貞観の息吹き 
高見 徹

41.  慶瑞寺 聖観音坐像大阪府高槻市昭和台町


 高槻は、京都と大阪の中間点に位置し、難波の江から京都まで水路を利用して運ばれた多くの文物の中継点として、今でも多くの文化的遺跡を残している。

 特に高槻には、全国の天満宮の中でも太宰府天満宮に次いで古いとされる上宮天満宮をはじめ、奈良時代に政権の中枢で活躍した中央貴族・石川年足(いしかわのとしたリ)の墓(国の史跡)、および鍍金銅版製の墓誌(国宝)などが残されている。
 しかし、安土桃山時代の元亀4年(1573)に和田惟長を滅ぼして高槻領主となったキリシタン大名、高山飛騨守・右近父子の元で多くの仏教文化財が失われた。このあたりの多くの寺院、仏教文化財が破壊された歴史を持つ。

  慶瑞寺は、持統天皇8年(694)、宇治橋架橋などで知られる僧道昭が創建したと伝える古刹であるが、他の寺院と同様に高山右近の元で多くの堂宇を失っ た。江戸時代初期には、景瑞庵と呼ばれ荒廃していたが、寛文元年(1661)頃、江戸時代初期に普門寺の龍溪が再興して黄檗宗となった。
 境内には、後水尾法皇の歯や仏舎利を納めた聖歯塔、龍溪の木像や遺品を納めた開山堂がある。

 聖観音坐像は、昭和61年に本堂で発見されたもので、現在は位牌堂の一段高い所に安置されている。
 本像は、像高57.4cm小像で、頭体部はもちろん両腕、膝部まで全体をカヤの一木から彫り出された一木造の素木像である。わずかに、左手首と右手の前膊半ばで、別材を矧ぎ付けている。
 面相は奥行きもあり、高い鼻梁に繋がる切れ上がった眉や、鋭く彫り込まれた眼、小振りながら突き出した唇など理知的で、頭上の高く大振りな宝髻も古様である。
  また、体躯は引き締まった上半身や高く量感のある膝張を持ち、天冠台や腕釧の精緻な彫りや粘りをもった衣文の彫りなど檀像彫刻を思わせる。特に、垂髪、宝 冠から両肩に複雑に懸かる冠帯や条帛・天衣の端部にうねりを持たせた表現、膝前の深く鋭い衣文は、技巧的で手慣れた造作技量を感じさせる。 奈良時代末期 から平安初期にかけて入唐僧などによってもたらされた檀像に倣って、早い時期に我が国で制作された像であろう。

 高槻には、同じ黄檗宗の広智寺に奈良時代末期の木彫像の流れを汲む聖観音立像が伝わっており、これらの影響下に造られた像といえるかもしれない。











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