貞観の息吹き 
高見 徹

11. 羽下(はちだ)薬師堂 薬師如来立像(栃木県宇都宮市下荒針町) 

 羽下薬師堂は、平安時代の一大石仏群である大谷石仏で知られる大谷寺の南西約1kmにある、下荒針町羽下にあった墓地の中の小堂である。
 当地、旧城山村荒針地区は、大谷石の採掘が始められた場所として知られているが、遠く奈良時代から採掘が行われていたと伝えられており、下野の 薬師寺、国分寺の礎石にも使用されている他、石室に大谷石を使用した古墳も見られる。
 城山の地名は、中世の末ごろに宇都宮氏が宇都宮城から当地の多気山城に本拠を移したことに 由来しており、付近には多気山城の出城であったと考えられる、羽下城の遺構も残されている。
 荒針の地名は大谷石の石切り場に切り立つ端の尖った奇岩の様子から来たとも、大谷寺に伝わる毒蛇伝説に因んで毒蛇の牙から来たともいわれている、

 羽下薬師堂の薬師如来立像は、この小堂で昭和32年に発見された像で、現在、荒針町から程近い駒生町・能満寺境内の真新しい薬師堂に安置されている。
 発見された当時は、螺髪、両手先、両脚、背面腰下などが失われていたが、現在は全て復元修理されている。
 本像は、両腕まで力ヤの一木で彫出し、内刳は施さない、一木造の像である。面相は大振りの目鼻立ちを持ち、広い肩幅や、厚い胸板、Y字型に刻まれた下腹 部の衣文や両腕から垂れる袖に刻まれた翻波式衣文、両腿を隆起させた表現など、全体的な塊量感やモデリングは古様であり、奈良・元興寺薬師如来像や、神護 寺・薬師如来像などの貞観仏を彷彿とさせる。
 頭部には後補の大粒の螺髪を丁度カツラのように取り付けてあり、失われていた脚部も、上記の両像に倣って修復されているため、余計にそのように見える。 しかしながら、衣文線の鎬(しのぎ)の弱さや、森厳さにかける表情などは、本像の制作がやや下ることを物語っている。

 この地は、地域的にも大谷寺と関連が深かったと考えられる。大谷観音として知られる大谷寺は、大谷石の巨岩の下部に口を開けた石窟状の岩屋の石壁面に平安時代から鎌倉時代の様式を伝える多数の仏が半肉彫りで彫られている。
 本尊千手観音立像は、像高389cmの巨像で、岩面を大まかに彫出した上に表面を塑土で仕上げるいわゆる石芯塑像の技術を用いている。現在は塑土が剥が れて細身の体躯に見えるが、その雄渾な造形は塑土で仕上げられていた当初は平安初期彫刻につながる様式を持った像であったことを思わせる。
 大谷石仏は、石質も柔らかい凝灰岩に彫られており、壁から離れた腕などは手首をホゾで繋ぐなど、石工だけでなく木彫仏師集団が造立に関わったと考えられることから、その影響下で平安初期の様式を伝える木彫像が当地で造られても不思議はない。

 大寺に伝わっても、火災や廃仏毀釈、為政者たちの気まぐれで朽ち果てていく尊像が多い中で、純粋な信仰によってひっそりと伝えられたが故に、時代の変化にも過剰に影響されること無く残されたと言えるのかもしれない。

 

 大谷石は多孔質の凝灰岩で、比較的軽く、加工が容易で耐火性に優れた石材質である ことから、明治時代には、建築材料としての需要が急増した。明治30年(1897)には、宇都宮市内まで人や石材を運ぶための人力の人車軌道が敷かれ、積 み込みのための始発駅として荒針駅が設けられた。また、大正4年(1915)には蒸気機関車の鉄道が開通し、東武大谷線として採掘・運送事業は全盛期を迎 えた。しかし、次第にトラック運送が中心となるにつれて鉄道の需要が減り、昭和39年(1964)ついに全線が廃線となった。現在廃線跡は道路に変わり、 所々に残る架線用電柱や橋梁にその姿を忍ぶだけである。

 羽下薬師堂はこの旧荒針駅舍のすぐそばに位置し、その栄枯盛衰を我身に映して眺めてきたのであろうか。



 

 


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