明王寺は竹原の馬路山南面中腹にある山上伽藍で、天平勝宝年間(749〜56)、孝謙天皇から備前四十八ヶ寺の建立を許された報恩大師によって、その一つとして創立されたと伝えている、
一時期衰退したが、平安時代の中期に、本尊・毘沙門天の霊異を伝え聞いた、京都・鞍馬寺の峰延(ぶえん)
上人が中興し、鞍馬山にちなんで馬路山と号した。
また、瀬戸内三十三観音札所第十一番として、かつては寺中13ケ寺を数え、毘沙門堂、観音堂、鐘楼、仁王門、地蔵堂、智明権現社、山王宮などがあったといい、現在は本堂、客殿(庫裡)と観音堂、地蔵堂、摩利支天堂を残している。
観音堂に安置される
聖観音菩薩立像は、像高166cm、カヤ材の一木造で、背面から大きな内刳を施している。両腕は別木を矧ぎつける。
面相は穏やかでやや小さめに表された目鼻立ちは、微笑んでいるように見える。
天冠台や宝髻の上部をまとめる髪飾り、臂釧・腕釧などは同じ意匠で共木から彫出されており、腹前の裳の折返し部に見られる石帯も古様である。
胸に表わされる乳首は、朱漆で盛り上げられている。菩薩像で乳首が表わされることは珍しいが、平安時代初期に流行した檀像彫刻では、写実的な表現の一環
として眼などに練物を嵌入する例もあることから、写実的な効果をねらったものか、あるいは安産・育児信仰などの理由によるものかも知れない。
上半身は肉身の表現は比較的穏やかであるのに対して、裳や天衣を複雑に表わす下半身は、全く異なった表現を見せる。
膝前に掛かる二条の天衣に加え、腹前にさらに二条の細い天衣を現し、深く複雑な衣文を意匠的に彫出している。特に膝下の翻波式衣文や、裳裾を翻し足首を見せる表現は、檀像彫刻を思わせる。
背面も決して手を抜くことなく条帛の端部なども深く丁寧に表している。
全体的に上半身の穏やかさ、簡単さと、下半身の複雑な表現がアンバランスである。この付近には、明王寺と同様に備前四十八ヶ寺として建立された、余慶寺・
薬師如来坐像や大賀島寺・千手観音立像など、貞観時代の彫像も多く残されていることから、これらの像に倣って制作するに当って、肉身表現より特長の出やす
い衣や裳などに、他像の表現が取り込まれたものとも考えられる。
聖観音菩薩像の両脇には、不動明王像の化身である竜が巻きつく倶利伽羅剣と地蔵菩薩像が祀られている。
境内の摩利支天堂前には土俵があり、毎年10月下旬の日曜日に行われる摩利支天祭には奉納相撲大会が行なわれて多くの人々で賑わう。
奉納相撲大会は一時途絶えていたが、子供達の健やかな成長と、無病息災、家内安全を祈って、昭和57年に復活した。