訪れ帖

 


[779] 岡崎美術博物館 -投稿者: 美河梨絵 home page 返信 2003/11/10 17:41:11 del:

久しぶりの美河です。
鎌倉彫刻論の嵐(?)が過ぎ去ったようですのでノコノコ書き込みに出て参りました。(奈良ちゃんもかな)
昨日、岡崎美術博物館に行ってきました。変わった建物の未来的な雰囲気が楽しいですが、仏像も滝山寺の帝釈天や真福寺の塑像仏頭とかが楽しかったです。帝釈天は運慶なのか湛慶なのかよく分かりませんが。それにしても滝山寺は特別展には帝釈天しか出さない伝統があるみたいですね。


滝山寺 -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/11 00:04:47 del:

 帝釈天しか出てないのですか。真福寺の仏頭は、不思議な魅力を持った像のようですね。共に、次回の旅行で行ってみたいと思っています。

 結城さんが、かわら版にこの訪れ帖の一連のバトルの事を総括して頂き、有難く読ませて頂きました。
 かつて島根県の荒神谷遺跡で銅剣が出土した際の公開シンポジュウムで、司会をした松本清張氏が、「学界には論敵がいて、一つ言えば反撃があり、ガードを固めてから発言しなければならない。でも今日はとりあえず素人が聞きたいことを待ちわびている。ショーだから楽しくやろう」と言ってパネラーにけしかけ、非常に面白い論争が展開されたことが思い出されました。

 一連の書き込みを、そのまま記事にして掲載します。




[778] 入れないであります -投稿者: 奈良敦子 home page 返信 2003/11/10 17:28:32 del:

奈良敦子であります。
こちらの秘仏情報、滋賀国昌寺の記事に入れないのでありますよー。うーん。
こんど京都本部になる家の台所と編集室に器材や必要なものをセッティングしてまいりましたー。窓から鴨川が、清水寺が見えるのであります。京都もなかなかいいぞ!!なのであります。京都へ週一回通うことになりますが、交通費はページ運営金庫から出してくれますのでやったー、なのであります。
朱印帳もそろそろ再開するのであります。おー。


祝 京都本部稼働 -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/11 00:02:12 del:

 ご免なさい。このファイルのみアップに失敗したようです。
 但し、11月8日一日のみの御開帳でしたので、事後報告となってしまいました(^^;)。
 永昌寺の地蔵は、お寺では10年ぶりとのことですが、昨年の栗東歴史博物館の「近江の彫刻 -湖南・甲賀の10・11世紀−」展に出品されています。

 いよいよ、京都本部の稼働開始ですね。ご朱印帳もはかどるっていう奴ですか。




[777] ありがとうございました -投稿者: 眞琴 返信 2003/11/09 23:21:05 del:

定覚の事を質問した眞琴です。
緒方先生、毛坊様、お答えいただきありがとうございました。お二人のお答えから、現在の段階では改めて快慶と定覚との関係を再検討する必要があることが解り、とても勉強になりました。過去の研究に新しい情報を加えていく時のスタンスが少し解ったような気がして嬉しかったです。鎌倉彫刻の議論、ぜひ又やってください。




[775] 撤収 -投稿者: 黒田明孝 home page 返信 2003/11/08 23:39:51 del:

黒田です。
どうやら鎌倉彫刻の議論も一段落したようですので、緒方氏をふくめ、古佛スタッフを議論の場より撤収させます。
撤収〜!!


ご参加有難う御座いました -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/09 00:45:14 del:

 御苦労様でした。
 相模さんの書き込みから始まった定慶、定覚、快慶バトルはなかなか読み応えがありました。
 余りにも高度(レベルの事です)で、途中からは傍観者に徹してしまいました
 今回の議論のように、また、皆さんと夢を語ることが出来れば素晴らしいと思います。

 これを持ちまして、中締めとさせて頂きます(^^;)。




[774] 快慶の高度 -投稿者: 緒方紘一 home page 返信 2003/11/07 16:53:01 del:

緒方です。
快慶の高度、という書き方が悪かったようです。快慶が作品において設定しているはずの「像の高度」つまり高さそのものを意味させたつもりでした。快慶は像を見る人の場からみてかなりの高さに像の位置を設定していたと私は考えます。つまり快慶の高度とは、快慶作品の拝観者からの「位置の高さ」です。
浄土寺阿弥陀三尊像を見れば気付くでしょうが、快慶の作品が拝観者から見てかなり高い位置にある場合、その造形の効果や印象が最もよく現れて見る者に感銘を与える、そういうふうに快慶の作品は作られているようです。つまり、現代の我々の鑑賞している状態では、快慶作品を見るべき位置にないので、顔が違うとか印象が異なるとかの問題が発生するのです。阿弥陀信仰の求道者として快慶は仏の姿を高い位置に想定し、仰いで拝むべき像の姿を表現することを心がけたはずです。だからボストン像も東大寺二月堂像も、あまたの作品も現在の図版の位置や鑑賞位置よりももっと下に視線を持っていき、見学者より高い位置に作品を持ってゆけば、快慶作品には共通した力感がみられることに気付かれると思います。この仮定を踏まえると、東大寺仁王の顔などの修正や補正を行ったのも快慶ではないかと思われます。運慶のデザインだとはるかに前方を凝視する姿になるでしょうから、下から見上げる人の視線を意識した現在の仁王像の造形には快慶をなんとなく感じるのです。運慶快慶のコンビなのだから、オリジナルデザインを運慶が、そして願主の重源との調整や南大門中での変更点をふまえて改修していったのが快慶、ということになりましょう。これを対の定覚と湛慶にも当てはめ得るかはともかく、定覚と快慶の関係を考慮するとなかなか面白い観点が生じます。ひとつの可能性として、東大寺仁王像の現在のデザインは快慶による修正の結果であるかもしれないということが考えられます。快慶と定覚の造形があい近い関係にあるのであれば、快慶と定覚と定慶、そして善円も含めて彼等の関連をどう読み取るかの問題にもつながると考えます。




[770] 快慶の「高度」とは? -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/11/06 23:21:16 del:

緒方先生のご見解について質問がございます。
快慶の作品というのは相当の高度をもつというご見解でございますが、この高度という言葉の意味がよく分からないのです。私なりには二通りに解釈出来るので・・。
一つは造形レベルの高さ、もう一つは造形に込められた思想の高さ、ですが・・。いかがでしょうか。


高度に留意 -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/07 00:44:15 del:

 私もよく解りません。「造形レベル」と「思想の高さ」のどちらが欠けても快慶の造像は不可能だと思いますので、両方だと思いますが、緒方さんが求められる「高度に留意」することは私のような凡人には到底不可能なようですので、快慶を理解することは諦めざるを得ないですね(^^;)。




[768] はじめまして -投稿者: まさ 返信 2003/11/06 21:54:34 del:

はじめまして。東京の大学で彫刻史を勉強しております「まさ」といいます。いつもこのサイトを拝見させていただき、色々な方のご意見を聞き勉強させていただいております。実は今回お願いがありまして書き込みさせていただきました。先日、大津歴史博物館で開催中の「比叡山麓の仏像」を見に行きました。私の後に50人ほどのお年寄りの団体が来たのですが、なんと入館してすぐに皆さんが図録を購入されたので、私が見終わって購入しようと思ったときは既に完売になっていました(涙)もし、余分にお持ちで譲っていただける方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけませんでしょうか?よろしくお願いいたします。


ホントですか! -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/07 00:24:54 del:

 参ったなぁ。私も行ったときに購入すればいいやと思って、まだ行っていないのです。
 素晴らしいという話は聞きますが、やはり、比叡山は日本仏教界の母胎であり、人を惹き付ける魅力があるのでしょうか。
 何とかしなくっちゃ。


大津市歴史博物館 -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/11/07 09:14:30 del:

もう完売になったのですか。やっぱり500円で手頃感がありますからね。古佛スタッフで大津歴博の特別展に最初に行ったのが栗東さんでしたが、彼女がその際に私たちスタッフ21名全員の分を購入しておいてくれましたので助かったのです。
古佛スタツフに入った際のルールブックに「博物館の図録は入館後すぐに購入のこと」とあるのもうなずけます。図録の重版とか再販とかはなされないのでそれこそ早い者勝ちなんですね。
でもこうした図録は手放されるのも早いようで、半年ぐらいしたら京都や大阪の古書店に出回ってくるんですよ。それを待って出たら購入するという手もありますね。




[767] 眞琴さんへ -投稿者: 毛坊 返信 2003/11/06 00:54:55 del:

毛坊です。私も眞琴さんへ。
中性院像と峰定寺像とを定覚と推定する考え方は、論文中で水野氏も記しているように元々建築史の太田博太郎氏の提唱された考え方です(たしか「奈良の寺」の『南大門と二王』)。まず東大寺中門二天でも大仏殿脇侍観音でも快慶と定覚が組んで仕事をしている点に注目して、快慶も定覚も俊乗房重源が意図していた宋風導入を実現出来る仏師だったのではないかと推測する。その上で宋風が顕著だけれど快慶とは作風が異なる中性院像、峰定寺像を定覚の作と仮定する。そういう論理であったと思います。
その後南大門二王像で湛慶定覚という組み合わせが知られたわけですが、上の説はこのことに影響を受けるのかどうか私も知りたいところです。
相模さんも触れられたように私が以前にお話を聞いて大変示唆を受けた山本勉氏は、『日本仏像史』で定覚に擬せられるこれら2像と善円との親近性を説いていますから、上の説を依然認めているのでしょう。
賑わいを見せた定覚定慶関係論のたしにするんだったら、定慶の興福寺梵天像の顔とこれら2像の顔、さらに定慶維摩と対の文殊の顔を比べて見るのも面白いかもしれないですね。




[763] 国華1000 -投稿者: 緒方紘一 home page 返信 2003/11/05 20:54:58 del:

緒方です。
>眞琴さんへ
国華1000の文は大部分が古佛の文献に収録されていますので認められていないかどうかはともかく、相模さん結城さんら古佛スタッフの内では周知されていることと察します。この水野氏説にお二人が言及されないのは、快慶の作風との絡みにおいて水野氏説を受け入れるかについて相模さん結城さん両人が決めかねているからだろうと拝察しております。
もし東大寺中性院像と峯定寺像を定覚の作と仮定しますと、その作風が快慶のそれに似る点をどう考えるべきかの問題が生じてくると思います。そういう事情から相模さんも結城さんも言及しておられないのでしょう。


仰るとおりです -投稿者: 相模未知 home page 返信 2003/11/05 21:30:18 del:

>緒方先生
さすが!するどいですね。仰る通りです。これからも勉強します。
>ゆーみん
『仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書』第21集は読みました。「後白河院政期の仏師と仏像」ですね。あと第28集の「院政期の作善と美術」も楽しいです。
>毛坊さん
ここ数日の鎌倉仏師論への真剣な取り組みように心より敬意を表します。山本先生にも宜しくお伝え下さい。




[761] 質問 -投稿者: 眞琴 返信 2003/11/05 00:58:49 del:

初めて書き込みします。鎌倉時代の彫刻史を卒論に選ぼうと思っている学生です。
定慶と定覚のおはなしがスゴク深まっていて勉強になったのですが、わからないことがあるので質問します。前に学校のゼミで宋風彫刻を担当したときに勉強したのですが、水野敬三郎先生の「宋風美術と鎌倉彫刻」(「国華」1000)という論文で、東大寺中性院の弥勒菩薩像や峯定寺の釈迦如来像が定覚の作の可能性があると書いてありました。皆さんのおはなしの中にこの2つの作品がでてこないのですが最近はこの説は認められていないのですか。


定覚 -投稿者: 櫻井 返信 2003/11/05 02:11:43 del:

>東大寺中性院の弥勒菩薩像や峯定寺の釈迦如来像が定覚の作の可能性があると・・・
初めて伺いましたが納得ですね。
いくら時代の移り変わりに敏感な快慶といえどあそこまで宋風彫刻を取り入れるか?
と疑問に思っていましたが定覚かどうかは分かりませんが快慶でないと思うと少しほっとします。

ほんとタイムマシーンがあったらいいのに。。。


善派? -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/06 00:31:38 del:

 東大寺中性院像と峯定寺像の定覚説は知られていますが、特に東大寺中性院像の小振りな目鼻立ちや、流れるような小気味よい衣文線などが、東大寺指図堂の釈迦如来坐像の作者である善円を中心とする善派の作品に近い様式を持つことも指摘されており、善派に繋がる作品という見方もあるようです。
 私は快慶や慶派を感じませんので、後者に親しみを感じます(善派を派として認めるかという問題もありますが)。




[759] 結城美穂さんに… -投稿者: 毛坊 返信 2003/11/04 19:38:18 del:

