貞観の息吹き 
高見 徹

3. 双林寺 薬師如来坐像(京都市東山区) 

 双林寺は、伝教大師最澄が唐から帰朝後、宮中において大 祈祷を 奉修し、請来した天台密教経疏500巻及び護摩の器具を桓武天皇に献上したことから、桓武天皇の命により延暦24年(805)日本初の護摩祈祷道場とし て、この地に伽藍を創立されたと伝える。その際、唐の沙羅双樹林寺の名前を採って霊鷲山沙羅双樹林寺と名付けたという。
 比叡山延暦寺建立後はその 別院となり、
その後、皇室とのかかわりも深く双林寺宮と称され るなど、盛期 には数万坪もの広大な寺領に17の子院を有した。中世には、豊臣秀吉が花見の宴を催すなど桜の名所として知られたが、慶長10年(1605)に高台寺、承 応2年(1653)には、東大谷廟の造営にあたって寺領を献上し、さらに明治時代には円山公園の設営のため寺領を供出したため、今は僅かに本堂宇と飛地 境内にある西行堂を残すだけとなった。
 本堂に安置される本尊薬師如来坐像は、着衣部を朱に彩色し、肉 身部は漆箔とする、いわゆる朱衣金体の像である。朱衣金体は、最澄の高弟で初代天台座主の義真が最澄の遺言により始めたと伝え、以来天台宗に多く見られる 様式である
 本像も平安初期様式を伝える木造の像で、基幹をカヤの本か ら彫出し、膝前に横一材を接ぐ。体部には内刳が施されているが、通常内刳は背面から割って背板を当てるのに対して、本像の場合、胸の部分を表側からるという特殊な内刳を施している。
 破損した仏像の頭部等を納めるための鞘仏として仏像を造立し、 胸の部分を観音開きとして旧仏を拝めるようにしたり、本地仏を胸元に表わすようにした例はあるが、内刳の目的で胸部を開けるのはほとんど例がない。
 破損した旧仏を胎内に安置する等の特殊な事情があったか、ある いは京都・教王護国寺の三神像が、内部にウロのある霊木と思われる木を使って造られているように、平安時代以降の霊木信仰により胸部に傷のある木を使わね ば ならない理由があったのかも知れない。
 本像の面相は特徴的で、眉は鎬立った鋭い円弧を描いている。明 確な目鼻立ちや意志的な口元など厳しい表情を持つ。切付の螺髪は大粒で丁寧に彫られ、肉髻も高く大振りである。
 肩幅や膝張は広く安定感、量感を持つ。衣文は荒いやや粗雑なが ら深く力強い無骨さの残る像である。
 神護寺、東寺をはじめとして多くの遺品が残されている真言密教 系の仏像に対し、最澄が伝えた天台密教系の像は、織田信長による叡山焼き討ちや、度重なる火災により失なわれてほとんど残されていない。天台密教系の像 は、伝教大師御作と伝える像が多く本像もその例であるが、その真偽はともかく、檀像の系譜を引く天台密教系の息吹を感じさせる像のーつである。

双林寺薬師如来




 

 


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