貞観の息吹き 高見 徹 プロローグ 日本の仏教文化の歴史の中で、平安初期彫刻ほど前時代からの流れが明確でない時代はない。 飛鳥時代は、百済を中心に仏教伝来という大きなエポックメイキングの流れの中で百済をはじめとする外来の文化を受容し、帰化人やその子孫が中心となって中国北魏の流れを汲む仏教文化の花が咲いた。 白鳳時代には中国の北魏から北周、北斉への移行に併い、多様の様式を受容しながら日本独自の文化を作り上げた。 天平時代は、遣唐使のもたらした盛唐様式の成熟文化に直接的に影響され、東大寺大仏に代表されるように、国家レベルで組織された文化として受け入れられた。 藤原時代は、末法思想を根底に、藤原氏に代表される貴族社会や院政を敷いた上皇による大量の造像によって、定朝を筆頭とする職業仏師によって和様の仏教文化が続いた。 鎌倉時代は、戦火による南都寺院の再興需要や、武家社会の要求の中で、天平時代の継承を基本に中国・宋様式の影響も受けながら、定朝の流れを汲む運慶、快慶らが一時代を築き上げた。 これらの時代は、前時代から変貌を遂げたとはいえ、関連付けを辿ることが出来る。 これに対し、平安時代前期は、多くの特徴的な本格木彫の尊像が残されているにもかかわらず、その様式は多様で、仏師をはじめその背景となった系譜も明確でない。 これまでに平安時代初期の様式の誕生の背景となったと考えられる要素を挙げると以下の通りである。 1.造東大寺司が解散して、造像技術者が民間に散り、それまでの金銅仏、乾漆仏など高価な材料を使用することが出来ず、少人数でも制作可能で安価な木造が主流となった。
しかしながら、神護寺薬師如来立像、新薬師寺薬師如来坐像、元興寺薬師如来立像、法華寺十一面観音立像などに代表される、前時代とは全く異なった、また、 日本に影響を与えたといわれる中国・大唐文化にも見られないような衝撃的な遺品が多く現れた事を一言で説明できる原因は残念ながら見あたらず、上に挙げた 要素の複合によって生じたというのが通説となっている。 貞観彫刻に連なる彫像は、奈良だけではなく各地にも残されており、それらを通観することによって新たな発見が得られるかも知れない。 |