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〜行程〜 11月2日(金):いわて沼宮内駅 天台寺(岩手県二戸市)→ 東楽寺(盛岡市) 盛岡市泊 11月3日(土):正音寺(紫波郡紫波町) → 成島毘沙門堂(花巻市東和町) → 凌雲寺(花巻市東和町)
朝ホテルの食堂に行くとスポーツの試合か合宿らしく、ジャージ姿の高校生らしき男女が入り口で列を作っている。後でロビーで見かけると背中に「排球」とあ
り、バレーボールのことだそうだ。蹴球はサッカーというのは知っていたが、戦時中じゃあるまいし、わざわざ漢字で書くことも無いのにと思うが、蹴球、排球
以外幾つのスポーツを日本語で言えるかとなると心許無い。 フロントの話でこの状況は予想済みだったので、朝食前に盛岡城まで朝の散歩とする。 盛岡城跡は、盛岡市街の中心部に位置し、堀に囲まれた広い公園となっているが、当時の石垣もかなり残されており、ちょうど紅葉が見頃な散歩コースだ。ちょうど天守閣跡からも眺望がきき、盛岡市が見渡せる。
この辺りの道の駅は地元で採れる果物や野菜などを産地直送で格安で売っており、地元の買い物客でごった返している。今は丁度リンゴが最盛期らしく、横文字
の品種や青い王林などが、山積みになっている。試食をしてみると、それぞれ独特の甘さや懐かしさがあって美味しいが、ちょっと荷物になるので買うのをため
らってしまう(といいながら、最後の日に余りの安さに買ってしまった)。 正音寺の周りもリンゴやブドウ畑が広がっており、赤いりんごの実がたわわに実っている。 境内には真っ赤な萼アジサイが今を盛りに咲いている。大きな本堂と鐘楼の間に収蔵庫が建つ。 収蔵庫の中に、中央に等身大の毘沙門天像、両脇に五大明王の脇侍4体を安置している。 五大明王像の中尊である不動明王像は失われており、代りに近世の不動明王の画像が置かれている。 五大明王像は摩滅が激しいが憤怒の像容はよく残っている。 五大明王像の脇侍には、通常水牛に乗る六臂六足の大威徳明王が含まれるのが通例であるが、4体はほぼ同形の二臂の立像である。大威徳明王が失われたため他 の像を置いたのか、元々大威徳明王が造られなかったのか不明であるが、4体はほぼ同工であることから、当初からこの形式であったのかも知れない。 毘沙門天像は面相は穏やかだが、太造りの体躯を持ち、鎧や服制の文様も丁寧で、前垂れの彫刻がよく残っている。 成島毘沙門堂 成島毘沙門堂辺りでは、地元の高校の駅伝が開催されるらしく、道路には交通整理のお巡りさんや、練習をするスポーツウェアーの若者で賑わっている。 毘沙門堂は、かつて学生時代の同好会の機関紙に「蝉しぐれの降り注ぐ中、苔むした山門を駆け抜けたことは覚えている」と書いた記憶があり、田舎びた佇まい のイメージが残っているが、今はお寺の前まで広い道路が整備され、境内は明るく整理されて、山門前には売店もできており、前回のイメージとは随分異なって いるように思えた。 ● 毘沙門天立像 重文 像高348.4cm カンバ 寄木造 彩色仕上げ 附 二鬼坐像2体 鬼左側90.9cm 右側99.9cm 一木造 彩色仕上げ ● 伝吉祥天立像 重文 像高 175.5cm ケヤキ 一木造 彩色仕上げ。 ● 伝阿弥陀如来立像像高141.0cm一木造承徳2年(1098) △ 不動明王立像 市文 像高149cm 寄木造 ケヤキ 室町時代 仏像は以前に拝観した時の本堂裏の収蔵庫ではなくから、さらに奥の一段上がった所に建てられた収蔵庫に安置されている。 新しい収蔵庫は随分広く、以前は見上げるような圧倒観を感じた毘沙門天像もやや威圧感を減じ優しさを感じさせる。しかし地天女から頭頂部まで5m近い一木 で造られているにもかかわらず、幅や奥行きは十分にあり腰を捻る姿勢も自然で破状もなく、木の制限を全く感じさせない。単眼鏡で細部を眺めてもどの部分も 張りがあり、十分な緊張感を感じさせる。これはこの地方故に大木も入手できたこともあるのだろうが、作者の並々ならぬ手腕を感じさせる。 しかし、同時に蝦夷に対する征伐し、帰属させるためとはいえ、これほどまでに大きな像を造立する必然性を知りたい気がした。 毘沙門天像の前に跪く二鬼、二藍婆や吉祥天像も以前に変わらぬ姿を見せてくれる。 