貞観の息吹き 
高見 徹

21.  圓證寺 普賢菩薩騎象像(奈良県生駒市上町) 


 圓證寺は、寛平年間(889〜897)に大和郡山の地に筒井氏によって創建されたと伝える。その後、戦国時代の武将筒井順昭が奈良市内に設けた外館を、その子筒井順慶が、父順昭の菩提を弔らうために大和郡山から寺籍を移して寺としたという。
 元は、近鉄奈良駅に近い林小路町にあったが、奈良市街地の高層化に伴い、周囲の騒音・振動を避けるために、昭和60年に生駒市の現在地に移った。
その際、重要文化財に指定されている本堂も解体改修され、本尊と共に当地に移された。

 本堂に安置される釈迦三尊像は、元来一具のものではなく、三体それぞれ制作年代は異なっている。
 中尊・釈迦如来像は慶派の流れを汲む鎌倉時代の作、文殊菩薩騎獅像は、正統の定朝様式を伝える藤原時代の作、また、普賢菩薩騎象像は、平安時代初期の様式を伝え、それぞれに都振りの作風を持つ像である。

  このうち、普賢菩薩騎象像は、頭頂部から蓮肉の一部まで含めてー本から彫出する古様な形式を示す像である。頭部は、巾広で奥行のある面相に大振りで明暸な 目鼻立ちを刻み、高い宝髪を持っている。また、上下に押し潰したような短躯の量感のある体躯や巾広で高い膝部、深い衣文線や、両肩口に刻まれ大振りの施転 文、膝前の茶杓形衣文などは、典型的な貞観仏の特長を示している。
 しかしながら、体部に比して上膊部はやや細く、全体的に穏やかな表現が見られることから、制作年代はやや下るものと考えられる。
  本像は、現在は象をかたどった台座に乗る普賢菩薩騎象像であり、釈迦如来の脇侍となっているが、台座の象は蓮台を含めて後補であり、本体と共木から彫り出 されていた蓮肉部の周囲を削り取って、後補の蓮台にはめ込まれている。このことから、当初は独尊として造立された像が、三尊の脇侍として転用されたと思わ れる。

 本像の伝来は不明ではあるが、 本像に近い像として、奈良博所蔵の薬師如来坐像や弥勒仏坐像があり、この時代には個人拝仏のための像が多く造りはじめられており、当初の寺領から考えて、 興福寺を氏寺とした藤原氏などの貴族が関連した、然るべき貴族の私寺の本尊または念持仏として造られた像と考えられる。

 

圓證寺・普賢菩薩騎象像

生駒市デジタルミュージアムより



  本寺の創建に係った筒井順慶は、父順昭の死後わずか2歳で家督を継ぐことになったが、余りにも幼ないため、父に似た木阿弥という僧侶を身代りに仕立て、暫 くの間父が生きていることにしたという。順慶が成人し正式に家督を継いだ際、木阿弥は、自分の村に戻って再び僧侶となり、元の木阿弥陀を名のった。
 「元の木阿弥」というと、努力が報われず元の状態に戻ることに使われることが多いが、本来はこの故事から、首尾を遂げて元に戻ることをいうのだそうだ。



 


inserted by FC2 system