貞観の息吹き 
高見 徹

63.  長林寺 聖観音立像奈良県天理市櫟本町

  天理市北部の和邇町は、かつて、応仁天皇の代に中国から渡来し、5、6世紀の天皇家に多くの后妃を出して姻戚関係を結んだ古代大和の豪族、和邇(わに)氏 一族の本拠地であったとされている。                
 和邇町の南にある東大寺山古墳からは、装飾環頭付きの太刀5本 を含め鉄刀20本、及び鉄剣9本が出土している。中でも中平銘鉄刀と呼ばれる鉄刀は後漢末の年号中平(184−188)の銘文が金象嵌されており、この太 刀が二世紀後半に中国で制作されたことが分かる。この古墳の築造は四世紀末といわれており、この太刀が和邇氏の手を経て200年後にこの地に伝えられたも のであろう。

 和邇氏の勢力範囲は和邇町から西の櫟本(いちのもと)町一帯に及んでいたと考えられる。

 櫟本町からは、奈良時代に前期に建立された長寺廃寺跡が見つかっており、掘立柱の建物跡二棟分が確認されている他、付近一帯に古瓦片が出土し、長寺、瓦釜、大門、経堂などの地名が現在も残っている。
 また、近くには同時代の寺院跡も数カ所点在しており、弥生時代中期の遺構から壺も出土している。
 長寺廃寺からすぐ南にある高良(こうら)神社も長寺廃寺の境内に位置しており、地域の産土神 (うぶすながみ)として土地を領有、守護する神の性格も有していた。
 櫟本は、桜井市から天理市を経て奈良市中部に至る上ツ道と飛鳥へと通じる北の横大路が交差する古代の主要幹線であり、交通の要所でもあったことから、和邇氏がこの地を本拠地に選んだのは想像に難くない。

 長林寺は、長寺廃寺から東約100mに位置し、現在は小堂のみ が残される。長林寺には古文書類がほとんど残されておらず、その歴史は不明であるが、江戸時代の古地図では、現在の場所には辻堂あったとが記されているこ とから、長寺の一堂であった辻堂がその後長林寺と統合されたものと見られる。

 本尊聖観音立像は本堂の厨子の中に安置されている。

 宝髻と腕先を別材とする他は、遊離する天衣や両腕まで針葉樹の一木で彫出されている。像高約1m程度の像ではあるが、ここまで一木で彫られた像は少ない。背面は、右側が極端に厚い不整な背板が当てられている。
 観音講が出版した報告書によれば、頭部と体部に段差があり、木屎漆状のもので固めていることから、頭部と体部は別の像のものを繋いだのではないかとされている。また、地髪部に木屎漆状のもので塞がれた穴が残されており、当初は十一面観音像であったことが分かる。
 古老の話では、ある時期にこの寺が取り潰しにあって、仏像を廃棄するようにいわれ、やむを得ず首を切ったが、村で密かに隠し伝えており、その後別の像と組み合わせて一体としたと言い伝えられているという。
 面相は、奥行きもあり、円形に近い顔立ちや両頬の張った森厳な表情は、9世紀の像に見られるような造型を見せている。
 体部も一木であり、平安時代も早い頃の像と考えられるが、相当な彫り直し及び削ぎ落としが見られ、あるいはこれも首をすげ替えた際に頭部に合わせるための細工であったのかもしれない。
 本像は、平成18年に初めて調査が行われ平安時代に遡る古像であることが判明したもので、このような像がこの地方に眠っていたことに驚かざるを得ない。



   

 
     






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