯道寺は、飯道神社の神宮寺で、『飯道寺古縁起』などによれば、修験道の開祖役小角(えんのおづぬ)によって開基され、和銅7年(714年)に安敬(安 交)により中興されたと伝える。
 一方、役行者(役小角)が飯道山を開山し、この飯道寺は、天平年間(729〜749年)に聖武天皇の勅願により、良弁僧正が紫香楽宮の鬼門鎮護のために 建立したとする伝承もある。
 南北朝期には山上に「飯道寺城」なる城郭が築かれた。中世から近世初期にかけては飯道山における修験道の全盛期であり、天正9年には信長から寺領を安堵 されている。江戸後期以降は、徐々に衰退していった。

●阿弥陀如来坐像  重文 木造 彫眼 彩色  68.7cm 平安時代後期
 両目を伏せた優しい顔立ち、薄手の着衣、平行状の衣文など藤原時代の特色を示している。頭体部前後矧ぎ
●十一面観音立像  重文 ヒノキ 一木造 古色 104.6cm 平安時代後期
 入念な彫技で纏まった感覚を見せている。頭上面のすべて、天衣の遊離部分、両足先、持物などはすべて候補。
●地蔵菩薩立像  重文 ヒノキ 寄木造 彫眼古色 97.6cm 鎌倉時代
 概して穏やかな彫技が目立つが、小締まりな面相や部厚な衣褶などから、制作が鎌倉期に入っていることが知られる。

 飯道寺は、修験道で名高いお寺だ。
 飯道山は、平安朝末より後は修験道の一大聖地として信仰を集め、大峰山と並び称される修験者の道場として発展した。
 戦国時代の頃は、山中に50以上の僧坊が建ち並んだそうだ。

 バスは、飯道寺に到着。
 「予想外に小さなお寺だな」という第一印象。寺門の前に立つと、その向うに小じんまりしたお堂が見える。
 修験の大拠点であった往時の伽藍が偲ばれるような、広い境内、大きなお堂なのかなと思ったら、ちょっと拍子抜け。
 どうして、こんなに小さなお堂なのだろう?

 
飯道寺 山門                      飯道寺 本堂


 本堂に上がって、檀徒の方とご住職から、由緒などを拝聴。


飯道山頂 飯道神社
 「飯道寺は、もともと飯道山の山頂に、飯道神社と共に在り神社の別当職も兼ねていたのですが、明治の神仏分離、廃仏毀釈で廃絶、廃寺となってしてしまい ました。
 多くの堂塔が廃棄され、寺宝も離散してしまい、行者堂と墓碑石だけを残すのみでありました。
 明治27年に至って、何とか飯道寺の寺号を復興したいという要望が高まり、飯道山の麓にある旧飯道寺の坊の一つの本覚院の寺号を、金寄山飯道寺として再 興したのです。
 皆さん、いらっしゃるこのお堂が、元本覚院だったのです。」

 「近年は、先代のご住職の後、住職を継ぐ方がおられず、我々檀徒だけで飯道寺をお守りし、管理して参りました。最近、水口の永昌寺のご住職が、飯道寺の 住職を兼ねていただけることになりました。」
 とのお話。

 なるほど。
 それで、修験道の一大聖地といわれた飯道寺が、一寸さみしいお寺なのも納得。

 お寺で買い求めた、檀徒総代の方がまとめられた小冊子「修験道・金寄山飯道寺」を、読んでみると、その草創から現在に至る歴史などが、良く判る。

 飯道寺草創伝承には、近江の古代仏教文化の二人の立役者、伝説の人が登場する。

 一人は、役小角(えんのおづぬ)、即ち役行者(えんのぎょうじゃ)だ。
 飯道寺由緒記によると、役行者74歳の和銅元年(1282)、飯道山を開き、飯道寺を開基した。
 役行者が開山するとき、山にくわしい杣人12人が案内人に立ち、弁当の米粒を道標としたことから、飯道山と呼ばれるようになった、といわれるそうだ。

