近江湖南仏像旅行道中記
  (平成21年8月27日〜30日)

朝田 純一 

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 〜行程〜

8月27日(木) :JR近江八幡駅集合 → 願成就寺(近江八幡市)→ 石馬寺(東近江市)
         → 梵釈寺(東近江市)→ 長寿寺(湖南市東寺) 近江八幡泊

8月28日(金) :東方寺(栗東市) → 橘堂(草津市)→ 金勝寺(栗東市)
         → 金胎寺(栗東市)→ 栗東歴史博物館(栗東市)
          → 常楽寺(湖南市西寺) 水口泊

8月29日(土) :櫟野寺(甲賀市甲賀町) → 大岡寺(甲賀市甲賀町)→ 正福寺(湖南市)
         → 願成寺(甲賀市)→ 西栄寺(甲賀市) 水口泊

8月30日(日) :阿弥陀寺(甲賀市) → 飯道寺(甲賀市)→ 少菩提寺址(湖南市)
         → 善水寺(湖南市)→ JR米原駅解散


 8月27日(第一日)

 ■願成就寺(がんじょうじゅじ)   近江八幡市小舟木町73-1

 比牟礼山(観音山)願成就寺 天台宗
 縁起によると、推古27年、聖徳太子が請願し建立した近江48伽藍の最後の一寺といわれ、請願が 成就されたことから願成就寺と号された、といわれる。

 ●十一面観音立像 重文 木造 106.7cm 平安時代 11C
 ●地蔵菩薩立像 重文 木造 161.0cm 鎌倉時代 

 マイクロバスに乗ってほんの5〜6分、資料を眺めるまもなく、あっという間に願成就寺の登り口に到着。
 石段を2〜3分登ると、ぱっと視界が開けて、小じんまりした本堂が見えてくる。
 心配した天気も、しっかり夏晴れ。残暑照りつけるなか、アブラゼミの鳴き声。
 まだ旅の始まりなのに、どっと汗が噴きだす。
 この程度の石段で大汗とは、我ながら情けない。

 
願成就寺参道石段               願成就寺本堂      

 ご住職の案内でお堂に上がり、「秘仏・十一面観音」ご拝観の前に、お寺のご説明を拝聴。

 「この願成就寺は、聖徳太子のご請願により建立されたと伝えられております」とのお話。
ほらきた、第一弾は「聖徳太子のテリトリー」の寺院だ。

 願成就寺は、古くから近江商人の信仰を集め、由緒の古さを誇る「比牟礼神社」に程近い。
 もともとは、比牟礼八幡宮の別当で、比牟礼山(八幡山)南麓にあったが、豊臣秀次が八幡山城を築城した時に、西南数キロの現小舟木(山)に移されたそう だ。
 そして、この寺に、平安時代の十一面観音の古像が、今も伝えられている。

 「どうして、近江八幡にあるこの寺、願成就寺に、聖徳太子開基の伝承が伝わるのだろうか?」
 「聖徳太子と近江って、なんか関係があったっけ?」
こんな疑問が浮かんでくる。

 田中日佐夫「近江古寺風土記」によると、聖徳太子開基伝承の寺々は、草津市〜守山市〜近江八幡市〜蒲生郡(日野)地域一帯に残り、「聖徳太子のテリト リー」を形成しているそうだ。
 願成就寺をはじめ、草津芦浦:観音寺、近江八幡:長命寺、蒲生郡:石塔寺、金剛定寺、愛知郡:百済寺あたりが、その代表格。

 この地帯が、なぜ聖徳太子のテリトリーになったのだろうか?

