貞観の息吹き 
高見 徹

42.  小山寺 十一面観音坐像(茨城県桜川市富谷2190)


 旧岩瀬町は、2005年、真壁町、大和村と合併し桜川市となったが、霞ヶ浦にそそぐ桜川の源流として、能楽の作品「桜川」の舞台で知られる。
  旧岩瀬町の北方に位置する富谷山の山頂はふれあい公園として整備されており、頂上からは、正面に紫峯筑波山を始め富士山、日光連山が望まれる。筑波山は、 奈良時代から平安時代初期に会津恵日寺(慧日寺)を中心に南都六宗の布教を行なった、法相宗興福寺の僧徳一上人が関東で最初に布教をおこなった場所でもあ る。

 小山寺は、富谷山の中腹に位置し、天平7年(735)、聖武天皇の勅願により行基菩薩を開基として創立されたと伝えられ、富谷観音として親しまれている。境内からは岩瀬の町が一望できる。
  南北朝時代、結城、多賀谷、大野の諸氏が堂塔を修造し、江戸時代現在の規模に改修された。境内に建つ三重塔は、相輪宝珠の刻銘により、寛正6年 (1465)多賀谷朝経(たがやともつね)が旦那となり、大工棟梁宗阿弥家吉とその息子によって建立されたものあることが分かる。和様を基調とし、唐様を 交えた細部の装飾は、内部の須弥壇を含め優れたものである。

  本堂の厨子の中には十一面観音坐像が、不動明王像、毘沙門天像を脇士として安置されている。本尊十一面観音坐像は、像高200.5cmの巨像で、面部、体 部、上膊部をはじめ、全身にやや不規則な横縞目の丸鑿の痕を残す、いわゆる鉈彫像である。胸前には瓔珞が共木から彫り出されているが、瓔珞にも模様のよう に鑿跡が見られる。両肩口から剥ぎ付けた腕にも精緻な腕釧が彫られている。

  鉈彫像は、関東・東北地方を中心に多く残されているが、その中でもこれ程大きな像の例は少ない。この像は、頭体部をアサダの一材から彫り出されているが、 脚の部分は別材でカエデ材が用いられている。一体の像で、上半身と膝部分を別材で造ることは珍しく、脚部は時代的にもやや下ると見られることから、アサダ の一木で造られた立像が、下半身が朽損したため、膝部を新しく造り直し坐像としたとも考えられる。
 本像が立像であったとすれば、5m近い巨像となり、茨城県八郷町西光院の十一面観音観音(597cm)や、栃木県日光市中禅寺の千手観音立像(535cm)のような像であったのかも知れない。

 アサダはカバノキ科の樹木で、材質は極めて緻密で、アイアンウッドあるいは 中国では鉄木と呼ばれる程硬く、強靭で割れにくい材料として知られている。また、産地は狭い範囲に限られており個体数も少ない樹木である。
 西光院像や中禅寺像が、立木仏であったという伝説を持つように、アサダを用いたの には霊木であった等、何らかの理由があるのかもしれない。

 本像は、大柄で小さな厨子一杯に安置されているので、全体を捉えるのは難しいが、側面観は鉈彫像には珍しく、頭部、体部ともにかなりの奥行きを持っている。
 胴部は細身であるが、突き出した唇や小鼻の張った大振りな目鼻立ちを持ち、肩幅は広く、膝部も幅広で厚みを持っているなど、様式的には平安時代前期の雰囲気を伝えている。
 しかし、表情は穏やかでのんびりとした雰囲気を漂わせており、衣文の彫りもやや浅く、実際の制作は平安時代後期の制作と考えられる。

 当地は、平安時代前期の聖観音像を有する楽法寺(雨引観音)など、筑波山から連なる一連の仏教文化圏の中にあり、その影響を感じさせる。


 

 






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