毛坊です。
夕べ書いた「南大門吽形像の造形と、春日大社舞楽面、興福寺東金堂維摩の造形とを、同一人物の作風として捉えることは出来ないと思うのです。」の、「同一人物の作風」という個所は「同質の作風」と書くべきところを間違えました。ごめんなさい。結城さんが「同一人物どころか、どっちも定慶だ、なんて誰も書いてないですよ。定覚と定慶、なのであります。」とおっしゃる通りです。
それにしても、結城さんがどうして運慶中心の鎌倉初期彫刻史観にこれほど反発なさるのかな、という興味を私は持ち始めました。このことをこれから自分の反省すべき問題として考えてみたいと思います。もっとも、私は結城さんのように現在までの鎌倉彫刻史研究を「いままでのつまらない鎌倉彫刻史じゃないの??」と切り捨てることは到底出来ませんが。
それから、しつこいようですけれど、「興福寺の造仏は大部分が定慶なので」とおっしゃるのはいくらなんでも乱暴過ぎますよ。史料で考えることを極力避けるにしたって、興福寺再興経過の中で、お堂による造営方法の違い、そしてそれによる仏師の選択方法の違いっていうのは考慮しなけりゃいけないと思います。最初の内は興福寺再興造仏の主体は院派円派なんですから。
私も仏師の夢を語りたいと思う者です。そして夢を語るためにも、今残されてる作品や史料の語るところを出来る限り丁寧に読み解いていきたいと思うんです。その方がより深く大きな夢が見られると思うんです。


感謝です -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/11/06 23:14:45 del:

毛坊さんの御言葉に同感です。ここの皆さんが一様に仏師の夢を語りたいと願っておられるのですよね。
定慶の件はそんなに乱暴かなあ。まあ安直なのは自分でも分かっていますよ。興福寺再興造仏の主体は院派円派だったのは分かりますが作品が現存していないのではどうしようもないじゃないですか。作品が無いからといって史料や憶測を重ねて推定だけで構築されてきた既存の鎌倉彫刻史、これは相当危なっかしいなあ、と常に感じるので、運慶論中心にもっていかれがちな研究動向というのにも危なっかしさを感じるのです。定覚、定慶を、善円、善慶をもっともっと理解して奈良仏師全体のイメージを具体的にしてほしい、といつも思うのですよ。




[758] 快慶 -投稿者: 櫻井 返信 2003/11/04 02:53:26 del:

春日定慶・・・。かなりレベルの高い話になりましたね。。。とても勉強になります。
つぎは快慶ですか。。。これも楽しそうですね。とりあえず無知な私ですが思ってることを書き込みさせてもらいます。

アン阿弥時代・法橋時代・法眼時代と分かれて考えられていたと思うのですが、特に謎に思うのが法眼時代なんです。
というのはお顔は兎も角、体つきなんですが私には行快等がかなり大きく関わっていたとしか思えないのです。
今の時代もそうですが弟子が台座や光背を作るのは当然ですが師匠の名前で弟子が製作に入り師が監修、お顔を決めるというのは、よくあることです。
少し話を遡りますが作風からだけ観てこれは誰のだ。いや違う誰々のだ。とは一概に言い切れないと思うのです。
例え快慶と銘が入っていてもその中で担当した小仏師が変わっていくでしょうしそれがある意味、快慶でいうアン阿弥時代・法橋時代・法眼時代なんじゃないかと私は思います。。。。あくまで実体験と写真等を見ただけの底の浅い意見なんですが、どう思われますか?


快慶 -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/04 23:39:17 del:

 快慶の場合、特に初期の像が、顔つきだけでなく、像容も大きく変わっているのは、時代の要望に敏感だった快慶の精神構造の変化と漠然と考えていました。
 東大寺俊乗堂阿弥陀や、公慶堂地蔵、僧形八幡、浄土寺阿弥陀等に快慶の面影を追っていたのですが、確かに浄土寺像は巨像ですから多数の仏師が参画したでしょうし、僧形八幡にしても28名の小仏師が加わっていますからね。
 仏像の像容が多くの仏師の技量の最大公約数で表わされるとすれば、初期の像容の変化は、快慶の心変わりではなく、弟子達が快慶の理想を理解する過程であったといえるのでしょうか。
 それでもなお、ボストンの弥勒菩薩像の面相と側面観は理解できない。

 緒方さんから、お前は全く解っていないと貶されるでしょうけれど。


恐縮です -投稿者: 緒方紘一 home page 返信 2003/11/05 21:34:35 del:

管理人様、とんでもございません。
快慶の作品については、まず高度に御留意いただければ、ボストン弥勒菩薩像の面相と側面観も理解出来るのではないでしょうか。




[757] 快慶 -投稿者: 緒方紘一 home page 返信 2003/11/04 00:20:55 del:

緒方です。
奈良ちゃんも戻ってきて安心しましたね。金沢はいかがでしたか。石川県博の能登仏像紀行はどうでしたか。私は来週に骨皮氏、黒田氏らと共に行きますので楽しみです。
近藤君、快慶の顔について色々な意見がありますが、みんな根本からして正しく快慶の顔をとらえていないのではないかと思います。浄土寺や高野山の作品に示される通り、快慶の作品というのは相当の高度を持っているのです。それに見合った視点を持たないと快慶の彫刻の本質は見えてこないんじゃないかと私は思います。




[756] 上染屋不動堂 -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/04 00:15:41 del:

 今日、文化財ウィークで公開された上染屋不動堂の阿弥陀如来立像を拝観してきました。雨天時はレプリカの展示ということでしたので、どうかと思いましたが、何とか雨ももって、無事拝観できました。
 今まで、善光寺式阿弥陀というと、フーンという像が多かったのですが、造形的にこれほど素晴らしいとは思いませんでした。善光寺像と同様、戦の守り本尊として各地を転戦したとされていますが、火中もなく、衣文の鎬も美しく残っています。ついでに本堂のレプリカも拝観しました。レプリカも足先の欠損部や、背面の銘文(本物は背面が見えないが)まで忠実に再現されており、これが本物といわれても分からなかった程良くできていました。

 定覚と定慶ですか。私は、藤末鎌初の時代は、仏像の様式の変化としては興味がありますが、仏師論には余り興味が無いものですから・・・。と、一応逃げを打っておく。
 「The Quality Seminer」に依れば(^^;)、定覚専務と定慶常務で一つ違いですが、定覚は、作品として余り残されていませんし、何とも判断できません。

