〜行程〜 8月27日(木) :JR近江八幡駅集合 →
願成就寺(近江八幡市)→ 石馬寺(東近江市) 8月28日(金) :東方寺(栗東市) →
橘堂(草津市)→ 金勝寺(栗東市) 8月29日(土) :櫟野寺(甲賀市甲賀町) →
大岡寺(甲賀市甲賀町)→ 正福寺(湖南市) 8月30日(日) :阿弥陀寺(甲賀市) →
飯道寺(甲賀市)→ 少菩提寺址(湖南市) 8月28日(第二日−後半) ここで、良弁と湖南の地というものについて、少しばかり考えてみたい。 湖南地域にある、良弁開基伝承の寺々にはどのような寺があるのだろうか? 良弁開基の寺は、湖南アルプスと呼ばれる、金勝山(611m)、阿星山(693m)、飯道山(664m)のトライアングルゾーンに密集している。 金勝山には、金勝寺。 阿星山には、元山頂にあった観音寺、 山麓には常楽寺、長寿寺。 飯道山には飯道寺が在る。 金勝山の東北の対面の菩提寺山には、少菩提寺(址)があり、大菩提寺と称された金勝寺と一対となっている。その南東には、正福寺がある。 このほか、誰もがその名を知っているのは瀬田の石山寺だ。 石山寺の位置する所が、琵琶湖から唯一流れ出る川、瀬田川の右岸、喉元にあり、水運の要衝の地であったことに多言は要しない。 湖南の良弁開基伝承の寺々を、地図に記せば、次のようになる。 良弁のテリトリーに現在も遺る、良弁開基伝承の寺々 良弁は、どうしてこの地に、強力なテリトリーを築いたのだろうか? 良弁は、相模国・漆部氏の人と伝わるが、この近江の国の出身で百済氏であったのだとも云われている。 伝説によれば、近江の国(滋賀)で野良作業の母が目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたという。 近江の地と良弁との、縁の深さを物語っている。 そして、湖南アルプスと呼ばれる地は、巨樹・巨木が豊かで良材を産する処、即ち「杣山」として、都の宮殿・伽藍造営用木材の重要な供給地としての役割を担っていた。 また同時に、この山地は、仏像の白毫や仏具づくりに不可欠の水晶、顔料の材料として貴重な藍銅鉱など、鉱物資源の宝庫でもあったのだ。 それらの資材は、琵琶湖から発する瀬田川の水運をつかい、木津川を経て奈良の都に運ばれた。 水運の積み出し基地である瀬田の地に、要衝を押さえるかの如くに、良弁開基の石山寺が造営されたのも、当然に納得できる話だ。 もう一人の奈良時代の開基伝承の僧、行基が土木治水を強みとする「平野の人」であったとすれば、良弁は「山の人」だったのだろう。 良弁は、東大寺大仏開眼供養後、初代別当となり、名実ともに大実力者となる。 田中日佐夫は、聖武天皇が紫香楽に都を置こうとした訳について、このように語っている。 「つ
まり、天皇はあの金勝・阿星・飯道の霊山からのびている山並みの囲まれた地に都を置き、その中心に大仏を造営して、そこを自らの平安の地としたかったので
はないだろうか。そしてその手引きをした者は、この地を修行の地とし、自らその根拠地としていた良弁だったと考えざるを得ないのである」(仏像のある風
景) 湖南の山々の地と、豊富な山林資源、山岳信仰、そして山を支配する人・良弁、その関係の強さと奥深さに、ものすごく納得し、今更ながらに、この金勝山の霊地のもつ意味合いの重さに思いを致しながら、山を下ったのでありました。 ■金胎寺(こんたいじ) 栗東市荒張398 金胎寺 浄土宗 天智天皇の時代(668〜671)の創建と伝えられる。元々、金勝寺二十五別院の一つで法相寺と称した時期もあったが、のち義淵が金胎浄願寺と改称、貞元年中(976〜978)に蓮秀が中興したと言われている。 天台宗に属していたが、戦国期に浄土宗に改められた。 ●阿弥陀如来及び両脇侍像 重文 木造 漆箔 中尊140.9cm 脇侍 169〜171cm 12C 中尊の体内には、僧俗合わせた結縁者の名と現当二世大願円満成就のため、永治二年五月(1142)に造像された旨の墨書銘がある。 ●四天王立像(二躯) 重文 木造 彩色 157〜158cm 12C 像内墨書銘 持国夫 康治元年(1142)六月十四日 増長天 永治二年(1142)五月十七日の年紀がある。12C天部像の基準作例。 「こんぜの里」で、再びバスに乗り換え下っていくと、山里という風情の場所に、小じんまりとしながらも、楚々と整えられた寺、金胎寺があった。 金胎寺は、金勝山を下った麓の地、金勝谷と呼ばれる地にある。 金勝谷とは、金勝寺のあるあたりから琵琶湖側の北麓にかけてひろがる大きな谷筋をいい、古くから多くの寺々が営まれてきた。 この金胎寺も、金勝寺二十五別院の一つに数えられた時期もあったようだ。 金胎寺 参道 金胎寺 本堂 「整った姿の阿弥陀様」だ。 典型的な藤原仏だが、衣文の線や、目鼻立ちの表情の刻線がシャープに刻まれており、しゃっきりした感じを与える。 藤原阿弥陀の、あの茫洋とした表情、抑揚を抑えた表現、ぼんやりした衣文線、という雰囲気ではない。 藤原仏のなかでは、キリリとしたほうだ。 都の一流仏師の手になり、きれいに仕上げられた阿弥陀三尊なのであろう。 ここの仏像が、貴重で知られているのは、阿弥陀像、二天像ともに永治2年(1142)の、造像銘が遺されていること。 金胎寺像の6年後に大原三千院の来迎阿弥陀三尊が造られ、9年後に玉眼の嚆矢といわれる長岳寺阿弥陀三尊が造られている。 そんな時代に造られた仏像だ。 金胎寺 阿弥陀如来像 金胎寺 二天像 ■栗東市立歴史博物館 栗東市小野223−8 次の常楽寺を訪れる時間まで、少々余裕があるので、急遽、近所の栗東市立歴史博物館へ寄ることとなった。
博物館の入り口を入り、しばらく進むと、天井まである一枚ガラスの窓越しに、巨大な狛坂磨崖仏が見える。 「レプリカだよ」といわれなければ、本物と信じて疑わないほど、精巧で石の質感も見事に表わされて、造られている。 「日本の文化財模造技術も大したものだ。すごいレベルだな。」 と、妙なところで感心してしまう。 狛坂磨崖仏は、奈良時代後期の制作とされている。 本物は、金勝山の西南2キロほどの山中にあり、徒歩でないと辿り着くことは出来ない。 この一行には訪れた人も多いのだが、 「すごい山道で、金勝寺から一時間半ほど歩いてやっとたどり着いた。夏にはマムシが出て危ない。」 とのこと。 そんな恐ろしい話を聞くと、根性のない私には「出かけてみようか」という気力すら起こらない。 クーラーの効いた博物館から眺められることは、「本当に、ありがたいこと、もったいないこと」と、思わず手を合わせてしまった。 この狛坂磨崖仏、その昔は、平安時代であるとか鎌倉時代であるとか、制作年代の物議をかもしたこともあるのだが、今では、8世紀後半、日本にいた新羅系の工人が刻んだものと考えられている。 ボリューム感あふれた如来三尊像で、統一新羅の石仏様式を思わせる。 そして、山の人々を教化しその資源と労働力を支配した帰化人・良弁にとって、この金勝山の地が、帰化人を中心とした高度な仏教文化圏であったことを物語る証左のような、巨大石仏だと思ったのである。 栗東市立歴史博物館は、ユニークな仏像展や関連刊行物で、私のお気に入りの博物館なのだが、栗東市財政の厳しさのあおりで、今年から開館は年150日に限られてしまった。 真夏の今日は、展示室はクローズ、受付と付属遺物のみオープンという寂しい状況。 「仏像好き」にとっては、何とかならんのかと憤りを感じるが、日本の不景気の深刻さを、こんなところで実感することになってしまった。 ■常楽寺(じょうらくじ) 湖南市西寺6-5-1 阿星山(あぼしざん)常楽寺 天台宗 寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建したという。