吉祥天とされる天部像は、成島でも最古の像と考えられ、頭に象の頭部を戴き穏やかながら悠然と立つ。仏典では吉祥天は毘沙門天の妻とされるが、いつの間にか背丈を追い越したやんちゃ坊主を温かく見守る母親のようだ。 収蔵庫のあと本堂に寄る。現在は仏像は安置されておらず、奉納された沢山の宝剣などが所狭しと懸けられている。 内陣にはかつて毘沙門天像が安置されていた狭い厨子があるが、この中に安置された状態では正面からは足元や頭部は見えないと思われ、厨子を覗き込んで顔を見上げた時にはさぞかし威圧感を感じたことだろう。 凌雲寺は東和町の中心部に近い、東和ICのすぐそばにある。 11: 30から法事があるので11:30を過ぎてからにして欲しいとの連絡があり、早めについたため仁王門の仁王を拝観しながら法事を待つことにする。仁王像は 県文であるが、誠に素朴な像である。まるでお相撲さんのマスコット人形のようだ。仁王門を入ったところに太い幹だけの木があり、その木の回りに大きなキノ コが沢山張り付いている。雰囲気はナメタケの親玉のようであるが、かさの大きさが30cmはあろうかという大きなものだ。 「ちょっと不気味で毒キノコかも」、「でも美味しそう」、「食用だったらこんなに大きくなる前に誰かが採って行くだろう」、「これだから都会の人間はいやだ、人の家から勝手に貰って帰ろうなんて人はここには居ないんだよ」と議論白熱。 帰って調べたところ、ツキヨタケという毒きのこで、山門の再建の際枝を切られた樹齢200年以上のモミジが枯れ始め、この巨大なキノコが群生し始めたらしく、地元の新聞でも紹介されるなど話題になったそうだ。 ツキヨタケはシイタケ、ヒラタケ等と間違えられることが多く、日本の茸中毒の約半数はツキヨタケによるものだそうだ。 オー、クワバラクワバラ。 ○ 伝十一面観音菩薩立像 県文 像高157.2cm。 ○ 伝十一面観音菩薩立像 県文 像高166.6cm 一木造 彩色 ○ 仁王像 県文 像高阿形像275.0cm 吽形像273.0cm 寄木造 彫眼 彩色 ちょうど2組の法事の最中であったが、それが早めに終わり、本堂に招き入れて下さった。 但しご住職はどうぞご自由にとばかり庫裡に戻られてしまった。本堂の脇室に二体の十一面観音と薬師如来立像が安置されているが、安置も無造作で、一体の十 一面観音などは、自立出来ず、頭の後ろに枕を当てて壁にもたれ掛っている。中央の十一面観音像は天衣や裳などの衣文を省略したざっくりとした彫口ながら、 一木造で古様を示す像である。頭上の化仏も共木から彫出している。面相は眼と鼻を大きく造りだし特異な顔立ちを持っている。 もう一体の十一面観音像は更に地方風の像で、衣文や足先など未完成の部分もあるように見える。薬師如来立像はこれも足先が外れており自立できないが、平安中期の様式を伝える正統派の像である。 山門の仁王像を含め、これらの仏像は、同じ東和町の丹内山神社に伝わったもので、明治初年の廃仏毀釈の際に当寺に移されたものである。 丹内山神社は、もと大聖寺権現堂と呼ばれ、坂上田村麻呂が蝦夷征伐を祈願して参籠したと伝えられる場所で、境内には凌雲寺と同工の十一面観音立像が残されており、蝦夷に対する威圧と共に、仏教を広めるために多くの寺院や仏像が造られたことが想像できる。 境内からは東和町の町が眺められ、遠くの山裾で野焼きの煙がたなびく懐かしい風景が広がる。
宮さんという管理の方が、待っていておられ、東北の歴史や満福寺の歴史、毘沙門天の由来を説明して下さる。 この当たりの一山一帯は平安時代に定額寺として建立された極楽寺が建立されていた場所で、立花毘沙門堂はその一院であったという。極楽寺自体はその後廃絶したが、毘沙門堂は万福寺として残り、明治初年の廃仏毀釈の際にも、若杉神社に付随する像として守られてきたという。 そのため、この地域の人々は神として信仰しており、今も柏手を打ってお参りするという。 ● 毘沙門天立像 重文 像高102.1cm 一木造 カツラ 彫眼 彩色仕上げ 全身に ● 二天王立像 重文 像高160.5cm、154.5cm カツラ 寄木造 彩色仕上げ △ 毘沙門天立像 市文 △ 慧光童子立像 市文 毘沙門天像は小像ながら動きのある像で、全身に細かい横向きのノミ跡が残されている。本像は、成島、藤里と並ぶ毘沙門天立像として知られているが、他の二体が兜跋毘沙門天像であるのに対し、本像だけが通例の毘沙門天像であり、岩座に乗っている。 二天像は四天王像の内の二体が残されたものとも言われるが、豊満な体躯で両手を広げ上下にかざす仕種は踊っているようにも見える。本像は古様で素朴な本尊 毘沙門天像に比較すると時代はくだるものの藤原様式を踏襲する像で、平泉文化の影響を感じさせる。二天像が踏む邪鬼は後補であるが、愛らしい姿をした鬼 で、宮さんの招きで後ろに廻って見ると、頭髪を後ろでカールさせたおしゃれな鬼であった。