 田中日佐夫は、このように述べている。

「ここで注目しなければならないことは、守山 市勝部の地がもと物部氏の所領であり、後に法隆寺に施入されて、その所領になっていることなのである。・・・・・・
法隆寺の所領地として、大和、河内、摂津、播磨とともに、近江の栗太郡が重要な土地であったことを示している。・・・・・・
この栗太郡の地がたんなる水田の経営のみに限定されたとは考えられないのである。・・・・
近江の湖上運送にも関心を持ってその経営にも努力したのではなかろうか。・・・・
このように考えてくれば、この守山、芦浦、下物の地に聖徳太子の開基を伝える寺院群が存在する理由もある限定された意味で、蓋然性を帯びてくるのである。
そして、古代寺院というものが、このように交通の要衝に建てられていることを、まず知るのである。」

 なるほど!
 このあたりは、法隆寺の荘園であったのか。そして琵琶湖を経ての水運交通で、大和への物流ルートの拠点でもあったのか。
 自分なりに、すごく納得しながら、願成就寺の由緒の古さに思いを致した。

 いつもの仏像探訪ならば、お寺の由緒のご説明を聞きながら、
 「えっ!聖徳太子の開基。お寺の縁起というのは、後で勝手にこじつけた、本当にいい加減なものよ。まあ、つくり話にもお付き合いするか」
 というような気分で聞き流していた。
 今日は、ご住職のお話に、ついつい耳をそばだてて聞いてしまう。

 さて、そろそろ十一面観音像のご拝観。
 秘仏として守られているが、特別にお厨子を開けていただいた。
 素木の仏像だ。
 近づいて、見上げるように拝すると、目鼻立ちや口元の鋭く厳しい彫り口、表情に驚かされる。
平安初期風の感じで、大胆に云うなら、神護寺薬師如来像の眼の線の鋭さ、口元の厳しさの雰囲気を漂わせている。
 11世紀の穏やかな表現の仏像ではなかったのかと、ちょっとビックリ!
 ところが、眼を胸元、脚部の衣文に移すと、急に「おだやか」な、表現に変わってしまう。
 大胆に簡略化した衣文表現だが、浅く穏やかな彫り口は、平安中期〜後期にかけてということで十分納得という感じだ。
 もう一度、眼線を顔に戻すと、やっぱり厳しく鋭い。
 お顔だけなら「平安前期の鋭さ、森厳さを漂わせる」といっても大丈夫だ。
 お厨子を照らす、ほの暗い照明の加減で、そのように眼に映るのだろうか?
 お堂に十一面観音の大きなパネルポスターが立てかけてあった。
 この写真を見ると、顔の表情も随分穏やかで、全体として「平安中期風」ということで、全く違和感がない。
 「写真と本物の顔は、ずいぶん違うなあ!」これが、率直な感想。


 解説書によれば、

「カヤ材の一木彫、素地。頭上の九面、両手上 膊部、像底の角_までを含めて一材で彫成し、内刳りは無い。やや荒彫りに近く、全身に細かいノミ目を残している。本面の顔つきは精悍で古様だが、体部はや さしくなり、特に長い裳の彫法は簡素なものになっている。
11世紀末から12世紀はじめ頃の作であろう。」(仏像集成)

 と、なかなか的確な説明。

 天台系の素地・素木仏像の系譜の延長線上にある仏像なのだろうか。
 そうはいっても、12世紀近くにもなると、天台系の素地仏像も、きめ細かいなめらかな表面の仕上げで、マイルドな表情になっているものだけれども、この 仏像は荒彫り風ノミ痕を残し、厳しく森厳な表情の名残を残している。
 技法も、頭上面まで一材で内刳りが無いなど古様な技法だ。
 どうしてなのだろうか?
 古様な平安初期仏を写したのであろうか?
 それとも厳しい表情の仏像を祀る必要のある事情でもあったのだろうか?
 そんな気持ちと、この仏像のミスマッチなところに心惹きつけられながら、本堂をあとにした。


松尾芭蕉 句碑
 境内の片隅には、松尾芭蕉の句碑が、百、二百、三百回忌に立てられているという。
 帰り道、二百回忌の句碑が、眼に入った。
 「比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋」
 不粋な私には、心打たれるというふうにはならないが、ちょっとだけ風流な気分になって、願成就寺を辞した。