 ただ、この時代は、定朝の時代の様に技量のある仏師が芸術家然としていれば引く手あまたで仕事が来るといった状況ではなく、多くの仏所が乱立し、需要と供給のバランスが崩れてきている時代ですので、取りあえず仕事を確保することが先決で、取れた仕事は納期も短く、多くの仏師が共同で仕事をしたため、仏師の組合せも場当たり的で(一応言われるようなグループは存在したでしょうが)、仏師個人の特性を希薄にしていった時代ではないかと思います。
 何せ、東大寺仁王像は兎も角、東大寺僧形八幡坐像など等身大の像でも、快慶のもと28名もの小仏師が造立に携わったということですから。
 このように、師弟相伝という風習は徐々に希薄になっていき、仏像彫刻が鎌倉中期以降形式化に陥いる遠因となったのではないでしょうか。
 また、僧綱も定朝の時代には仏像彫刻を通じて、仏教の隆盛を助けたことによる功績に対する評価であったものが、次第に仏師に対する単なる肩書きとなり、僧綱位の譲渡も、現代の選挙で地盤や党公認を息子や秘書に譲るように、組織防衛の具として行われた側面もあるでしょうし、僧綱位自体の基準や価値も前の時代とは比較できないものになっていたでしょう。ですから、僧綱位の格付けだけでは、仏師の実力は判断できないと思います。
 今年の秋の叙勲からは勲章授与基準の変更により、国際的に高い評価を得た企業中小企業経営者も叙勲対象になるそうです(今までなっていなかったの??)。




[755] おー!! -投稿者: 奈良敦子 home page 返信 2003/11/04 00:14:23 del:

奈良敦子でありますー。
おー、久しぶりなのであります。
金沢から帰ってきてみたらいつのまにか藤鎌センセイの論に刺激されたような成り行きになってるであります。なんだかスゴイのであります。
毛坊さんは東京の方ですか?毛坊さんの書き込みは、なんだか教科書みたいであります。




[754] 運慶?? -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/11/04 00:07:46 del:

>南大門吽形像の造形と、春日大社舞楽面、興福寺東金堂維摩(定慶の忿怒形の基準作はこの二つだけ)の造形とを、同一人物の作風として捉えることは出来ないと思うのです。
同一人物どころか、どっちも定慶だ、なんて誰も書いてないですよ。定覚と定慶、なのであります。
>惣大仏師運慶の作風が前面に出たものだという意見に賛同しています
結局これが大前提になっているんですね。まず最初に南大門仁王像は運慶作、とする見方があるから。
>南大門吽形像という仲介点が無ければ、定覚と定慶との接点は名前の“定”という文字だけになってしまうと思うのですが
なにも無理して南大門吽形像を挙げなくても定覚と定慶との接点は想定できるような気がします。興福寺の造仏は大部分が定慶なので、康慶と定覚のコンビを推定出来れば康慶から運慶、定覚から定慶という奈良仏師一門の二本柱が浮かんでくる・・のかな?
皆さん、さっそく『仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書』第21集を探して読んでみましょう。私もまだ読んだことがありませんので急いで探そうっと。
みっちゃんは読みましたか?




[753] もう一度定覚と… -投稿者: 毛坊 返信 2003/11/03 23:34:56 del:

断じて史料至上主義ではない毛坊です。それに相模さんの真摯なご執筆を心から支持する者であることも付け加えておきます。
定覚と定慶の論について、少し整理させてくださいね。
たびたび出てくるように定覚単独の基準作品はありません。それなのに皆さんの定覚定慶関係論が始まったのは、平成三年の『仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書』第21集に載ってる浅井和春氏の報告の中で、浅井氏が南大門二王の吽形像の造形が運慶のそれとは異なる“激越”なものだとされ、それは定慶にも通ずるもので、納入経奥書に名の出る定覚の作風を示すのではないか…とされた推定に拠るのではないでしょうか。私はつい最近まで浅井氏のこの意見の発表場所を知らず、ずっと探していてやっと分かったのですが、そもそもこの意見の妥当性を検証することから始めないといけないと思います。
この意見は作品観照に基づいた芸術学的な見解なのでしょうか。私にはそうは思えません。南大門吽形像の造形と、春日大社舞楽面、興福寺東金堂維摩(定慶の忿怒形の基準作はこの二つだけ)の造形とを、同一人物の作風として捉えることは出来ないと思うのです。もちろんどちらにもたいへんな迫力があります。どちらも迫力がある、どちらも激情的だ、どちらも激越だ…。だから二つの作風は同じものだ。これは言葉を仲介したために、異なるものが同じものになってしまう、誤った論理の一つの例ですね。
私は南大門吽形のかなり大掴みな作風は、一見大胆に見えるけれど繊細な写実を基調にした定慶の作風とは異なると思います。惣大仏師運慶の作風が前面に出たものだという意見に賛同しています。やっぱり吽形像は、定慶の像よりはるかにものすごい空間を創り出してると思うのです。
ともかくこの南大門吽形像という仲介点が無ければ、定覚と定慶との接点は名前の“定”という文字だけになってしまうと思うのですが、どうでしょう。




[752] 鎌倉彫刻 -投稿者: 近藤真琴 home page 返信 2003/11/03 17:51:57 del:

近藤です。
いま定慶や定覚を中心に鎌倉彫刻の話題で賑わっておるようですが、自分としては快慶とその仏師集団の動きにも興味があります。
運慶は東へ、快慶は西へ。このありかたは企図されたことだったのかという気がします。奈良は定慶が確保しているのであれば。
いずれにせよ、慶派一門の広範囲な活動計画というのがあって、東国、西国、奈良を分担しての造立活動がなされ、それが鎌倉彫刻の流れを作ったかと私は考えております。
なかでも快慶一門の仏像は当然快慶の作風を真似たものが多いのですが、まだ他にも何か重要な要素への視点があるべきもののような気がしています。これは考えすぎなのでしょうか。




[751] 吉備の泣き鬼 -投稿者: 相模未知 home page 返信 2003/11/03 12:40:07 del:

>緒方さんへ
例の連載は「かわら版」にも載せる予定ですが、時期が未定です。
>毛坊さんへ
定覚−定慶、定覚−覚円の関係については出雲の書き込みと同じ考えでおります。
>ゆーみんへ
「造形」から考えるとどうしても従来の解釈と異なる場合があります。微妙で深いんですが、ある程度は歴史学や美術史学の見解と似通った部分がなければ情報の共有化は難しそうです。そこに芸術学の限界もあるし、逆に美術史学の狭さも浮き彫りになってきますか。本当に難しいです。