元は法相宗であったが、平安時代には長寿寺とともに歴代天皇の尊崇が厚く、阿星山五千坊と呼ばれるほどの天台仏教園を形成した。 ●釈迦如来坐像 重文 寄木造 漆箔 139.1cm 平安末期 12C 髪・眼・唇に彩色を施し、体躯全身に亘り漆箔仕上げとしている。像内を平滑に刳り、布を張って黒漆を塗った半丈六の像。 ●二十八部衆立像(28躯) 重文 寄木造 彩色 玉眼 76.6〜100.5cm 鎌倉時代 14C 二十八部衆と風神・雷神の像。徳治三年(1308)〜正和三年(1314)にかけての仏師法橋永賢らによる造像であることが、婆薮仙人など7躯の像の墨書銘で知られている。 ●千手観音坐像 重文 寄木造 素地 63.1cm 南北朝時代 14C 十一面四十二腎坐像の千手観音像。延文五年(1360)の本堂再建時の造像と見られる。脇侍の不動明王立像・昆沙門天立も同時期の造像。 本日のラストは、常楽寺。
地元では、常楽寺は西寺、長寿寺は東寺と呼ばれている。 ご住職は、「中年の人懐っこいおじさん」といった雰囲気の気さくな方。 本堂に上がって、お話を伺う。 お話によると、 この常楽寺は、湖南三山の名跡と呼ばれたのと裏腹に、近年まで、大変に荒れ果てていたそうだ。 境内の小高い石段の上には、美しい姿の国宝・三重搭が建っているのだが、鬱蒼と生い茂る樹木に隠れて、塔がどこにあるのかわからないといった有様だったそうだ。 ご住職はサラリーマンで、メンテナンスもままならず、ましてや寺宝の拝観などは及びも付かない。年に一回の虫干しのときに、わずかに公開に供するといった状況。 「本当に、大変だったのですよ。何とかこのお寺をきれいに整備しなければいけないと、誰の扶けも借りずに、生い茂る木を伐ったり、スコップで掘り返したりしたのですよ。涙が出る思いでしたよ。」 「結局、とうとう会社も辞めることになってしまい、来る日も来る日も、この寺の整備のために頑張ったのです。配線工事や重機の運転も自分でやりました」 「何でこんなに苦労しなければならないのかと思いますが、今では、本堂から三重塔の後ろの小山に散歩道を造り、石仏を祀って近江西国観音三十三石仏として、一巡りしてもらえるようにまでなりました。」 愉しいご住職で、軽妙な語り口調なので、「ぼやき漫才」を聞いているように、笑いながら面白く拝聴したが、荒れ寺の整備再興に力を注いだ艱難辛苦の思いが伝わってくるようで、ジーンと来るものを感じた。 常時一般公開できるようになったのは、4年前。平成17年秋の湖南三山・一斉御開帳の時からとのことだ。 本尊・千手観音像は、残念ながら秘仏で、拝観はかなわない。 釈迦如来像は、半丈六でいかにも藤原末の、円満な相貌。 常楽寺 千手観音坐像(秘仏) 常楽寺 釈迦如来像 秘仏本尊の厨子をはさんで、左右15体ずつ雛壇のように三段に並んでいる。 胎内に墨書銘のある像が7体あり、徳治三年(1308)〜正和三年(1314)にかけての仏師法橋永賢らによる造像であることが知られている。 彫刻としての出来の良し悪しは良く判らなかったが、これだけ立ち並ぶと壮観そのもの。 ご住職の話によると、過去何体かが盗難に遭い、一部は戻ってきたがいまだに2体は戻らず、壇上には28体しか祀られていないそうだ。 二十八部衆像 東方天像 本堂は南北朝時代、三重搭は室町時代の建立で、ともに国宝に指定されている。 境内に佇み、桧皮葺の本堂、瓦葺の三重搭を見上げると、なかなか美しい構図で、どこかしら落ち着く。 常楽寺 本堂 常楽寺 三重塔 この常楽寺も、良弁開基伝承を持つ、阿星山仏教文化圏にある寺院だ。 本日午後は、良弁のテリトリーを考え、湖南の山々を支配した良弁の力と仏教文化圏に思いを致した時間であったなと振り返りながら、常楽寺をあとにした。 本日の泊まりは、水口。 食事は、水口の大衆居酒屋「酔虎伝」 「トラになるまで、飲んでやるぞ!」と、ワケのわからない決意で、いざ宴会へ。 第二日目 後半 了
|