 昼食は、日牟禮八幡宮の境内にある、日牟禮ビレッジで。
 近江商人の信仰を集める日牟禮八幡宮は、古木が生い茂り、その由緒の古さを物語っている。平安時代の木彫神像三体が重要文化財になっているとのことだ が、今日はパス。
 もっぱら、食い気のみ。
 日牟禮ビレッジは、近江八幡に本店のある和菓子の老舗、「たねや」の経営する飲食拠点。
 「たねや」は、東京のデパートなどに出店していて大繁盛だが、その勢いを物語るように、「日牟禮茶屋」「クラブハリエ」と名付けられた豪華な飲食店が並 んでいる。
 日牟禮茶屋で品書きを見ると、せいろ蒸し膳3150円などなど、なかなかいいお値段。
 稲庭うどんなどで、お茶を濁して、軽い昼食となったのでありました。

 
日牟禮八幡宮                     「たねや」日牟禮茶屋


 ■石馬寺(いしばじ) 東近江市五個荘(ごかしょう)石馬寺町823 

 御都繖山(ぎょとさんざん)石馬寺 臨済宗・妙心寺派
 寺伝によると、1300年前に聖徳太子が当地を訪れ、山麓の松の木に馬をつなぎ、霊地を探して山上に登り、もどるとその馬は石になって池に沈んでいたこ とから、これに霊異を感じた太子が開基したと伝えられる。

●阿弥陀如来坐像 重文  木造漆箔  274.0cm 平安時代・12C中葉
●十一面観音立像 重文  木造 179.7cm 平安時代・10C後半
内刳りをする。衣文線を浅く処理する。
●十一面観音立像 重文  木造 167.8cm 平安時代・10C後半から末
内刳りをしない。衣文線を大きく刻み、渦文を配し、変化に富んだ衣文を刻む。   
●大威徳明王騎牛上像 重文  木造彩色 117.0cm 平安時代・12C
頭鉢幹部はヒノキの一材。牛は概ね上下に二材を矧いで造る。  
●二天王立像(2尊)  重文  木造彩色 151.2cm 広目天159.2cm 平安時代・12C
やや簡略な表現、別の二天像とは微妙にことなる作風 
●二天王立像(2尊)  重文  木造彩色 持国天204.8cm増長天203.6cm平安時代・12C
2セットの中の巨像の二天像 
●役行者倚像 重文  木造彩色 112.5cm   鎌倉時代
●鬼像(2躯) 重文  木造彩色 48.8-47.6cm 鎌倉時代


 午後一番は、石馬寺。

 ここの石段はきついのだ。
 以前、来た時も、夏の盛りだった。汗だくになって、ふうふう云いながら登ったことを昨日のように思い出す。
 木々に囲まれた、積み石のような石段を登ると、山寺に来たという趣。
 「かんのん坂」と呼ぶそうだ。
 今回も、汗だくになって石段を登ること14〜15分。
 膝も痛くなって「かんのん坂」の名前を「地獄坂」に変えたらどうかと、恨めしく思う頃、ようやく本堂に到着。
 一行、最高齢のSさんは、私よりずっと先に、汗一つかかず先着済み。
 今年、還暦の私も、このメンバーの中では最若手。日ごろの運動不足をさらけ出し、情けないことはなはだしい。

 
石馬寺 参道              かんのん坂

 ご住職は、独身の若者といった感じの人。
 2〜3年前に住職として石馬寺に入ったそうで、見た目のとおり独身。大学ではラグビーをやっていたとのこと。
 「山寺に、夜たった一人で住むのは、結構恐ろしい」などという俗な話を交わしながら、お寺の説明をいただく。

「今から、1400年前のこと。聖徳太子がこ の近江の国に霊地を探しに、馬に乗ってやってこられ、この繖山(きぬがさやま)のあたりに来ると、馬が止まって動かないので・・・・・・・」