>高見さまへ
定慶、定覚に関する御高見をお聞かせ下さい。




[750] 定覚 -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/11/03 09:39:39 del:

美希も定慶ワールドに参加してくれて嬉しいな!定覚と定慶のつながりはあんまり言われてこなかったのでそれだけで新鮮な気分になれますね。
みっちゃんの定慶論は、作風とか造形をどう捉えるのかから出発しているから、芸術学的な観点がまずあるのですね。文献の記載と切り離して純粋に「造形」を考えるのも一つの選択肢なのです。だからある意味面白い。正しいとか間違ってるとかいう問題ではないのです。ましてや仏師の僧綱位がどうだったというのとはまた別の次元の問題になるのです。歴史学者と美術史家のコンセプトの違い、というよりももっと微妙で奥深いものなのでしょうね。
定覚については、彼自身の単独での制作作品が遺されていないので、やはり定慶の作品から推察しつつ定覚の造形の位置を想像するしかないですね。面白いけれど、難しいなー。




[749] 春日定慶 -投稿者: 出雲美希 home page 返信 2003/11/03 09:24:44 del:

出雲美希です。
定慶は定覚の弟子か息子だろうというのはたぶん合っているのでしょう。
定覚が覚円に法橋を譲ったのは東大寺造仏の上なので、東大寺フィールドでの地位というニュアンスが感じられます。定慶は興福寺フィールドにおいては定覚から一切を任されて奈良仏師の基礎固めを行っていたのではないでしょうか。定覚の下に覚円と定慶の二人がいて、それぞれが東大寺と興福寺の造仏に従事し、覚円に法橋位が譲られるという形なのかもしれません。
定覚−定慶の流れは、東大寺仁王と興福寺南円堂四天王、旧西金堂金剛力士との作風的な近さから推定されてよいもので、文献史料の記載には表われていない部分なのかもしれません。定覚−覚円というのは、定覚からみて直系的な流れなのかもしれません。この場合は定慶は分家ということになるでしょうか。
高見さまの御指摘のとおり、「資料は今あるものが全てとは言えないでしょうから、やはり作品にあたって考えるのが賢明」ではないでしょうか。
毛坊さんは史料至上主義のお方みたいですね。




[748] 仏師の僧綱位 -投稿者: 毛坊 返信 2003/11/03 02:29:43 del:

毛坊です。仏師の僧綱位について考えてることを書いておきます。
やっぱりこの種の位というのは出自がかなりものをいうようです。康慶が法橋、法眼までいったのは、ある程度出自が悪くなかったんでしょう。康慶って九条兼実に堂々と意見をいったり、興福寺南円堂や東大寺大仏周辺の仕事をとってきたり、すごく政治力があったと思うんですが、それにはきっと背景があるんでしょう。定朝の直系であるという成朝の権威とは又違った意味での。
もちろん、そこには限界があった。興福寺供養のときにも大仏殿供養のときにも法眼康慶は賞の対象になるんですが、興福寺では追って沙汰するとあって、大仏殿では法眼を運慶に譲って、結局法眼で生涯を終わります。
法眼の上の法印の位は息子の運慶が、奈良仏師では初めて到達するのです。もちろん芸術家としての実力もあったのでしょうが、親の力でスイスイ法眼まで来ていたことはやっぱり大きいはずです。運慶の長男の湛慶なんて、運慶の七光でかなり早くに法印にまでなっちゃいますよね。
一方快慶の場合はおそらく出自が良くなかった。重源との出会いがあったから東大寺の大きな仕事に参加したけれども、なかなか位はもらえない。折角の法橋の賞を運慶の息子に譲らなけりゃいけない時もあった。悔しかったでしょうね。アン阿弥陀仏の法号を使うのには悔しい気持ちを隠す意味もあったと思います。そして、南大門の二王を造って、やっと法橋になれた時はそれは嬉しかったでしょうね。だからもうその後の作品ではアン阿弥陀仏を止めて、巧匠法橋快慶とサインするんでしょう。この後法眼まで行くのは、正に快慶の努力のたまものかもしれません。
僧綱位というのはこういうものだということを認識しておく必要があると思います。快慶よりも早く法橋になっている定覚、快慶と同時に法橋になった覚円、とにかく法橋にはなっている善円(善慶)、そして僧綱位に就いた形跡の無い定慶、法眼まで行っている肥後定慶…。もちろん時代の変化も考慮する必要がありますが、各々の仏師の性格を考える場合に僧綱位という前提を考えることは大事だと思います。




[747] インターネット御開帳 -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/11/03 01:32:17 del:

 六波羅密寺で、空也上人生誕1100年を記念して、本尊十一面観音立像の御開帳を11月一杯行っています。
 また、三年前の御開帳でも行われた、インターネット上での公開も、8日までに限って行われています。空也上人の写真も同時に公開されています。
 前も書きましたが、インターネット時代の新しい試みとして定着すれば良いと思います。
 
 とうとう定覚に入ってきましたか。東大寺仁王像の解体で注目されましたが、まだまだ分からない点が多い人物ですから、皆さんの推理(?)に期待したいですね。
 資料は今あるものが全てとは言えないでしょうから、やはり作品にあたって考えるのが賢明ではないでしょうか。
 ここいらは、歴史学者と美術史家のコンセプトの違いかも知れませんが。




[746] 定覚と… -投稿者: 毛坊 返信 2003/11/02 22:36:24 del:

また毛坊です。相模さんに質問。
以前に「古佛」でも善派がらみで話題になったことがあったような気がするんですが、定覚は南大門二王像の賞を「覚円」という仏師に譲って、この人を法橋にしてますよね。だから定覚―覚円という系譜がはっきりしていると思うんですが、これと定慶との関係はどう解釈なさいますか?
二王の吽形像の納入経の奥書で定覚の名前の下に定慶が出てこないのだから定覚―定慶は難しいと私は思います。また史料に縛られてると叱られちゃうかもしれませんが…。




[745] 吉備の泣き鬼 -投稿者: 緒方紘一 home page 返信 2003/11/02 22:23:18 del:

緒方です。
相模さんに質問が。
例の連載はフュージュンだけなのですか。
古佛ではやらないのですか。




[744] 定派は存在するか -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/11/02 21:36:18 del:

みっちゃん、ついに定覚に言及ですか!
定覚−定慶だとすると、定慶の息子が肥後定慶になるのかな。あり得る話だね。定派なんてのが実際にはいたのかもしれない。定覚が康慶の世代の仏師だったとすると、この定覚こそ奈良仏師集団のなかでは康朝、康慶につぐナンバー3だったのかも。春日定慶がその息子であれば、興福寺造仏の多くを受け持ったほどの存在感も分かるような気がします。




[743] 定慶と定覚 -投稿者: 相模未知 home page 返信 2003/11/02 21:28:47 del:

定慶と定覚は同一人物ではないと思います。
兄弟でもないと思います。
いろいろ考えてみて、定慶はやっぱり運慶快慶より十年ぐらい年下、その父親または師匠が定覚だったのでしょう。つまり、定覚−定慶の系譜を私は想定しています。
定慶は興福寺造仏がメインになってますが、それは興福寺教学復興をなした貞慶との関係においてとらえ、定慶の名もそれに倣ったものと考える事が可能かもしれません。快慶は重源に帰依し、定慶は貞慶に帰依していたという構図が慶派の動きを理解するのには重要でしょう。
定覚は、康慶のよき理解者、補佐役として康慶亡き後の慶派におけるオブサーバーとして活躍、定慶を興福寺において奈良仏師の基盤を固め、運慶を補佐し快慶を支えてきたのでしょう。その働きに対する顕彰としての意味合いが定覚の東大寺仁王像造立参加にあったと私は思っています。




[742] 太っ腹の結城さん -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/10/31 01:24:05 del:

 結城さんの反応に思わず笑ってしまいました。
毛坊さんはいつも真面目で、これを読んでいる皆さんが間違った知識を持ってはいけないと真剣に考えているのです。
 基本的に私は、このコーナーは論文を掲載するところではないので、意図的な嘘は兎も角、夢を育てる場所だと思っています。もちろん賛同すべきは賛同し、異なる意見については反論する自由もあります。
 ここは一つ、皆さんの夢が繋がり膨らんでいくように進めて行きましょう。

 とうとう緒方さんまで参加して下さいました!
 まさに定慶ワールドですね。本人は日の当たらない道を歩いてきたつもりなのに、きっと今頃苦笑していますね。
 ♪どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている♪。
 作例は必ず出てくるのに、系図には出てこない定慶が誰なのか、慶派の生い立ちを知るのには一番重要な鍵を握る人物かも知れません。

 東大寺二月堂の聖観音像については、ボストンの快慶作の弥勒像と造形的にそっくりなのでびっくりしたことがありますが、それにしては面相の余りの相違に戸惑いを隠せませんでした。確かに初期の快慶の像はめまぐるしく顔つきを変えますがそれにしても・・・。どうなんでしょ。




[741] 春日定慶 -投稿者: 緒方紘一 home page 返信 2003/10/31 00:53:14 del:

再び緒方です。
結城さん、ドンと出ましたね。いいですなーそういうのは。

>しかしこれだけ多くの人を魅了し、惹きつけ>る春日定慶・・・なぜ、鎌倉時代の仏師とい>えば(一般の人に聞くと)運慶快慶なんでし>ょう?
>多くの優作を生み出した春日定慶も、もっと>脚光を浴びてもいいと思うのですが・・・。
同感です。私も常々そう感じます。だから相模さんの「定慶」はとても新鮮で面白かったのです。本来、鎌倉彫刻史とは大変に面白いものである筈です。背景にしてもあれだけ変転目まぐるしい激動の時代は日本史の中でも珍しい。そのなかで動いた仏師たちの無数の動きをとらえるのが鎌倉彫刻研究の本命でしょう。
春日定慶についてこれだけ論じられるのは初めてでしょうが、案外これらは鎌倉彫刻研究への様々なポイントを示唆してくれるようにも感じられます。
私は以前に東大寺二月堂の聖観音像を快慶作だろうと書いたことがありますが、そのあたりでも学界での積極的な論考を見ないのです。現在の鎌倉彫刻史研究もまだまだ未解明の部分が大きいようです。







[740] 春日定慶 -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/10/31 00:29:24 del:

あーあ、ホントに水かけちゃった。もおー。
このへんの微妙な笑いのムードを分かってほしかった。
>定慶の銘文に僧綱位は書いてありません、ってのは証拠にもならないのですよー。そんなの威張って書くほどのことでも・・・。
>康慶とかなり深い関係を持ちながら(作風が通じるし、名前も慶の字が共通)、康慶傘下には入らずに、康慶運慶親子の母胎である興福寺内の仏所にずっと留まった人なのでしょう。東金堂の造仏は、そういう仏師がずっと担当したのだと考えられます。緒方さんのいうように十二神将像も、それから金剛力士像も定慶かその関係者が造ったのでしょう。<
そういうのを分かってて皆さん書き込みされているのですよ。全部当たり前の事でしょう。それに史料に書いてある事柄だけにしがみつくだけでいいのですか?
>定覚ですが、やっぱり運慶の弟あたりだと考えるのが自然じゃないですか。<
その「自然」さが私には「不自然」にも通じるのです。慶派仏師を運慶快慶しか見てないから
運慶にくっつければ「自然」だと思い込む。この繰り返しがいままでのつまらない鎌倉彫刻史じゃないの??
春日定慶にやっと光が当たってきたこの感動的な状況をもっと大切にしましょう。独断や偏見でもどんどん言っていいんですよ。仮説や憶測が飛び交うのはとっても楽しくて勉強にもなりますから皆さん頑張って下さい!

