貞観の息吹き 
高見 徹

10. 如意観音堂 如意輪観音像(埼玉県越生町如意) 

 如意(ねおい)はかつては修験者の集落、あるいは落人の集落であったという言い伝えがあり、現在も同姓の家が多く、先祖代々この地に住み着いている人が多い。

 かつて蓮華山如意寺という寺があったと伝えており、いつの時代にか廃寺となったが、この地区には他に寺は無く、如意寺由来の観音堂一宇がこの地区を見渡す小高い丘の上にまつられている。観音堂は、元は茅葺きのお堂であったが、仏像を安置する収蔵庫が出来て仏像が不在となった後も地区の人々に守られ、近年人々の寄付により、銅板瓦葺きに修復された。

 如意輪観音像は、もと如意寺の本尊と伝える像で、現在は観音堂に伝えられていた仏像と共に、収蔵庫に安置されている。

 体部を一材から造り出し、前後に割矧いで内刳を施す、いわゆる一木割矧造である。但し、頭部は三道下で差首とする。眉や眼、髪や口髭を墨書し、唇に朱を差すだけの素木像である。巾広い面相や太造りの体躯や下唇を突き出すような独特な表情、精緻に彫出した天冠台、低い帽子状の宝冠などの様式は、平安時代初期の古様を示している。

 しかしながら、胎内には檀越(施主)長春、僧良仁の名と共に応保2年(1162)の墨書銘を持つことから、平安時代末期に造られた像であることが判る。この墨書銘は、胸に当たる内部に書かれているが、墨書銘の部分のみ短冊状に彫り残して、内刳が施されている。墨書銘を記入した後、像を軽くするためさらに彫り進めたものか、後に時代になって、新たに内刳を行ったものか、その理由を含めて不明であるが、現在知られている関東地方の最古の在銘像である。

 如意輪観音像は、奈良時代以前に見られる、滋賀・石山寺本尊像や奈良・岡寺の当初像のように、右足を下ろし半跏にする姿の像と、平安時代以降多く見られる、大阪・観心寺像や奈良・室生寺像のように、右足を立膝とし両足裏を合わせる姿の像があるが、本像は、右足を半跏にする古い形式を踏襲している。

 この時代に、敢えて古様に造られものか、この地が、仏教文化の中央からの影響から取残されていたためか興味のある所であるが、面相の表現や重厚な体躯の表現などには初発性が感じられる。

 如意から、約10km西方の西吾野の山中には、平安時代の古様な軍荼利明王像を有する高山不動(常楽院)があり、昔から修験道場として栄え、現在も4月15日の火渡り神事や冬至の星祭りで知られているが、あるいは、言い伝えにあるように、如意地区がこれらの修験僧の隠れ里として周りから隔離されていたことによるのかも知れない。

 如意観音堂では、11月3日の夜、付近の人々が観音堂に集まり、互いにお餅を取り換える「とっかえ餅」という風習が昔から伝わっており、民俗学的にも興味ある場所である。

 

 


 観音堂の西約400mの所に、越辺川に面して、太田道灌ゆかり「山吹の里」がある。

 道灌が、越生の龍穏寺近くに住む父・道真に会いに行く途中にわか雨に遭い、農家に蓑(みの)を借りに寄ったところ、娘が無言で山吹の花一輪を差し出したのを見て、道灌は「花が欲しいのではない」と怒って帰った。帰城後、近臣にそれは後拾遺和歌集の中務卿兼明親王が詠んだ

「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)ひとつだに なきぞかなしき」

 という歌に掛けて、貸す蓑もない貧しさを山吹に例えたのだと教わり、道灌は己の不明を恥じて、歌道に精進したという。

 現在は、歴史公園として整備され、約3000本の山吹の花が植えられており、4月中旬〜下旬頃にかけて見頃となる。道灌とその父・道真の墓は今も龍穏寺にある。



 

 


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