 もう一人は、やはり良弁僧正なのだ。
 聖武天皇が紫香楽宮を造営、その鬼門鎮護のために、良弁をして飯道寺を建立させた、との良弁開基伝承も残されている。

 いずれの伝承も、飯道山への山岳信仰と、重要な杣山(用材供給の山)としての飯道山の持つ重要性が、絡んでいるようだ。

 ところで、お水取りで有名な東大寺二月堂の周辺に「飯道神社」というのが在るのを、ご存知だろうか?
 二月堂には、「守護鎮守神三社」というのが在る。
 興成神社・飯道神社・遠敷神社の三社である。
 修二会(お水取り)の練行の最初と最後には、必ずこの三社にお参りすることになっている。


東大寺二月堂南東に在る 飯道神社
 どうして、二月堂に「飯道神社」が在るのだろうか?
 これは、飯道山が、紫香楽宮の造営、東大寺の造営などに必要な大量の用材を供給する杣山として、「杣と、その杣山の神」が国家的に重要と承認されていた 証左で、それゆえ東大寺(二月堂)の守護神として、飯道神が祀られるようになったのだと考えられている。


 その二月堂の前には、幼少の良弁が、鷲にさらわれて、奈良の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられたという、「良弁杉」が伝えられている。

 そういえば、金勝寺のあのパワフルな巨像・軍荼利明王像が祀られているお堂の名前も「二月堂」と呼ばれていた。

 ここでも「良弁のテリトリー」の強力なパワーと、経済的意味の重要性を、これでもかと言うほど、思い知らされた気がした。
 そして、金勝山、阿星山、飯道山の三山に囲まれるトライアングルゾーンが、
山を支配した人「良弁」にとって、用材供給源として、鉱物資源供給源としてきわめて重要なものであったこと。
 これを背景とした山岳信仰パワーの強大さが、数多い宗教遺物(文化財) を生み出し、仏教文化圏を形成したこと。
 を、今更ながらに、肌で感じた。


修験山伏の笈と斧(飯道寺本堂)
 そろそろ、飯道寺でのご拝観の話に戻ろう。

 ご住職の由緒、歴史の話の後、修験の山伏の持つ、「笈と斧」を見せていただいた。
 今では、ずいぶん衰退してしまった飯道寺の修験道ではあるが、毎年11月3日には、「笈渡し祭」が行なわれているそうだ。
 笈渡しとは、修験者が秋に帰山し、次年度の当番院に、笈を引継ぐ儀式だそうだ。




 次に、収蔵庫に移って、仏像を拝観。
 コンクリートの収蔵庫に、三体の仏像が並んで安置されている。


飯道寺 収蔵庫安置仏

 
阿弥陀如来坐像              地蔵菩薩立像

 中央に阿弥陀如来坐像、向かって右に十一面観音立像、左に地蔵菩薩立像。
 いずれの仏様も、穏やかで優しい顔つき、彫りも優しく柔らか。
 私には、ちょっと意外であった。
 どの仏様も「優しく、おだやか」なのである。
 飯道寺は、修験、山岳信仰の寺。
 厳しい練行を勤める行者たちが、拝した仏様のはず。
 そうだとすれば、仏像たちも、もっと厳しい表情や、森厳さ、内面的な精神性を表わしたものではないか、という気がしていた。
 ところが、祀られている仏像は、「温和、典雅」という言葉の方がぴったりあてはまりそうな、貴族好みといってよいような仏像だ。
飯道寺 十一面観音立像
 「平安末期や鎌倉期になると、修験道の聖地といわれた寺々の仏像も、このような雰囲気の仏像が祀られるようになっていったのかな?」
 と、ちょっと物足りないような、割り切れないような気分になったのでありました。


 そのなかでも、十一面観音像は、美しく整った仏様。
 ふっくらとした丸顔に整った目鼻立ち、細く伏し目の両眼、かすかに笑みをたたえる口元、浅く入念な彫り口の衣文など、藤原末の優雅、典雅を典型的に表わ したような像。
 彫刻としては、線が弱く、繊細に過ぎるように思えるが、当時の都ぶり、貴族好みをそのまま表現したような可愛い仏様であった。