緒方先生、東金堂の十二神将像も定慶さんかその仲間が造ったと私は思います。




[739] 定慶 -投稿者: 毛坊 返信 2003/10/30 23:52:04 del:

ときどき出てくる毛坊です。加熱する春日??定慶論にちょっと水をかけにきました。定覚と定慶の同一人物説とか、兄弟説とか、やっぱり無理です。
大仏殿の巨像制作への参加で分かるように、定覚は康慶工房の中で確かな位置を持ち、法橋の位にも就いてる人です。定覚がその位を持ってる時期の、定慶の銘文に僧綱位は書いてありません。
それから定慶の年齢ですが、事跡が初めて見えるのは運慶や快慶とあまり変わりませんから、同年輩かあるいは年上かと考えるのが自然ではないでしょうか。
康慶とかなり深い関係を持ちながら(作風が通じるし、名前も慶の字が共通)、康慶傘下には入らずに、康慶運慶親子の母胎である興福寺内の仏所にずっと留まった人なのでしょう。東金堂の造仏は、そういう仏師がずっと担当したのだと考えられます。緒方さんのいうように十二神将像も、それから金剛力士像も定慶かその関係者が造ったのでしょう。
それから、定覚ですが、やっぱり運慶の弟あたりだと考えるのが自然じゃないですか。




[738] 春日定慶 -投稿者: 櫻井改め歩 返信 2003/10/30 23:51:21 del:

しかしこれだけ多くの人を魅了し、惹きつける春日定慶・・・なぜ、鎌倉時代の仏師といえば(一般の人に聞くと)運慶快慶なんでしょう?
多くの優作を生み出した春日定慶も、もっと脚光を浴びてもいいと思うのですが・・・。




[737] 春日定慶 -投稿者: 緒方紘一 home page 返信 2003/10/30 22:33:10 del:

こんばんは。
緒方紘一と申します。
古佛のみなさんに続いて仮説。
興福寺東金堂の十二神将立像は定慶の作ではないでしょうか。




[736] 春日定慶 -投稿者: 栗東晴子 home page 返信 2003/10/30 21:53:33 del:

栗東です。
このところ春日定慶で独占状態。慶派の人気トップですね。もともと仏像はほとんど国宝になってるから相当の力量だったことは昔から皆が認めている訳です。
作品的には、舞楽面から始まるのもなんだか裏の立役者的な雰囲気を思わせますが、運慶や快慶にくらべるとデフォルメによって人間受けする造形を狙った傾向が強ったのでしょう。分かり易く、たくましく、カッコいい。武家の好みにあわせて三拍子揃えた鎌倉彫刻はそうそうあるものではないと感じています。東金堂文殊菩薩坐像の理知的な瑞々しさは成朝作と伝える仏頭にどことなく似ています。旧食堂の千手観音立像のメリハリの強さも、なんとなく定慶的なタッチを思わせます。
成朝亡き後、千手観音立像の造立を引き継いだのは定慶ではないかと勝手に想像しています。




[735] 春日定慶 -投稿者: 相模未知 home page 返信 2003/10/30 21:39:29 del:

定覚が定慶の弟というのは、親子ほどの年齢の隔たりを想像しにくいからですね。
定の字がつく仏師が同一のグループに属しているとしても、そのリーダーは誰?
たぶん定慶ではないと思うのです。康慶しか候補が浮かばない。
運慶と快慶と成朝はほぼ同年代ですが、定慶はちょっと年下なのかも。さきに康慶に近いかもと書いたけど本当のところは迷ってます。この定慶の位置が決まらないと慶派全体の印象がすっきりとまとまりませんねー。




[734] 春日定慶 -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/10/30 20:29:24 del:

同一タイトルでここまで続くとは、ブレイクじゃないのですか春日定慶さん!!運慶さんがだんだん霞んでゆきますよ。
仮説。
定覚は、定慶の弟とかじゃないのかな。




[733] 春日定慶 -投稿者: 近藤真琴 home page 返信 2003/10/29 23:07:56 del:

近藤です。
ここの盛り上がりは拙ページの京都での成り行きを予感させます。京都四条河原町の菊亭氏の旧宅をいまリフォーム中で、畳と襖を全部取り替え、天井と玄関の壁にはスタッフみんなで壁紙を貼りつけ、ガラス磨きをしました。廃材撤去に一日をかけ、昨日はパソコン四台を設置するために電話線の増設工事をお願いしました。来週には壬生千本の菊亭宅から書棚と書籍資料を運びます。
京都本部移転まであと少しです。
さて、定慶と定覚の同一人物説は、これまでにも何度か出ましたが根拠も史料もないので分かりませんでしたね。おそらく師弟かそれに近い間柄にあったとするのが無難でありましょう。
慶派の彫刻で運慶がなにかと言われますが、彫刻としての迫力とデフォルメ意識の高さは定慶の方が上ですな。運慶はちょっと抑えた造形で進んでいます。一番武士好みの造形がたぶん定慶のそれなのですよ。
慶派彫刻は、運慶ばかり見てたらなかなか分かりにくい面が多いと思います。定慶の仏像のカッコよさは、相当に大きい要素だっただろうと思います。




[731] 春日定慶 -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/10/29 19:48:29 del:

櫻井さまのご意見にふと感じたこと。
>若い感性というのは抑えがたく自分である程度彫れるようになると、ここはこう彫ってみようとか一種の我が出てきます。
これは運慶がそうだったんでしょうか。
快慶はどうだったのかな。
そして定慶はもはや突き抜けてるという気が。
なんだかなー。
でも鎌倉時代の仏師の感覚は、現代人の感覚で捉えられる代物なのかなー。ちょっと疑問に感じています。
でも定慶がこれだけ注目されるのは初めてのことだね。


結城さんへ -投稿者: 櫻井改め歩 返信 2003/10/29 20:50:51 del:

>若い感性というのは抑えがたく自分である程度彫れるようになると、ここはこう彫ってみようとか一種の我が出てきます。>
これは私のことです。
語弊を生むような書き込み・・スイマセンでした。。。
運慶、快慶、定慶に関しては我という言葉が当てはまるかどうか分かりませんが確実にその一人によって進化、改革が有ったと思います。
鎌倉仏師の感覚にすこしでも、近ずけるように精進します。。。




[725] 春日定慶 -投稿者: 相模未知 home page 返信 2003/10/28 23:17:13 del:

>あの時代、色々なアピールを持って一体一体の仏様の前時代にはなかった新しい(その仏様の功徳を解かり易くする為の)表現がなされた

多分そうなのだろうと私も思っています。定慶一人だけでなく定慶グループみたいなのが既に有ったんだろうと思います。運慶グループと比較してみたら面白いかも、ですね。定覚なんか定慶グループの一人だったかもしれないと思います。東大寺南大門仁王像造立の頃には定慶は亡くなっていたのかもしれません。どうも運慶、快慶、成朝らとは世代が異なる仏師のような生がします。康慶に近い年代なのかも。
文殊菩薩坐像は本当にカッコいいですね!あの一種の渋さがたまりませんね。


春日定慶 -投稿者: 櫻井改め歩 返信 2003/10/29 01:56:41 del:

此れは私の何の根拠もない、あくまで推測ですが、春日定慶と定覚。。同一人物なんじゃないですかね・・・。
少なくとも興福寺、春日定慶作諸像は技法、表現等、運慶や快慶よりも前とは想像し難いです。どちらかというと発展させたというほうがしっくりきます。

しかしこういう話ができるというのは本当に楽しいです。自分の周りは後輩ばかりなのでここまでの話はなかなかできなくて・・・

皆様、今後とも宜しくお願いします。。。




[724] 春日定慶 -投稿者: 櫻井 返信 2003/10/28 05:31:41 del:

私はお姿を見てなんとなく体がドンくさく感じました。
あの時代、色々なアピールを持って一体一体の仏様の前時代にはなかった新しい(その仏様の功徳を解かり易くする為の)表現がなされた、というのが私の見解であり、定慶本人にしてみれば、根津美術館像、興福寺像も、その一つなのかもしれません。

しかし何か・・・そう!
南円堂四天王像なんて、明らかに増長天、多聞天の作者と、持国天、広目天の作者は別人のような気がしますし、腕にもかなりの差を感じます。
仏師というのは、すべてを一人で作るわけではなく、かなりの分業制です。
当然春日定慶の下にも何人もの仏師がいたでしょうし、その中の一人一人の腕が違うだけなんじゃないかな・・・と思います。

東金堂文殊、大好きです。。。
かなりかっこいい


質問 -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/10/29 00:02:45 del:

 仏師の櫻井さんが言われるのだから説得性がありますね。
 櫻井さんから見て、巨像の制作や、一つのお堂の一連の仏像を数人で制作する場合の監督者の意図というのは、どのような形で現れてくるものだと思われますか。




[723] 春日定慶 -投稿者: 出雲美希 home page 返信 2003/10/27 23:15:40 del:

盛り上がってますね。春日定慶ってそんなに面白いんですか?じゃあまた興福寺へ行ってこようっと。丹波の石龕寺もぐっと近くなったことだし、私はあんまり鎌倉彫刻を勉強していないのでこれから資料調べて努力します。肥後定慶と比べるのも楽しそうです。もう一人の定慶は時代が離れるから・・・。


面白いかどうか -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/10/29 00:01:14 del:

 面白いかどうかは・・・。それより、丹波と言わず、摂津丹波の仏像を総なめにしてみればきっと面白いと思います。




[722] 春日定慶 -投稿者: 結城美穂 home page 返信 2003/10/27 22:56:01 del:

みっちゃん、さっそく春日定慶だね!
確かに定慶の仏像はある意味カッコいいと思います。ちょっと暴走気味だったり。
でも定慶の基本はもっと地味なところにあってその形は梵天帝釈天にも現われているのかもしれません。動と静、序と破のそれぞれをうまく使い分けて表現した隠れた天才だったのでは。
作品が全部カッコよかったら、定慶はそれしかないのか、ってちょっとつまらなくなりますね。
春日定慶という仏師は、私としては、慶派の中ではけっこう味なことやる本格派であったかも、という気がします。
管理人様、アイコンどうもありがとうございました。京都に引越して一息ついている、どころではなく、社寺見学、博物館巡りに乏しい休日をはたいています。これから頑張ろう。


水を得た魚 -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/10/29 00:00:21 del:

 京都で水を得た魚状態ですか。特に秋は、特別公開やお祭りのイベントが目白押しですからね。余り見過ぎて食傷気味にならなければ良いのですが。




[720] 春日定慶 -投稿者: 相模未知 home page 返信 2003/10/27 19:38:25 del:

「神」様の仏師コーナーに「定慶」を書いた時点で私の頭に浮かんでいたのが興福寺東金堂の文殊菩薩と国宝館の梵天でした。顔からして運慶や快慶のより涼しげなのに妙に熱いものを秘めてる表情、それが「面白い」と感じていました。あの顔で梵天はブカブカの宋風着衣着てるのだから、定慶の試みの大胆さが感じられます。どこかカブキ者みたいなアウトローさが匂うんです。不良というのとは違うけれど、肩で風切って歩いてるような感覚があります。そのあたりに「カッコよさ」がにじみ出るのかな。

櫻井さまへ
根津美術館のは、顔が後補なので残念です。定慶が作った帝釈天の「顔」を見たかったですね。
正倉院展には仏像彫刻はありませんでした。


アウトロー -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/10/27 22:53:42 del:

 たまたまかも知れませんが、如来菩薩の作品を残していないのも裏街道を生きる(?)定慶らしさなのでしょうか。

 悪を演じさせると天下一品の北野たけしといったところか。でもあんなに図々しくないから、松田優作か?




[717] 正倉院展 -投稿者: 相模未知 home page 返信 2003/10/26 22:31:19 del:

昨日、正倉院展に行ってきました。
毎年行っている波多野の話では、年々ボリューム的にしぼんでいっているようだとか。不況のせいかな。解説員の説明も棒読みに近かったのでもう少し工夫してほしいな。
唐招提寺の校倉も、「内部はあんなものか」で感動にはほど遠かったです。興福寺の乾漆像が勢揃いしたのも、高校生の頃に一度見ているから珍しくなかったです。
でも定慶の仏像には感動させられました。運慶や快慶とは異なって定慶には一種の「カッコよさ」があるように思えました。なんでああいうのが慶派の中に出てくるんだろう。


カッコよさ? -投稿者: 管理人 home page 返信 2003/10/27 00:19:52 del:

 今年の目玉は平螺鈿背円鏡で、これは吉備真備が帰国の際、聖武天皇に献上したものだったとか。
 正倉院展は黙っていても人が入りますから、どれだけ真剣に企画しているか・・・。
 今日、富士・瑞林寺の地蔵菩薩坐像をあらためて拝観してきましたが、理知的ではあるけれど、確かにカッコよさは無かったなぁ〜。


定慶 -投稿者: 櫻井 返信 2003/10/27 02:09:20 del:

はじめまして。
いつも読ませて頂いているのですが
少し気になったので書き込ませてもらいます。
定慶の仏・・・カッコいいですよね。
僕も同感です!
正倉院展にはどの仏が出展されていたんですか?
あと、定慶の仏には「肥後別当」以外にも作風が違うものがあるような気がします。
例えば、「東京 根津美術館 帝釈天」これは、とても興福寺に伝わる定慶作と言われている諸像とは、衣のさばき方、肉体のリアルさに、かけるような気がしますし何か・・・おっしゃる様なカッコよさがありません。。
皆さんはどう思われますか?

突然の質問・・・お許しください。。。。



    

 

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