貞観の息吹き 
高見 徹

35.  禅定寺 如聖観音立像(島根県雲南市三刀屋町)

 出雲地方では、古くから古代の製鉄設備である「たたら」による製鉄が盛んに行われていた。現代でも日本刀はたたらで造られる玉鋼がなければ出来ないとされており、現在も技術伝承のために「たたら」が復元され玉鋼の生産が行われている。

 禅定寺のある三刀屋は、生産された鉄を斐伊川を通って運び出す水運の拠点であった。鎌倉時代には、地名からその名をとった三刀屋氏が、交通の要地であった三刀屋や木次などを支配していた。

 禅定寺は、奈良時代に創建されたと伝え、鰐渕寺や清水寺と共に出雲地方を代表する古刹である。戦国時代には、大内・尼子・毛利氏等の兵火で伽藍を再三焼失したが、江戸時代になって、松平直政によって再興された。

  観音堂の十一面観音立像は当寺の歴史を伝える像で、制作は平安時代に溯る、いわゆる出雲様式と伝えられる像である。出雲様式の特徴は、特に如来像の場合、 螺髪部と肉髻部が一体となって高く、髪際が低く額部が狭い、また腹部の盛り上がりを二条の線で表わすなどの特徴を持ち、仏谷寺の薬師如来坐像等の諸像や万 福寺(大寺)の薬師三尊像などがその代表的な例として知られている。
 しかし、それ以外には典型的な例としては少なく、果たして一様式と呼べるものかどうかという疑問も出されている。

  禅定寺の十一面観音立像は、2mを超える像であるが、頭体部を一木から彫り出す一木造の像で、内刳は施さない。現在は全身が後世の厚い黒漆で覆われ、黒光 りしているが、当初は漆箔像であったと思われる。両裾を大きく広げて直立した姿勢はバランスもよく、実際の像高よりも大きく見える。
 頭部には円筒形の宝冠を戴き、面相は大ぶりな目鼻立ちを持ち、下顎に小さなくくりを彫り込んでいるのが特徴的である。衣文は深く鋭く、やや平面的にはなっているが膝前には翻波式衣文を刻むなど、貞観彫刻の特徴を顕著に表わしている。

 禅定寺には聖観音立像の他に、本堂に安置される阿弥陀三尊像は、聖観音像とよく似た面相を持つ像である。
 いわゆる出雲様式を持ち、下顎に小さな彫り込みを入れる様子なども似通っているが、全体的にはやや硬く、後世に聖観音像や仏谷寺の薬師如来坐像を模して造られた像とも考えられる。
 出雲地方の古像は、日本海沿いに多く残されており、海路からの文化の伝播を感じさせるが、鉄の道でもあった斐伊川の水運も文化伝播に貢献していたことが分かる。

 

聖観音立像

阿弥陀坐像


 禅定寺には、次のような観音の霊験記がある。
  老僧が大雪の年、飢えに苦しんでいた所に一頭の鹿が現われた。老僧は飢えに勝てず鹿の股の肉を切り取って食べようとすると、肉は木のかけらになっていた。 老僧は驚き、本堂の観音立像を見ると右ももに、痛々しい新しい傷跡があったことから、観音菩薩が身代わりになって助けてくれたことを知り、一層修行に打ち 込んだ。

 京都府宮津の成相寺にも全く同じ霊験記が伝わっており、同じ日本海に面した二つの寺に同じ霊験記が伝わっているのも興味深い。 





 


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