 ほら来た。またもや聖徳太子開基伝承だ。

 このあたりは、聖徳太子のテリトリーでも、強力なエリアだったのだろうか?
 周辺の寺もまた、聖徳太子開基伝承を多く持つようだ。
 石馬寺は繖山(きぬがさやま)〜通称:観音寺山〜の山麓に在る。
 繖山周辺には、山頂にある観音正寺をはじめ、「繖山を山号」にする寺が5ヶ寺あり「繖山五山」と呼ばれている。
 石馬寺、観音正寺、桑実寺、安楽寺、善勝寺という。
 このうち、桑実寺(伝天智天皇御願)を除いて、みんな聖徳太子の開基の伝承を持ち、繖山を頂点に、五箇荘あたりは聖徳太子だらけ。


石馬寺 本堂・収蔵庫
 田中日佐夫は、その理由について、

「繖山は、蒲生郡と神崎郡の境界線上にあり、 聖徳太子の重要テリトリーである蒲生野北を限る長峰となっている。そうしたことから北方勢力に睨みを効かせる戦略的に要衝の地であった。このような土地に そびえる繖山に、聖徳太子開基の寺々が立てられた。」

 という主旨を述べている。

 そして、この石馬寺には、平安中〜後期の立派な仏像が、数多く遺されている。
 もとより石馬寺に伝来したのか、周辺の寺々から寄せられたのかは定かではないが、大変立派で堂々たる仏像群だ。
 収蔵庫の入ると、正面に丈六の阿弥陀如来坐像、両脇に十一面観音が2躯、二天像がそれぞれ2対立ち並んでいる。

 
阿弥陀如来坐像            大威徳明王像

  
十一面観音像(向かって右)       十一面観音像(向かって左) 

 どの仏像も一見して平安仏なのは明らかという姿だが、なんといっても向かって右手の十一面観音像が、一番ボリューム感があり、出来がいい。
 長らく、東京国立博物館に出陳されていた像だ。
 この像は、衣文の彫り込みも結構深く渦文も配して、勢い、弾力感をもっており、立ち並ぶ像の中で、一段と古様。力も漲っている。
 もう一つの十一面観音は、彫りも浅く内刳りが施されているなど12世紀の制作を思わせるが、この像の方は内刳りも無く、10世紀後半ごろの作といわれて いる。


役小角 二鬼像
 ほかに、眼を惹くのは、役行者(えんのぎょうじゃ)像と二鬼像。
 鎌倉時代の制作だそうだが、大変良く出来た像。
 役行者は、下駄を履き朽木の中に倚座し、鬼は、まさかりや薬瓶を持っている。
 迫力ある写実表現で、彫技の冴えを感じる優れた造型だ。きっと高度な技巧をもった当代一流の仏師の手になるのではないだろうか?
 彫刻作品のレベルとしては、石馬寺諸像中随一だと、私は思う。

 石馬寺は、法相宗、天台宗と転宗し、江戸時代再興時に臨済宗になったという。
この、役行者像はきっと天台宗のときに、繖山信仰の山岳修験の像として祀られたのであろう。

 ところで、役行者とは何者なのだろうか?
 皆さん良くご存知だが、NET検索の解説で復習すると、以下のように記してある。

「役行者は、役小角(えんのおづぬ)ともい う。
奈良時代の呪術者であり、山伏(修験道(しゅげんどう))の開祖とされている。
その能力を妬んだ韓国広足(からのくにひろたり)に訴えられ、世を惑わす妖言をなしたという理由で大島に流罪となる。
『続日本紀』によると、文武天皇3年(699)5月24日に「役小角流下伊豆嶋」とある。当時の伊豆嶋は伊豆大島のことをさしている。
行者は、昼はこの行者窟に住んで修行し、夜になると富士山へ飛んで修行し赦免を願ったという。3年後に許されて都へ帰り、それ以後諸国の峰々を巡ったの で、日本各地の霊山幽谷に行者の足跡を伝える伝説が残っている。
平安時代以後は密教の発展による修験者の活躍により、役小角(役行者・役優婆塞〈えんのうそばく〉)は神聖視され、あがめられることなった。
修験道の開祖として日本の宗教史上で、大きな位置づけが与えられている。」

