貞観の息吹き 
高見 徹

55.  福田寺 龍神像京都市南区久世殿城町


 福田寺は長岡京跡の北東1.5kmに位置し、奈良時代の奈良時代の養老二年(718)に行基によって、釈迦如来像、地蔵菩薩像を本尊として開かれたと伝えられている。    
 平安時代には、七堂伽藍を備え、東寺よりも更に壮大な規模を誇る大寺院であったが、応仁の乱の戦火で焼失し、寺域が大幅に縮小された。    
 平安時代末期には百人一首の詠み人で有名な歌人、俊恵法師が住職を務めたといい、境内には、俊恵法師の供養塔と歌碑が建てられている。


 本堂の脇の龍神堂には、京の名水の一つとして昭和30年頃まで実在した「板井の清水」から出現したと伝わる龍神像や弘法大師が中国の皇帝から賜ったと伝わる麻耶夫人像などが祀られており、雨乞いや安産の寺として信仰を集めている。

 新しい本堂に安置される本尊、釈迦如来立像、地蔵菩薩立像は、両肩先を除く頭体部を蓮肉部を含め一木から彫り出した堂々たる一木造りの像である。
 特に地蔵菩薩像は、両腿を隆起させ、いわゆるY字型衣文を明確に刻み、平安初期様式を示している。量感や衣文線などは、奈良・元興寺の薬師如来立像を彷彿とさせる古様な形式を持っている。
 しかしながら、残念なことに上半身からY字形衣文にかけて後世の彫り直しが見られ、尊容を損ねているのが惜しまれる。また、釈迦如来立像の方は本来の彫り口が判然としない程度まで、面相を含め全身に後世の鑿痕が残されている。
 しかし、後世の彫り直しがあるとはいえ、このような像が、今も伝えられていることは誠に貴重と言わざるを得ない。

 脇堂に安置される龍神像は、踵を立てて両膝をつけて座す、いわゆる跪坐の像である。
 古老の話では、近年まで雨乞いの儀式で像に水を掛けていたといい、表面はかなり朽ちているが、裸で褌をつけ筋肉隆々とした腕、太腿、目鼻立ちの大きな奇異な面相等、小像ながら迫力のある像である。

  類例が少ないため、制作年代を特定するのは難しいが、強いて言えば、岩手・成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天像の眷属である尼藍婆・毘藍婆の像に近く、全体的な 隗量感や筋肉の表現などから、平安時代の早い時期の制作が考えられる。現在は両手を腹前で組む姿に表されているが、両肘先は後補であり、当初の印相は不明 である。

 成島毘沙門堂と同様に鬼の像であるとすれば、日本では鬼だけを単独像で表すのは、奈良・興福寺の天燈鬼・龍燈鬼などを除いてほとんど例がないことから、兜跋毘沙門天像の眷属として制作された可能性も考えられる。
 毘沙門天は、四天王の内北方の守護神である多聞天が独尊で祀られる際の呼び名であり、特に中国の西域地方で外敵追放の神として信仰された兜跋毘沙門天像は、平城京の正門である羅城門に安置されたほか、京都の北に位置する鞍馬寺にも安置されたことが知られている。
 福田寺は長岡京の北方に位置し、近くの乙訓寺にも平安時代の毘沙門天立像が伝わっていることなど、長岡京造営長官であった、藤原種継の暗殺など当時の世情不安を今に伝える貴重な像であるのかも知れない。

 
福田寺 地蔵菩薩立像

 
 福田寺 龍神像          成島毘沙門堂 尼藍婆

写真提供:福田寺殿、朝田純一殿、橋本昇殿






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