貞観の息吹き 
高見 徹

50.  蓮光院 大日如来坐像三重県津市栄町


 寺伝によれば、四天王寺建立を発願し伊勢の地を訪ねた聖徳太子が推古天皇22年(614)、この地で病いに罹り、伽藍造営も進まずにいたが、太子の師僧恵慈の教示により、自ら刻んだ馬頭観世音菩薩を祀ったのが始まりという。
 その効あらたかで、太子とご家族の病いは平癒し、推古天皇26年(618)にはこの地に四天王寺の伽藍も竣工したという。
 当寺から数百メートル南、安濃川沿いの丘陵地にあったと伝える四天王寺跡からは、奈良時代の布目瓦片が出土し、8世紀に建立された寺院であろうといわれている。蓮光院は四天王寺の子院とも伝えられており、伊勢参宮名所絵図によれば近世までは近在屈指の大寺院であった。
  元和三年(1617)には国家鎮護の道場に当てられ、その後間もなく藤堂家の祈願所となった。その後延宝八年(1680)三代藩主高久公より「初馬寺」な る題額を寄進され、厄除観音として興隆を見るに至った。現在では「津の初午さん」として広く親しまれており、三月初午の日には多くの参詣者でにぎわう。

 かつては多くの寺宝を有していたが、昭和20年の空襲で当時の国宝であった平安初中期の如来坐像など4体を焼失し、現在は如来堂に安置されている大日如来坐像と阿弥陀如来坐像(共に重文)を残すのみである。

 この大日如来坐像は智拳印を結ぶ金剛界の大日如来で、頭部と体部の主要部をヒノキの一材から彫出する一木造で、脚部は別材を矧付けている。両臂から先、膝前材は後世のものに替わっているが、頭体部は損傷も少なく、当初の姿をよく残している。
 腕に臂釧、手首には腕釧をつけ、上半身は条帛を付け、結跏趺坐する。当初は彩色されていたようだが、現在ではほとんど剥落して、唇にわずかに朱が認められるだけである。
 太い鼻梁、分厚い口唇など厳しい面相を持ち、大振りに纏めた宝髻も幅広の面相に良く釣り合っている。また、厚い胸や幅広い肩、太い上膊部など量感のある体躯は力強い。
 
各部の均整もよくとれており、平安時代前期の制作と考えられる。

 これらの密教系の強い像容は、高野山旧金堂諸仏(昭和元年焼失)の金剛サッタ、金剛王両菩薩像の系統を受けた真言密教系の大日如来像であることを感じさせ、中央風の古様な像を多く残す当地にあっても注目される像である。


 

 






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