 近江には、山岳信仰、修験道にかかわる寺々が、数多く残っている。
 今回、訪ねる寺々のなかでも金勝寺、飯道寺なども、「役行者伝承」を持つ著名寺院だ。
 山岳信仰ならではという仏像にも出会えるに違いない。
 聖徳太子、良弁、最澄に加えて、「役行者と修験の文化」との係わり合いを感じながら寺々を巡ることになるのだろう。
 役行者像を前にして、そんなことを考えていると、そろそろ下山の時間が来てしまった。

 石段の登り口まで戻ると、そこに聖徳太子ゆかりの小さな池があった。
 石になった馬の背中のように見えるという「池の中に半分水没した白い石」を確認して、バスは発車。

 
石馬の池 石になった馬の背中のように見えるという

 バスは、次なる目的地、梵釈寺に向かう。
 その途中、石塔寺のすぐそばを通っていくようで、「左:石塔寺○○m」の表示板が眼に入る。


石段を登りきると見えてくる石塔寺三重石塔
 私は、まだ一ヶ月も経たない前に、石塔寺を訪れたばかりだ。
 石塔寺(いしどうじ)と訓むそうだが、私にとっては、理屈抜きに心惹かれる寺である。
 長い石段の上の台地に石塔が立つだけで、何も無いのだが、もう4回も訪れてしまった。
 つい、足が向くのである。

 石塔寺には、奈良時代前期の造立といわれる、「朝鮮風・三重石塔」が遺されている。
 あの三重石塔を見上げていると、なんとも云えないほのぼのとした温かみに、心打たれる。
 朝鮮半島から渡来した、古代の帰化人たちの魂や喜び、哀しみに直にふれているような気持ちに惹き込まれてしまう。


石塔寺三重石塔(奈良時代前期)
 この三重石塔を中心に、無数の石仏、五輪塔で埋め尽くされた風景を見た、司馬遼太郎は、

「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろ がった風景のあやしさについては、
私は生涯わすれることができないだろう」
「塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。」(歴史を紀行する)

 と、その印象を綴っている。

 今日も、寄れるものならまた寄ってみたい気持ちがよぎる。

 この石塔寺も、またまた「聖徳太子創建」と伝わる寺なのである。
 そして、このあたりは、古代「蒲生野(がもうの)」と呼ばれた。
 万葉の有名な、額田王と大海人皇子の相聞歌
 「あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る」
 「紫野のにほへる妹を憎くあらば 人嬬故にあれ恋ひめやも」
 が、詠まれた地でもある。

 「今日は、【聖徳太子のテリトリー】を、琵琶湖半・近江八幡の比牟礼山から、繖山を通って蒲生野へと、東へ東へと、辿っていく旅になったな」

 そんな思いを巡らせながら、バスに揺られていると、
 「ハイ、到着しました」と、運転手さんの声がかかって、梵釈寺に到着。


 聖徳太子のテリトリーに現在も遺る、聖徳太子開基伝承 の主な寺々


 ■梵釈寺(ぼんしゃくじ)  東近江市蒲生岡本町185

 天龍山梵釈寺  黄檗宗
 江戸時代、天和年間(1681〜1683)日野松尾にある正明寺の晦翁禅師が開創。
 この地に古くからあった梵釈寺の寺号を名付けたという。(旧梵釈寺は、湧泉寺と改称)

●観音菩薩坐像(宝冠阿弥陀如来像) 重文   木造 115cmp 平安時代・10C


梵釈 寺 三門
 のどかな農村地帯の片隅、平地にあるお寺。しんどい石段はない。
 岡本の集落からもちょっと離れて、田畑の中に、ひっそりうら寂しく佇んでいる。
 いかにも黄檗宗という、禅宗らしい三門が眼に入る。
 三門をくぐって、お堂に進むと本堂正面の少し高い壇上に、宝冠阿弥陀如来像が安置されている。

 箔が落ちて、漆下地の真っ黒色の像。
 一見すると、均整は取れているが、あまり惹きつける魅力を感じない像だ。
 良く眼を凝らしてじっくり見ると、坐した衣文には弾力的な抑揚があり、彫り口も滑らかではあるがなかなか深い。

