貞観の息吹き 
高見 徹

52.  善福寺 毘沙門天立像(三重県津市安濃町連部−あのうちょうつらべ)

 善福寺は、現在の南西に当たる今徳(こんどく)付近にあった天台宗延暦寺の末寺、正蔵院が前身という。
 正蔵院は、後奈良天皇祈願所として天文年間に建立されたと伝え、戦国時代には伊勢国司北畠家の家臣「北畠二十四将」の一人であった、今徳城主・奥山常陸介の祈願所であったと伝わる。 
 その後、織田信長に焼き討ちに遭い、元禄年間に現在の地に移された。

 正蔵院跡とされる場所からは布目のある瓦が出土しており、奈良時代頃から当地に寺院の存在していたことが推察される。

 現在善福寺の収蔵庫に安置される毘沙門天立像も、かつては正蔵院の本尊として伝わったものと伝えている。
 本像は、頭頂から足先までヒノキの一木から彫り出した一木造の像で、内刳も施されていない。両腕は、肩・肘・手首で別材を矧ぎ付けている。
 頭部は宝髻と、花をあしらった大振りの宝冠を付け、面相は顔一杯に彫り込まれた大振りの目鼻立ちに忿怒の形相を表している。大きく開けた口の中には朱色が残っており、本来は、全身に彩色が施されていたものと考えられる。
 体部は、中国風の甲冑を着けて腰を大きく右に捻り、左足を遊足として邪鬼を踏みつけて立ち、右手は、腰で三叉戟を持ち、左手は、肘を曲げて前へ差し出し、宝塔をを捧げ持つ。

 両手首から先、天衣の遊離部・三叉戟先端部・大袖先端・鰭袖の一部・裾先・及び台座等は後補であるが、全体的にはほぼ制作当初の姿を残している。
  首が肩にめり込んだような太い首や短躯で太造りの体躯は、古い様式を伝えており、やや大袈裟ながらバランスも良く、像に動きを与えようとした作者の意図が 感じられる。
 しかし、甲冑や衣裳の彫りも明瞭ではあるがやや浅く、細部は省略されており、また全体的には穏やかで動勢感にやや乏しく、藤原時代に入ってからの制作と思われる。



 






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