貞観の息吹き 
高見 徹

22.  普門寺 千手観音坐像(兵庫県赤穂市尾崎) 


  天台宗の明王山普門寺は、聖徳太子の開創、慈覚大師の創建と伝えられている。かつては、天台宗長安寺とともに、赤穂城下の東北、雄鷹山にあったが、数度にわたる兵火により堂宇を焼失した。
 両寺は慶応2年(1866)に再建され、その後、両寺院が統合し現在の地に移されたという。

  平成14年に改築された本堂は、普く(あまねく)開く門という意味で普門殿と名付けられ、四方に薬師如来の瑠璃光世界を表現するというステンドグラスなど を取り入れた、近代的な明るく開放的なお堂で、アコースティックなピアノ、バイオリンなどの小コンサートにも開放されており、若者達にも親しまれる場所と なっている。

 本堂の中央に安置される本尊千手観音坐像は、もと、京都の高雄山神護寺に祀られていた像で、応仁の乱などの幾多の兵火をのがれて当寺に移されたと伝えられている。また南北朝時代播磨の守護職であった赤松則村(円心)が厚く信仰していたとも伝えられている。
 本像は、戦後美術院の技師であった西村公朝氏によって本格的な修理が行われたが、記録によれば、修理前は、脇手がほとんど取れた状態で、相当に痛んでいたそうだ。現在は、42臂の脇手をはじめ頭頂部の化仏まで元のように丁寧に修復されている。
 脇手を左右に拡げ全体が円を描くように配置された姿や太造りで塊量的な体躯、重厚な面相、太造りの腕などが像に安定感を与えている。また、荒く纏めた髪を天冠台で束ね、髪の一部を垂髪として両肩にかける表現や、厚く量感のある体躯は、平安初期に遡る古様を伝えている。

  全体の造形的には貞観仏の特徴を有する香川・屋島寺千手観音坐像と近い像容を持っているが、屋島寺像と比較すると、面相は穏やかで、膝前の衣文線などもや や浅く形式的になっており、制作は平安時代も中頃に降ると考えられる。
 本像は神護寺旧蔵の伝承を持つものの、香川・屋島寺千手観音像に地理的にも近く、そ の明かるく大らかな像容は瀬戸内文化の影響下で生まれた像と言えよう。

 本像は、以前観音堂に安置されていた時は灯明の明かりで下から照らしていたが、本堂に移した際、配置上から上からの照明に変えたそうだ。そのお陰で像の表情が随分穏やかになったという。
 試しに上からの照明を消して頂いたところ、穏やかだった面相が厳しい顔つきに一変し、ますます屋島寺像との共通点を伺うことが出来た。

 



 


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