 
梵釈寺 宝冠阿弥陀如来坐像 現存最古の宝冠阿弥陀如来像(10C)

 漆下地が厚塗りされているようで、それが尊容の魅力を損なっているのであろう。
 「あっさり見ると素通りしてしまいそうな仏像だが、よーくみると10世紀のそれなりの出来の仏像」
 そのように感じた。

 この仏像の名を高らしめているのは、現存する天台常行堂の宝冠阿弥陀仏像の中で、最古の作品であることだ。
 実はこの像は、長らく「観音菩薩像」として祀られていた。
 新たな重要文化財指定に際しての調査で、この像が天台の常行堂・宝冠阿弥陀仏であること判明したのであった。
 常行(三昧)堂とは、天台宗において、阿弥陀如来の周りを念仏を唱えつつ90日間歩く「常行三昧の行」を行う方形のお堂のことで、そこに祀られるのが宝 冠阿弥陀像。
 菩薩風に結髪して宝冠をいだく形式をとる。
 この宝冠阿弥陀像の図像は、円仁が将来し、比叡山東塔に仁寿元年(851)建てられた常行三昧堂の本尊像とされたことを嚆矢とするそうだ。

 この宝冠阿弥陀像、もとより梵釈寺に伝来したものではなく、天台宗の廃寺に遺されていた本尊を譲り受けたものだろうと考えられている。


石造 宝筐印塔(鎌倉時代)
 本堂を出て、三門のほうに戻ると、石造宝篋印塔が立っている。
 鎌倉時代の嘉暦3年(1328)の造立刻銘があり、国の重要美術品に指定されているそうだ。

 梵釈寺さんは、我々一行を本当に暖かく迎えてくださった。
 老夫婦とお嫁さんがいらっしゃったが、お寺へやってきたというよりも、田舎の農家を訪ねたような、のどかでアットホームな感じ。
 宝冠阿弥陀拝観は「どうぞお自由に」と、放ったらかし。


梵釈 寺でいただいたイチゴのストラップ
 拝観が済むと、わざわざ茶菓を用意してくださり、
 「良くやってこられました。ゆっくりしていってください」
と歓待いただいた上に、お婆さんがリハビリも兼ねて作っているという、色とりどりの端切れで出来た可愛らしいイチゴを、一行全員いただいた。

 率直に言って、お堂も三門も荒れ行くにまかせ修理もままならぬという、裏さびた感じが漂っているのであるが、お寺を守るご家族の明るさ、暖かさに、ほっ とした気分で梵釈寺を後にした。


 ■長寿寺(ちょうじゅじ)  湖南市東寺5−1−11

 阿星山(あぼしさん)長寿寺  天台宗
 寺伝によると、奈良時代、聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、聖武天皇の皇女誕生時に七堂伽藍を建立、長寿寺と名づけた という。
 平安時代には、阿星山五千坊と呼ばれるほどの、天台仏教圏を形成した。
 鎌倉時代には源頼朝が、室町時代には足利将軍家が、祈願所として諸堂を造改修したと云われる。

●    阿弥陀如来坐像 重文  142.5cm 鎌倉時代初期
●    釈迦如来坐像 重文  寄木造 彫眼 漆箔 160.0cm 平安時代後期
●    阿弥陀如来坐像 重文  寄木造 彫眼 漆箔 285.5cm 藤末鎌初期
●    菩薩形立像 県指定  木造 漆箔 156.0cm 平安時代 12C

 梵釈寺に少々時間をかけすぎて、あわてて長寿寺に向かう。
 東近江市・蒲生野の梵釈寺から、湖南市・石部の長寿寺まで十数キロ、30分ほどかかってバスが長寿寺に到着したのは3時半を大分過ぎた頃となった。
 長寿寺は、常楽寺、善水寺とともに、湖南三山として大変有名なお寺。
 常楽寺とは隣りあわせで、土地では、長寿寺が東寺、常楽寺が西寺と呼ばれている。

