貞観の息吹き 
高見 徹

40.  王福寺 薬師如来坐像(神奈川県中郡大磯町寺坂)


 相模の国分寺は海老名、国府は現在の平塚から大磯辺りにあったとされており、付近には伊勢原日向薬師や平塚光明寺観音等、文化財を有する寺院が多く点在する。

  王福寺は、大磯と伊勢原の粕谷地区を結ぶ粕谷街道に面しており、大高山円明院と号し、奈良時代の神亀二年(725)僧行基の創建と伝える古刹である。当初 は500m西北の本堂という地名の山上に七堂伽藍を、また山麓には円鏡寺、延命院、道寛坊、宝持坊、大高寺の五つ末寺が建ち並んでいたと伝える。
  鎌倉時代には、吾妻鏡に見える、建久三年(1192)に北条政子のお産のため神馬を奉納し祈祷をおこなった、相模国二十七社寺の祈祷所の一つとして挙げら れている。その後、永正年問(1504〜1521)の北条早雲の兵火などに遭って伽藍を焼失したが、永禄年間(1558〜1570)に栄範律師によって現 在の所に移された。また寛永七年(1630)火災にあって再び再建された。本尊と仁王を残すのみだったが、その後再興されたという。鐘楼にかかる銅鐘は、 後北条時代の名工、長谷川喜兵衛尉・藤原国久の作であったが、寛永の火災の際、鐘が割れて再鋳されたもので、延宝2年(1674)の銘がある。

 現在収蔵庫に薬師如来坐像一体を安置する。また、隣接する平塚市の八剱神社に伝わる平安時代の不動明王立像(重文)は、一時民間に流出していたものだが、元大高寺に伝わった像であるとされており、本寺と関係深い像であることが知られている。

 薬師如来坐像は頭体部をカヤの一木から彫りだしたもので、ほぼ体の中心をやや斜めに木芯が通っており、背面は地付から大きく内刳して背板を当てている。膝前には芯を持つ横の一材を剥き付けている。
 本来は漆箔の像であったと考えられるが、現在は金箔が失われ、後補の黒漆が施されている。螺髪は植付であるが全て失われ、白毫も後世の水晶の数珠が嵌め込まれている。
正面観、側面観とも量感を持ち、膝の張りや厚みも大きく、膝や衣文に見られる三角状の折り返しなどは平安前期の様式を示している。
 豊かな頬と目尻をやや吊上げた目、突出し気味の口唇など、また、やや硬さの見える衣文の表現などは、箱根神社に伝わる万巻上人像に繋がるものがあり、当地での制作と考えられる。


  







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