飯道山 遠望
 飯道寺を辞し、バスの窓から、遠く飯道山を遠くに望む。

 往古の修験道の隆盛に思いを致し、多くの山伏たちがあの山中の険しい断崖を登り、修行に励んでいる姿を夢想しながら、次の寺、廃少菩提寺に向かったので ありました。





■廃少菩提寺(はいしょうぼだいじ)  湖南市菩提寺1846

廃少菩提寺 石造多宝塔
 廃少菩提寺は、金勝寺の北東、南北に流れる野洲川を挟んで、ちょうど対面、菩提寺山麓にある。
 金勝寺は、平安初期には「金勝山大菩提寺」と呼ばれたが、これに対する「少菩提寺」が、この廃少菩提寺址なのである。
 当然に、金勝寺(大菩提寺)と同じく、良弁僧正が伽藍を草創したと伝える。
 この少菩提寺も、良弁のテリトリーとして重要な役割を果たした寺であったのだろう。

 往時は、三十六坊の僧坊を擁する大寺院であったが、今はその寺観を偲ぶ由もない。
 織田信長の兵火にかかり、その後廃絶してしまったという。
 今は、竹林や林の中に、三つの石造遺品が遺されているだけだ。
 重要文化財指定の鎌倉時代の石造多宝塔のほか、三躯の石造地蔵菩薩立像(中尊:鎌倉、左右二尊:南北朝)、
 石造閻魔大王及び眷属像龕(室町)が、なだらかな坂の小道沿いに点在している。
 
     廃少菩提寺 地蔵菩薩像                廃少菩提寺 閻魔大王・眷属像龕

 ここに、大伽藍がかつてあったといわれても、ピンとこない。
 遺された石造遺品を眺めながら、この地から遥かに望む金勝山頂の金勝寺大菩提寺と、ほぼ平地の野洲川に近い少菩提寺とが結ばれる線には、どんなものが あったのであろうかと、考えてしまう。
 ひょっとしたら、金勝山などから伐り出された用材が、野洲川の水運を使って運び出されており、その積出し拠点が、ちょうど少菩提寺が位置する辺りであっ たのではなかろうかと、勝手な想像に思いを巡らせたのでありました。


■    善水寺(ぜんすいじ) 湖南市岩根3818

岩根山善水寺 天台宗
 和銅年間(708〜714)法相宗の道場、和銅寺として創建された.平安時代の初め、最澄が入山し建物を整備し、天台宗の寺に改宗、比叡山延暦寺の別院 とした。
 この頃、桓武天皇が病にかかったが、最澄が薬師法によって霊水を献じたところ、たちどころに平癒した。よって「岩根山医王院」の号を賜り、寺名も善水寺 に改めたといわれる。

●兜跋毘沙門天立像 重文 一木造 彩色漆  163.0cm 平安時代 10C末〜11c初
 西域風の甲胃をまとい、頭上には八方冠をいただく。面相は忿怒の表情で、体部には金鎖甲の鎧、腕に海老籠手、足に脛当てをつけ、沓を履き、二鬼を従えた 地天の掌に立つ姿である。肉身部は赤味肉色、鎧は花形、唐草、宝相華文を彩色する外、一部漆箔となっている。東寺像に比較すると形式化が進んでいる。
●持国天・増長天立像 重文 寄木造 彫眼 彩色 153〜4cm 鎌倉時代
 持国天は、右手は腹前に出して拳を結び、左手は三叉戟を執る。増長天は、右手は刀をかざし、左手は腰脇で拳を結んでいる。動きの多い中に体躯の均斉がと れ、忿怒の激しい面相で彫法が鋭い。
●四天王立像 重文 一木造 彫眼 彩色 141.5〜150.6cm 平安時代 lOC末
 多聞天を除く三体には内刳りをほどこしている。各像とも彩色は肉身に朱彩、鎧の一部に漆箔を併用しながら宝相華や丸文を措く。
●薬師如来坐像 重文 一木造 漆箔 102.5cm 平安時代 正暦四年(993)
 一木造の像に相応しい安定感のある像で、おおぶりの螺髪、明快な目鼻だち、古様な衣文線などに時代の特徴が見られる。明治40年に体内から発見された墨 書紙片が発見され、本像の完成が正暦四年(993)であることが確認された貴重な像である。
●梵天・帝釈天立像 重文 一木造 彩色 平安時代 10C末
(梵)161.7cm(帝)162.8cm
 たっぷりした肉付けや明るい目鼻立ちが平行状の衣摺の起伏と相侯って、愛らしさを感じさせる。
●不動明王坐像 重文 カヤ ー木造 彫眼 古色 73.1cm 平安時代 lOC末
 総髪で弁髪を左肩前に垂らし、両眼を見開き、上歯牙をあらわし、左掌を仰いで羂索、右掌は内にして剣をとる姿である。頭頂の莎髻は欠失している。彩色は ほとんど剥落。
●誕生釈迦仏立像 重文 銅造 鍍金 23.2cm 奈良時代 8C末頃
 通常の誕生仏である。ムクの像。小像ではあるが、螺髪や肉髻を鋳出しタガネでその輪郭線を明瞭にあらわしている。有名な東大寺誕生仏を模した作品であ る。巧みに童子の体の特徴を表現するが、模刻像にありがちな形式化が目立つ。
●僧形文殊坐像 重文 一木造 彫眼 彩色 78.8cm 平安後期
 老僧の姿。衲衣の上に袈裟を着け、左手に金銅製の錫杖を執る。
●阿弥陀如来立像 県指定 金銅 37.Ocm 鎌倉時代 元久三年(1206)
 善光寺式三尊の中尊で、両脇侍は失われている。両手先を除き台座まで一鋳、いわゆるムクの像である。背中の元久三年(1206)の陰刻銘は善光寺式阿弥 陀如来像としては、わが国最古の例と見られる。
●金剛ニ力士立像 重文 木造 彩色 280.5cm 平安後期or鎌倉
 ともに天衣や両手、両足先、彩色などは後補。体躯の肉取りや荒縄状の帯をめぐらす形式などは古様で、平安時代後期の作とする説や、その忿怒の表現、動き の出てきた体勢などから鎌倉時代とする説もある。