 本堂は、山門から200メートルほど参道を歩いたところにある。

長寿寺 山門
 参道の両脇には、桜、紅葉などの並木が続いて、春秋のシーズンには見物の人々で賑わう。
 この前に長寿寺を訪れたのは、4年前の11月。
 湖南三山・一斉ご開帳のときで、紅葉した美しいもみじのアーケードを、大勢の参拝客とともに歩んだことを思い出す。
 夏の盛りの今日は、閑散として、我々一行以外に参拝の人の姿は、誰も見えない。

 本堂に上がると、高齢のご住職に、待ちかねたように迎えられた。
 ご住職、どうもご機嫌斜め。
 「今日は、2時半に来るというので、早めに来てもう2時間以上も待っていた。もう来ないのだろうと、お堂の扉を閉めようとしていたところだ。」
 と、ご立腹のご様子。
 そこまで、はっきりした時間をお知らせしていたわけではなかったようだが、ここはひたすら恐縮に次ぐ恐縮で、何とかご機嫌を直していただいて、拝観とい うことに。

 「もう時間が遅いから」とおっしゃりながらも、お話になると調子が出てきて、ずいぶん長い、長いご説明をいただいた。

 「この長寿寺は、奈良時代に東大寺の良弁僧正が、紫香楽宮の鬼門を封じるために創建したことが・・・・・・」

 さあ、出ました。
 今度は、良弁の開基伝承。ここは「良弁のテリトリー」のど真ん中なのである。

 良弁開基伝承が生まれた歴史的経緯や、同じ伝承を持つ寺々に思いを致し、考えてみたいところだが、今日は早朝からハードワークでグロッキー気味。
 もう考える気力が残っていない。
 その話は、明日訪れる金勝寺や常楽寺探訪の場で、振り返ってみることとしたい。

 ご本尊は、秘仏の子安地蔵菩薩。
 納めるお厨子は、文明12年(1480)に造られた春日厨子で、重要文化財だそうだ。
 堂内には、半丈六の木造釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像が安置され、藤原から鎌倉にかけての典型的如来形坐像の仏様。
 本堂右の少し小高いところに大きな収蔵庫があり、中には丈六の大きな阿弥陀如来坐像がおさめられている。
 独特の切れ長の大きな眼を持つ、重量感あふれる藤末鎌初の仏様だ。

  
長寿寺本堂 釈迦如来坐像         阿弥陀如来坐像              収蔵庫 阿弥陀如来坐像

 長寿寺の見所は、仏像もさることながら、国宝の本堂の美しい姿だろう。


長寿寺 本堂
 天平年間の創建、貞観年間に炎上したが、すぐに復元され今日に至っている。
 桁行・梁間ともに五間の寄棟造りで、正面向拝三間の檜皮葺き。
 緑の杜に囲まれた境内に、静寂な空気が流れるような、楚々とした美しい建物である。

 真夏といえども、そろそろ夕暮れ。
 参道の待合で、冷たいお茶をいただき、ほっと一息ついて、本日最後の古寺探訪を終えた。


 今夜は、久々の顔合わせの初日。
 近江八幡の美味を安価にというニーズで、ホテルフロントで紹介してもらったお店「ひょうたんや」で、夕食兼飲み会。
 安い店という話で、教えてもらったのだが、行って見るとビックリの、格調の高い料理屋。
 部屋も応対サービスも一流の店。
 あとでNETで調べたら、
 「近江八幡で、どこがおいしいかと尋ねると、一番に名前が上がる和食の人気店。 そしてあの【つゆしゃぶ】の本家です。」
 とのコメントが。
 【つゆしゃぶ】というのは、豚肉のしゃぶしゃぶを、特性のつゆでいただくもの。
 流石に美味で、食もお酒も大いにすすんで、楽しく盛り上がった初日の夜となったのでありました。

 
「ひょうたんや」玄関                名物 豚肉の「つゆしゃぶ」

第1日目 了

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