万蔵寺及び白山神社の諸像が寄託され展示されている。 鉈彫像として知られる万蔵寺の本尊薬師如来坐像は万蔵寺のお堂に秘仏として安置されているが、その他のほとんどの像が当館に寄託されている。 朽損して原形を留めない像も多いが、当地の山岳信仰、修験信仰を思わせる像である。 ○ 薬師如来坐像 県文 像高72.0cm カヤ 一木造 万蔵寺蔵 ○ 女神立像 県文 像高52.0cm カツラ 一木造(市立博物館寄託)万蔵寺蔵 ○ 男神立像 像高108.4cm カツラ 一木造(市立博物館寄託)万蔵寺蔵 ○ 男神立像 像高110.0cm カツラ 一木造(市立博物館寄託)万蔵寺蔵 ○ 男神立像 像高155.0cm カツラ 一木造 ○ 十一面観音立像 像高173.0cm カヤ 一木造(市立博物館寄託)万蔵寺蔵 ○ 十一面観音立像 像高180.0cm カヤ 一木造(市立博物館寄託)万蔵寺蔵 ○ 聖観音立像 像高117.0cm カツラ 一木造 ○ 聖観音立像 像高182.0cm カヤ 一木造 △吉祥天立像 市文 ○ 十一面観音菩薩立像 県文 像高56.5cm 一木造(市博物館寄託)白山神社蔵 ○ 男神像 県文 像高49.3cm カヤ 一木造(市博物館寄託)白山神社蔵 ○ 蔵王権現像 像高50.0cm カツラ 一木造(市博物館寄託)白山神社蔵 男神像と女神像は、神像ながら愛らしく優しい像である。男神坐像と、蔵王権現像は、小像ながら眉間に皺を寄せた独特の表情がユーモラスでもある。 等身大の二体の十一面観音像は、細部を省略した彫り口ながら、量感のある像である。 古代コーナーには、この付近一帯に建立された国見山廃寺(極楽寺)跡の発掘調査に基づく伽藍配置のジオラマが造られている。全てが発掘されているわけでは無いそうだが、これだけ大きな寺院であれば朝廷の定額寺であったというのも肯ける。
国道からかなり奥まった所集落の小高い山の中腹に本堂と収蔵庫が建つ。 途中に所々毘沙門天像の写真を使った大きな看板が立つが、とても沢山の拝観者が訪ねるとは思えない静かな農村の佇まいである。 藤里毘沙門堂は、豊田館の東に位置しており、更に東の種山ヶ原(物見山)と共に胆沢城築城後も未だ政情不安であった当地の守り神として信仰されたと考えら れる。愛宕神社の境内にあり、元は吉祥山智福寺の毘沙門堂であったが、排仏毀釈後神社に改められたことから、智福神社とも呼ばれている。 ● 兜跋毘沙門天立像 重文 像高175cm トチ 一木造 ● 十一面観音立像 重文 像高168.0cm カツラ 一木造 ○ 毘沙門天三尊像 毘沙門天 像高189.0cm吉祥天 像高95.0cm善賦天 像高91.0cm カツラ 一木造 本尊兜跋毘沙門天像は、毘沙門天像は両掌の上に掲げる地天女まで含め、全身に横向きの細かい鑿痕を残している。地天女の両掌に乗り直立して眉を寄せて彼方を見つめる崇高な姿を見せる。 正面に安置されるもう一体の毘沙門天像は、本尊よりも時代が下り、鎌倉時代の制作と見られるが、本尊と同様細かい鑿痕を全身に残す鉈彫像である。面相や鎧の文様も鋭く鎌倉時代の厳しさを持っている。 収蔵庫にはその他、十数体の像が並んでいるが、ほとんどが朽損仏である。 中でも、僧形の像は、上半身を残すのみで、面相も朽損が激しいが、本尊兜跋毘沙門天像とほぼ同時期の制作と考えられる像である。本尊と同様に全身に鑿痕を 残した鉈彫像である。かろうじて残された片袖は柔らかく丁寧に表されており、森厳な表情は、この地方に多く伝えられる神像として造られたものかも知れな い。 これらの像は現在収蔵庫の下に残される毘沙門堂に安置されていたものであるが、付近の多くの廃寺から集められたものなのであろう。破損仏ながらそれぞれが魅力あり見飽きない。
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