 さあ、いよいよこの湖南仏像旅行の探訪古寺も最後となった。
 フィナーレは、正暦4年(993)作の薬師如来像で有名な、善水寺。
 善水寺は、廃少菩提寺から野洲川添いを東南に5キロほど往った所、岩根山の中腹にある。

善水寺 本堂
 昔は、参道の石段を登って本堂に向かったが、今では、本堂の脇をちょっと歩いたところに駐車場があり、バスを降りれば、もうそこに本堂の姿が眼に入って くる。
 緑濃き山中に、静かに堂々と建つ桧皮葺の本堂の姿は、一幅の絵になるなと思うほどに美しい。
 お堂の横に置かれた床几に腰掛け、ゆったりとした気持ちで緑の風にふれ、静かにお堂の姿を眺めていたいような気持ちになる。

 本堂に上がると、内陣と外陣のあいだは菱格子の結界で区切られている。
 内陣に入ると、まず圧倒されるのは、祀られている仏像の多さ。
 本尊・薬師如来坐像は、秘仏として立派なお厨子の中に納められ拝観できないが、その両脇にドドーンと肩を寄せ合うように仏像が立ち並んでいる。

 
善水寺 薬師如来像(正暦4年)              善水寺 本堂内陣裏の諸像           

 いずれも等身大の大きな像。梵天、帝釈天、四天王、十二神将などなど。
なかなかの、迫力だ。
 裏側に回ると、不動明王像、兜跋毘沙門天像など6躯が祀られており、全部で28躯。
なんとも壮観。
善水寺 梵天・帝釈天像
 それも、多くが平安〜鎌倉期の古像で、なかでも梵天、帝釈天、四天王、不動明王は、正暦4年(993)の本尊薬師如来とほぼ同時期の制作といわれる古像 なのである。

 さすがに、平安の昔から延暦寺別院と尊せられた由緒を誇る古刹だ。

 私が、魅力を感じたの仏像は、梵天、帝釈天像と不動明王像。

 梵天像の近くによって、じっくりと拝んでみると、穏やかな顔立ちながらも、安定感ある風格のようなものを感じる。
 眼を惹くのは、翻す袖の衣文の彫り口。ダイナミックで深い彫り込み、グリッ、グリッとえぐるように彫り、ネバリがある。平安前期を思わせるような迫力 だ。
 身体を纏う衣文の鎬立ちも鋭いものが残り、本尊同時期の制作という話に、まさに納得。

善水寺 不動明王坐像
 不動明王像は、内陣裏側の安置。
 「出来のよい不動明王像だ。むっちりとして安定感がある。なかなかいいね!」
 そんな第一印象。
 拝すると、モデリングは穏やかだがふっくらとして、ゆったりとした抑揚がある造形。
 面奥もなかなか深く、むっちりとした体躯で、重量感さえ感じる。
 本尊同時期の制作に遡らせて考えてよいのではないかといわれている。
 お堂では、目立たないけれども、結構お気に入りの不動明王になってしまった。




  
兜跋毘沙門天像          四天王像           仁王像

 内陣を一回り拝観させていただいた後。
 天平時代の金銅仏、誕生釈迦仏の特別拝観を、させていただいた。
善水寺 誕生釈迦像
 外陣に座してお待ちすると、ご住職がいずこからか木箱を持ってこられた。
 50センチほどのタテ長の木箱が開けられ、布にくるまれた誕生仏が取り出される。
 金色がきれいに残る、小さな誕生仏が姿を現す。23センチの小像。
 誕生仏といえば、何といっても東大寺の金銅誕生仏像。天平期制作の国宝仏だ。
 東大寺誕生仏は、47センチ、むっちりとした幼児体形で童顔のかわいらしい表情が特徴。
 善水寺の像を見ると、東大寺像の半分ぐらいの大きさで、身体はもう少し締まっており、お顔も成人の顔立ちの天平顔をしている。
 解説書には「模刻像にみられる形式化がある、8世紀末ごろの制作」(仏像集成)とあった。
 特別拝観の後、またもとの木箱に丁寧に納められた。
 ちょっと不謹慎だが、老舗の骨董屋さんで、奥にしまってある掘り出し物を見せてもらっているような気分になってしまった。


 さて、この善水寺も由緒は、奈良時代まで遡るが、「最澄のテリトリー」といってよいお寺である。

 お寺で頂いたパンフレットには、このように書いてあった。

 「延暦年間、伝教大師最澄上人、比叡山を開 創され、堂塔建立の用材を甲賀の地に求められた。材木を切り出し横田川(野洲川)川岸に筏を組み、いざ流し下ろす段になったが、日照り続きのため、河水少 なく思うように流すことが出来なかった。
 大師、請雨祈願の為、浄地を探されたところ、岩根山中腹より一筋の光が眼に射し込み、その光に誘われるまま当地に登られた。・・・・・・・・・・
 満願の日に当たって大雨一昼夜降り続き、流れの勢いのまま、材は川を下り琵琶湖の対岸比叡の麓に着岸したという。」

 櫟野寺で聞いた、「最澄の杣山伝承」の続編を聞いているようだ。
 叡山造営の用材は、甲賀紫香楽から伐り出され、善水寺傍の野洲川河岸から積み出されおり、その積出しの要衝である岩根山の麓の地に、善水寺が造営された と云うことなのであろう。
 「最澄の杣山のテリトリー」を、今一度思い出して、最後の探訪寺、善水寺を辞したのでありました。

 4日間、結構長い、近江湖南仏像探訪の旅でありました。
 そして、長い、長いこの道中記も、やっと筆を措くことが出来るときが来ました。
 ここまで、付き合って読んでいただいた方々も、相当お疲れのことと思います。
 書き綴った筆者の方も、もうクタクタという処が本音。


 今回の古寺古仏探訪の旅は、
 「近江の開基伝承にまつわる仏教文化圏を考える」
 「聖徳太子、良弁、最澄のテリトリーの持つ意味と、遺された古寺古仏について考える」
 「山岳信仰などにかかわる霊木信仰、霊木造仏について考える」
 そんな、旅となった。

 私にとってみれば、
 「仏像の美しさを味わい、出来の良し悪しや、時代を考える」
という、いつもながらの仏像探訪に加え、
 仏教文化の持つ意味の奥深さを、たっぷりと考えさせられ、興味津々に惹き込まれる、充実した旅となりました。
 その分、道中記の筆も走ることになってしまったのでしょうか。


 充実感あふれた4日間の旅を振り返り、訪れた寺々への思いを巡らせているうちに、バスは米原駅に早くも到着。
 愉しく、にぎやかにお付き合いいただいた、川尻会長ほか同行の皆さんに、感謝しつつ、またのご一緒を楽しみに、帰路に着いたのでありました。


 本当に、お疲れ様でした。



第三日目←      


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